「…………」
 ふと目を開けるとまだあたりは暗く、夜中であることがわかった。
 相変わらず、隣というか……腕の中では彼女が大人しく寝息を立てている。
 起こさないように腕を抜いてから剥がれかかっている冷却シートを戻すと一瞬だけ動きを見せたが、今回は起こすことなく済んだ。
 ……あ。
 服着せてなかったことを今ごろ思い出し、慌てて服を纏わせる。
 病人に対して酷い仕打ちだな……。
 ……って、それを言ったらさっきまでの情事こそどうなんだってことになるだろうが。
「…………っ」
 パジャマを着せてやると、目に入るのは……先ほどまでの情事の証。
 赤みを帯びた肌に残る、いくつかの跡。
 ……参ったな。
 最後のボタンを留めながら彼女に布団をかけると、自然にため息が漏れた。
 それも、そのはず。
 こんな状況の彼女を抱くつもりなんて、微塵もなかったからだ。
 ――ー……少なくとも、家に連れてきたときまでは。
 それが、いつもと違う彼女に甘えられて、不謹慎ながらもセーブが利かなくなった。
 …………参った。マジで。
 こんなこと、誰にも言えない。
 風邪で熱出してる彼女に屈服して、おいしくいただいてしまった、なんて。
 非難されることこのうえない状況だ。
 肘枕をつきながら彼女を見ていると、申し訳なさもあるのだが……やはりそれ以上に愛しさがこみあげてくる。
 頬にかかっている髪を払ってやると、うっすらと笑みを見せた。
 ……ああもう。
 なんでそんなにかわいいんだ、君は。
 自然と笑みが漏れ、いつも以上に穏やかな気分になった。
 これほど、彼女に関わって自分が変わったことは、これまでの俺を知る人間ならば信じないかもしれない。
 けど、今の俺は事実。
 彼女がいなければ、恐らくいろいろと……不適応なままだっただろう。
 逆に言うと、彼女さえいてくれればどんなことでもやっていけるワケで。
 たとえ周りに無理だと頭ごなしに言われようとも、やり遂げられる自信がある。
 彼女がそばにいて、願ってさえくれれば。
 それこそ、今の自分のモチベーションすらも彼女によって左右される。
 ……これは、すごいことだ。
 これまで、誰かに左右されるような生き方はしてこなかったから、こそ。
「………………」
 自分より年下で、教え子で……。
 そんな彼女が、俺のすべてを握っているんじゃないかとすら思う。
 彼女のためならば、どんなことでもしてやりたいと思うし、やる。
 できない家事だろうがなんだろうが、彼女のためならば。
 うまくできる自信はないが、それでもやれるだけのことはしてあげたい。
 ……こうして風邪を引いて、俺を必要としてくれた彼女。
 その存在を、これからも大事にしていきたいと思う。
 むしろ、何ひとつ変わることなくこれからもずっと……。
「…………ね」
 こちらに寝返りを打った彼女の髪を撫でてから抱きしめるように身体の向きを直し、いつしか自分も再度眠りに落ちた。

「っ……」
 打って変わって、今度は眩しさで目が覚めた。
 ……何時だ……?
 カーテンの隙間から差し込んでいた光に背を向けるよう寝返りを打ってから、時計を探る。
 指先に当たる硬い感触を引き寄せて瞳を開けると、9時少し前だった。
 ……もう少し寝たい……。
「………………」
 …………って、ちょっと待て。
 彼女を放っておくわけにはいかないよな。
 引き寄せるように腕に力を入れ、目を……開ける前に。
 予想に反して、腕は空を切った。
「……あれ!?」
 一気に目が覚める。
 ……ない。
 いや、この場合はいないってのが正しいのか。
 がばっと身体を起こしてベッドを見るものの、やはりそこに彼女の姿はなかった。
「どこに……」
 って、トイレ……とか?
 ふとそんなことを考えたとき、リビングから物音。
 飛び降りるようにベッドを降りてそちらに向かうと、至って平然と洗濯物を畳んでいる彼女の姿があった。
「ちょっ……! 何してるんだよ! ちゃんと、寝てなきゃダメだろ!?」
「あ、先生。おはようございます」
 慌てて声を荒げるが、相対するように彼女が見せたのは笑みだった。
 ……って、だから!
「いいから、寝なさい!」
「だ、だって……! もう、熱も下がったんですよ? それに、今日は――」
「治りかけが肝心だって言うだろ! ンなこと、俺がやっておくから!!」
「ま、待って! 先生っ」
 ぐいっと手を引いて立ち上がらせる……と。
 確かに、昨日の彼女の熱さがなかった。
 いたって普通……というか、普段の彼女の温もり。
「……あれ?」
 思わずまばたきすると、くすくす笑いながら彼女が首をかしげた。
「ね? 大丈夫ですよ。もう、熱下がりましたから」
「……けど……」
「それに、今日はやらなきゃいけないことがたくさんあるんです! アイロンだってかけなきゃいけないし、ベッドのシーツも洗いたいし……」
 いつも通りの彼女のころころとした表情を眺めていると、どうやらまじまじと見すぎだったこちらに気付いて柔らかく笑った。
「……先生、ありがとう」
「え……?」
「昨日は、ずっと看病していてくれて……。とっても嬉しかったです」
 少し照れたような笑み。
 そんな彼女に瞳を丸くすると、くすくす笑ってから『ありがとうございます』と再度口にした。
「……そっか。元気になってよかった」
「先生のお陰ですね」
 ぽんぽんと頭に手をやりながら髪をすくうと、さらりと指の間を通る。
 ……あれ?
「え、風呂入った?」
「うん。昨日入ってないし」
「……そっか」
 いつも通りの俺と同じシャンプーの匂いに、つい笑みが漏れた。
 やっぱり、このほうが落ち着く。
「……でもさぁ……」
「わっ!?」
 ぎゅっと抱きしめて耳元に唇を寄せると、慌てて身をよじった。
 ……まぁ、そんな簡単に離してやるほど甘くないけど。
「昨日はやたら甘えてきて……大変だったんだぞ? こっちは」
「……え? 何が……ですか?」
「…………いや、だから。それは、まぁ……いろいろと」
 きょとんとした瞳に、思わず言葉を濁す。
 ……言えるワケないだろ。
 風邪で苦しんでる彼女を前に欲情してた、なんて。
「でも、私……そんなに先生に甘えて……ました?」
「……何言ってんだよ。さんざん『ひとりにしないで』って言ってたろ?」
「っ……私が?」
「羽織ちゃん以外に誰が言うんだ」
 不思議そうな彼女に瞳を細めると、何やら考え込むように視線を落とした。
 ……覚えてないとか言わないよな。
 だって、あれだけ言ってたんだぞ?
 とてもじゃないが、熱でうなされて朦朧と……って感じでもなかった。
「えっと……実は、あんまり……っていうか、よく、覚えてないんです……よね」
「……え?」
 予想外の言葉に、目を見張る。
 ……え。
 ウソだろ?
「いやいやいや、だってあんなに……言ってたじゃない」
「でもっ、ホントに……その、覚えてない、です」
 困ったような表情からして、ウソをついているとは思えない。
 ……でも、あれだけ言ってて……俺にべったりくっついてきて。
 …………マジか。
 考え込んでしまった彼女をまじまじと見るが、確かに演技くささなどは微塵も感じられない。
 ……ほう。
「なるほど。まぁ、いいけど。……珍しくあんなことやこんなことまで言ってたし」
「なっ……!? え、な、なんですか? 私、何か言ってました!?」
「覚えてないんだろ? なら、内緒。……いいこと聞いたなー」
「えぇ!? ちょ、ちょっと待って! 先生、なんて言ってました? 私、何を――」
「だから、内緒だってば」
「やっ! ずるいですよ!!」
「ずるくないだろ? 失礼だな。……さて、メシでも食うか」
「あっ。先生っ!?」
 にやっと意地悪く笑みを見せてキッチンに回ると、慌てたように彼女があとを追ってきた。
 困ったようにこちらを伺う、表情。
 それは、いつもの彼女らしいもので、やはりほっとした。
 ……健康に勝るモノはないな。
 彼女には、いつもこうして笑っていてほしい。
 いろいろしたくなるのは、それがあってこそ。
 今回は、彼女の大きさを改めて実感する大きな出来事になった。
 でも、これから先は……当分こういう思いはしないに限る。
 まぁ、彼女が俺にあれだけ甘えてきたっていうのを覚えていないというのは、それはそれで結構イイんだけど。
 ……俺のみぞしる、って状況はね。
 くるくると様変わりする彼女の表情を見ながら、つい笑みが漏れた。


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