「祐恭君てさ」
「え?」
 準備室で、普段と同じく授業のプリントをコピーしていたとき。
 机に頬杖をついたままで、純也さんが声をかけてきた。
 元原稿を取り出しながら向き直ると、やけに楽しそうな顔で……なんとも不思議な感じだ。
 ……なんだろ。
 彼が普段こんなふうに何か企んでいそうな笑みを見せることは、まずない。
 だから、少し気になった。
「なんすか?」
「鍋って、好き?」
「鍋……って、あの鍋?」
「うん。キムチ鍋とか寄せ鍋とかの、鍋」
「……まぁ……嫌いじゃないっすけど」
 コピーを終えた用紙を揃えてから机に戻り、輪ゴムで束ねる。
 そのとき。
 彼の瞳がわずかに光ったような――……気がしたのは気のせいだろうか。
「週末、ウチ来ない?」
「……は?」
「いや、鍋やろうと思ってるんだけどさー。絵里とふたりじゃ面白く……じゃなくて、つまんないだろ? ふたり鍋なんて。どうせだったら、大勢で食ったほうがいいし」
「そりゃまぁ……」
「だからさ。羽織ちゃんも連れて、おいでよ」
 相変わらず、笑みを浮かべたままの彼。
 なのだが……なんとなく、引っかかる。
 でもまぁ、別に何かヘンなことがあるわけじゃないだろうし……。
「いいですよ。じゃあ、お邪魔します」
「……よし。言い切ったな?」
「……え?」
「じゃあ、材料持ってきて。……食える物で」
「は……ぁ」
 トントン、と机でプリントを揃えてから彼が立ち上がり、こちらにいたずらっぽい笑みを見せた。
 なんだ……?
「あぁ、言い忘れてたけど。ウチの鍋、取ったら最後まで食うっていう約束だから」
「……あの……ひとついいっすか?」
「ん?」
 恐る恐る彼を見ると、それはもう、これでもかってくらい楽しそうな顔をしていた。
 ……そんな……えぇ?
「ひょっとして……っつーか、普通の鍋っすよね?」
「んー? 誰が普通だって言った?」
「え」
「……楽しみだねぇ、30日。本当なら、31日だけど……。ま、1日前でも一緒だよな」
「じ……純也さん?」
 彼に手を伸ばしたままの格好で固まる俺を残したまま、彼はにやっとした笑みを見せてから背を向け、とっとと実験室に向かってしまった。
 引き止めることもはばかれるような、妙な威圧感。
 ……こえぇ。
 え、鍋……って、普通の鍋じゃないのか……?
 ていうか、31日ってなんだ?
 彼が言い残した言葉を思い出しながら、カレンダーに視線を向ける。
 ……と。
「……マジで?」
 10月31日。
 そう、この日は……いわゆる、あの日。
 13日の金曜日とは違うものの、まぁ似たようなもの……っていうか。
 あの純也さんが何を企んでいるのかがわからず、正直ものすごく不安になる。
 ……なんだ、この言いようのない不安は。
 ――……このとき。
 俺はまだ、週末起こり得るものすごいこというのを、まったく予測できていなかった。

『Trick or Treat』

 ……Trickしかなかったら、どうしよう。
 重い頭で、そんなことを考えたのは……もうしばらく経ってからのことだった。

 いつもと何も変わらない、土曜日の午後。
 ……なんだけど。
 午前中は普段通り学習をした彼女が、現在はキッチンに立っていた。
 しかも、なぜかやたらと楽しそうに。
 ……いや、もう昼飯はとっくに食べたし、あと片付けも終わっている……はずなんだが……。
「……何してるの?」
「え? ……内緒」
 ソファにもたれたまま声をかけると、妙な含み笑いを返してきた。
 ……なんだよ、その顔は。
 思わず、眉が寄る。
「…………」
 あの顔といい、あの言い草といい。
 やっぱり気になるものは気になるので、立ち上がってキッチンに向かい、その様子を観察することにした。
 ――……が、その途端。
「ぅわ!? だ、ダメですよっ!!」
「な……んだよ、急に。っていうか、いいだろ? 何してるの?」
「ダメなのっ! もぉ……面白くなくなっちゃうでしょ!」
「……何が面白いんだって」
「だからぁ……それは、内緒っ」
 眉を寄せてキッチンの端まで追いやられ、背中に壁が当たる。
 ……と言っても。
「……何? 肉団子?」
「もぅ! 見ちゃダメですってば!!」
 身長差があるお陰で、十分すぎるほどによく見えたりするんだが。
 ……ひょっとして、鍋の材料?
「……何入れる気だ?」
「…………内緒」
 眉を寄せて彼女を見るものの、えへへ、といたずらっぽく笑った彼女に、背中を押されながらリビングまで戻された。
 ……すげー気になる。
 なんなんだ? いったい。
 ………………あ。
「そういや、知ってる?」
「え?」
 くりっと顔だけをそちらに向けて声をかけると、きょとんとした瞳がまばたいた。
「そーゆー肉ダネをこねると、手に油が付くだろ?」
「え? ……あ、うん」
「そういうときは、砂糖で洗うとキレイになるんだよ」
「……砂糖って……あの?」
「ほかに砂糖はないだろ」
 ふっつーに聞き返したな、おい。
 ほかに『さとう』って名称の物があるなら、ぜひ教えてほしい。
「脂でギトギトになった手に砂糖を取って、そのまま手を擦る。で、水で流すと結構落ちるよ」
「へぇー! 先生、すごーい!! 雑学王みたいですね」
「まぁね」
 これでも、化学のセンセイですから。
 にやっと笑みを返すも、それはそれは見直したような顔で拍手をしていた。
 ……っとまぁ、マメ知識を披露したところで改めて彼女に笑みを見せると、かわいく首をかしげて『ん?』という顔をした。
「じゃ、情報交換ね。今、何してんの?」
 ……。
 ……なんだ、その途端に見せたヘンな顔は。
「そのぉ……あの、ナイショ……」
「気になるだろ? ンな、隠されたら」
「だって、面白くないでしょ? ……って、田代先生にも言われたし……」
「純也さんに?」
「うん。先生には内緒にしといて、って」
 ……そんな話は聞いてない。
 つーか、いったいどんな鍋を企画しているんだろうか。
 普通じゃないとなると……やっぱ、アレか?
 なんせ、『Trick』だしな。
 やたら楽しそうに料理(らしきこと)をしている彼女は、とてもそんな悪いことを企んでいるようには見えないんだが。
 ……A型は怖いな。
 ふと、そんなことが頭に浮かぶ。
 普段大人しい人間は、ときとして考えられないようなことを思いつく。
 いや、まぁ……純也さんが大人しいのかどうかと聞かれると判断に困るんが、少なくとも普段は俺のほうが彼女を翻弄する側に立っているから、彼女に対しては間違いないと思う。
 そんな彼女が、今、ものすごく楽しそうに何かを仕込んでいるのも、わかる。
 そして、純也さんが何かとんでもない鍋を作ろうとしていることも。
 食える物が入ってればいいけど……っていうか、普通の鍋がいいんだけどな。
 普段温厚であるはずのふたりが妙なタッグを組んでいるような気がして、時間が進むに連れてどんどんと気が滅入っていった。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 頭を下げて先に玄関へ入ったのは、羽織ちゃんだった。
 手には、家から持って来た紙袋がある。
 ……普段と変わらない純也さんの笑みが、今日ばかりは少し不安だ。
「…………」
 彼のあとに続いてリビングに向かうと、こたつで丸まっている絵里ちゃんがいた。
 ………やる気ゼロだな、おい。
 ぼーっとして動く気配のない彼女を見てから正面に座ると、やっと気付いたようで俺を見た。
「あ。いらっしゃい」
「……絵里ちゃんは、何もしないわけ?」
「私? やるわけないじゃない。鍋のときは純也が仕切るし」
「……あ、そ」
 平然とそんなことを言ってから、頬杖をついてキッチンへと視線を向けた。
 つられるようにそちらを見ると、純也さんと羽織ちゃんが何やら楽しそうに話している。
 テレビがついているので会話までは聞こえないが、とにかく、やたらと楽しそう……な純也さん。
 そして、若干不安げな表情の彼女。
 ……対照的すぎる。
 差がありありと目に映り、少しだけ喉が鳴った。
「でも、先生ってば……純也の鍋、よく食べる気になったわね」
「……なんだよ、そんなにすごいのか?」
「すごいなんてもんじゃないわよ。……ていうか、中に何入ってるかわかんないし」
「は!?」
「だから。純也の鍋は、中身が何かわかんないの」
 少し呆れたような……諦めたような絵里ちゃんに瞳を丸くするも、わずかに肩をすくめて見せただけ。
 え、あれ、ちょっと待て。
 ……そんな話、聞いてないぞ。
 ていうか、アレか?
 それは、やっぱり――……。
「ほら、明日ってハロウィンでしょ? だから、闇鍋やるって言ってたのよね」
「やっぱり……」
 一気に疲れが出た。
 闇鍋という言葉には、ものすごく抵抗がある。
 なぜならば、学生時代に1度、ものすごいたぐいの鍋を食った覚えがあったからだ。
 ……純也さん……まさか、ですか。
 時おり聞こえてくる楽しげな笑い声を聞きながら、テンションはきれいに右肩下がりだった。

 あの鍋は、たしか寒い冬の日だった気がする。
「……よし。最後まで残さずに……いただきまーす」
「……食えるか、こんなモン」
「食えるとか食えないじゃないんだよ。食うの。どぅーゆーあんだすたーん?」
「……はぁ」
 目の前に置かれた、カセットコンロとデカい鍋。
 どうしてこの人数でこの量かと思わせられる大きさだった。
 ……その前に、だ。
 確か、この鍋のスープはキムチだったはず。
「…………」
 それが、どうしてこんな味噌煮込みのような色になっているのかが、不思議というよりも、恐怖だった。
 ……何が入ってるのか、まったくわからん。
 それほどの、濁り。
 うわ、やだな。
 つーか、なんだ? この強烈な匂いは。
 冬のこの時期に窓を全開にして鍋を食っているのは、恐らくここにいる5人だけだろう。
 優人のアパートで、男5人が鍋を囲む。
 それだけでも結構異常だと思うのだが、さらにこの匂い……。
 これは、ある意味公害だろう。
 ……絶対、大家から苦情が来るぞ。
「……お前、何入れた?」
「ん? 俺は食える物しか入れてないぞ」
「……いや……そうじゃなきゃ困る」
 もっとも多くの時間、鍋の前で作業していた優人に訊ねるも、明言を避けてきた。
 ……いやだ。
 ものすごく、イヤだ。
 つーか、ここから帰ったほうがいいと俺の第6感が告げている。
「だから、祐恭も食えって」
「嫌だ」
「うまいいかもしれねぇじゃん」
「なんで『かも』が付くんだよ。普通、鍋ってのはうまいもんだろ?」
「ンな、かたいこと言うな」
 そう言って孝之がひらひらと手をふるも、相変わらず彼の手には割られていない割箸が握られたままだった。
 ……つーか。
「……どうして、誰も手をつけないんだよ」
「うぇ!? いや、そ、それはだなぁ……」
「孝之。お前が食えばいいだろ」
「……あー、俺、このあとバイトがあるし」
「じゃあ、優人。お前、張本人だろ? 責任持って、ひと箸目はお前が食え」
「……う……。わかった……」
 割り箸を割ることすらせずに見守っていると、優人が箸を鍋に入れ――……。
「っおい!! 誰だよ、CD入れたヤツは!?」
「あ、俺だ」
「俺だ、じゃねぇだろ!!」
「いや、ほら。いらないディスクがあったからさー」
 ……はぁ。
 頭痛がしてきた。
 なんで、鍋にCD-Rなんだよ。
 馬鹿か。普通に食える物を入れろ。
「……やっぱり、俺帰る」
「「ちょっと待った!!」」
「うっわ!?」
 そそくさとその場から逃げ出そうとしたとき、いきなり両脇から出てきた手に取り押さえられた。
 慌てて見ると、優人と孝之。
 ……なんつーコンビネーションのよさ。
 がっちりと腕を掴んで離そうとしないふたりの顔には、いかにもいたずらっぽい笑みがあった。
「祐恭君。ひとりだけ逃げるのはルール違反だろ?」
「つか、お前だけ食わねぇとかナシじゃん」
 優人と孝之それぞれに言われると、余計にこの場から逃げたくなる。
 ……あぁもー。
 何も、こんなところで従兄弟の血を発揮しなくてもいいのに。
「……わかったよ。食えばいいんだろ、食えば……」
「よし」
 俺は犬か!
 座り直すと同時にふたりが手を離し、ずいっと皿を手渡してきた。
 …………はぁ。
 仕方なく鍋に向き直り、無難そうな物を探って――……取る。
「……いったい、何が入って――……!?」
 箸が捉えた、それ……は。
 ぐつぐつと煮込まれて、ほどよくこの怪しい汁を吸い込んだ――……。

「……先生?」
「…………え? あぁ……何?」
 心配そうに顔を覗きこんでいた羽織ちゃんに、力なく振り返る。
 ……嫌なことを思い出した。
 闇鍋は、ものすごくトラウマだ。
 ……つーか、危険でしかない。
「…………はぁ」
 いまだ鍋の前であれこれ投入している純也さんが見え、より一層不安をかきたてられる。
 ……やだなぁ。
 さすがに、匂いは普通の鍋ではあるが、ものすごい物が出てきそうで心底怖い。
 学生時代のトラウマがあるせいか、どうにもこうにも闇鍋に対していい印象を持てない。
 というか、まぁ、闇鍋ってのはそういう鍋なんだけどな。
 絵里ちゃんが相変わらず座っているのを見ると、どうやら鍋の中身を知っているのは……純也さんだけらしい。
 多少は羽織ちゃんも知っているだろうが、すべては知らないままだろう。
「……何入れた?」
「内緒」
 いくら訊ねてみても、彼女からはそんな答えしか返ってこない。
 それが、無性に不安だというのに。
 テレビから流れる他愛無いバラエティの笑い声を聞きながらも、頭の中は不安でいっぱいなワケで。
 ……どうか、食える物が入ってますように。
 昔の闇鍋事変と同じような目に遭うわけにはいかないので、ただそれだけを懇願するしかなかった。


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