「よし」
 キッチンから小さく聞こえた声でそちらを見ると、笑みを浮かべてから大きめの土鍋を手に、純也さんがリビングへやって来た。
 ぐつぐつという音が聞こえる、鍋。
 様子はわからないが、匂いはまぁ普通。
 この分なら安全かも……なんて思いながら、テーブルの中央にあるコンロに視線を移す。
 ……が。
「……これは……なんすか?」
「特製鍋」
「いや、あの……」
 さらっと答えた純也さんに視線を向けるが、にっこりとした相変わらずの笑み。
 特製鍋って……待ってくれ。
「なんでこんなにスープが多いんすか」
「ん? ほら、明かり消すわけにいかないし。そうなると、何が入ってるか見えるだろ? だから、見えないように汁を多目にしときました」
「そんな気遣いは……」
「まあまあ。気にせず食べてよ」
 なだめるように肩を叩かれるものの、視線は鍋から離れない。
 溢れんばかりの、だし汁。
 なみなみと注がれ、土鍋の縁から今にも溢れそうだった。
 色は、味噌っぽい色。
 匂いが少し辛いあたり、恐らくキムチ……とかだとは思う。
 しかし、これだけ何が入っているかわからない鍋という物は、見たことがなかった。
 つーか、普通は具の方がスープより多いわけで……。
 一面汁の海というのは、かえって恐ろしい。
 この汁の下にはいったい何が隠されているのかと思うと、正直言ってもう『ご馳走さま』なんだが。
 取り皿と割り箸が目の前に並んでいく中も、ぐつぐつと時おり上がる泡から視線が離れない。
 と、そのときようやく同じように鍋を見つめている、絵里ちゃんへ目が行った。
「……何が入ってるのか、知らないの?」
「…………毎回違うんだもん。知らないわよ」
 怪訝そうな顔で、同じく鍋を見つめる。
 彼女も知らないとなると……。はぁ。
 やっぱり、帰りたい。
 羽織ちゃんも家で何やら作っていたので、それも気にはなるのだが……。
 いかんせん、何も見えないこの状況ではどれが大丈夫で、どれが危ういのかも掴めないし。
 などと考えていたら、目の前に黒いラベルの瓶が置かれた。
「っ……え。これ……!」
 思わず瞳が丸くなり、弾かれるように純也さんを見る。
 すると、それはそれは満足そうに笑った。
「早速、食いついたな」
「そりゃそうっすよ! ……すげぇ……純也さん、買ったんすか?」
「まぁね。この前届いたんだよ」
 彼を見てから瓶を手に取ると、よく冷えている感触が心地良かった。
 地元の宮本酒造、菊姫シリーズの“黒吟”。  古酒にも似た感じだが、やはりどんな酒とも違う酒だ。
 以前、一度だけ飲んだことがあったが、これは衝撃的だった。
 匂いも味もほかの酒とはまったく違う。
 久しぶりに、うまいと思った。
「うわ……これはすごいな……」
 思わず手に取り、まじまじと瓶を眺めていると目の前にグラスを置いてくれた。
「Trickだけじゃ、つまんないだろ?」
「じゃあ、それで呼んでくれたんすか?」
「ま、そんなとこ。せっかくのイイ酒だし、ひとりで飲むのはもったいないからな」
「……うわ。すげー、嬉しい」
 先ほどまで闇鍋で相当ヘコんでいただけに、この登場は心底嬉しい。
 これ飲めるなら、なんでもいいや。
 なんて考えも浮かんできて、少し自分でも笑えた。
 とりあえず、食えない物は入ってないだろう。
 人間、目の前に褒美さえあれば、周りが見えなくなるのかもしれない。
 どんなに嫌なことだろうと、こうしていきなりイイことが出現するだけで、一気に回復するわけで。
 そんな様子を見ておかしそうに笑った純也さんに笑うと、全員が席に着いて、いよいよ闇鍋の始まりとなった。
「………………」
 もちろん、期待はしていない。
 だが、この酒が飲めるならこの席もアリだ。
 ……俺って、やっぱり単純かも。
 彼に注いでもらいながら、ふとそんなことが浮かんだ。

 闇鍋開始から、15分。
 いまだ、これといった『アタリ』は、誰も引き当てていなかった。
 豆腐、白菜、豚肉、えのき。
 普通の鍋に入っている、普通の具材。
 うんうん、これなら安心。
「……しっかし、うまいっすねー……さすがは黒吟」
「だろ? これ、クセがあるんだけどさー、そのクセがいいんだよなー」
 イイ酒片手に会話をするのは、かなり楽しい。
 鍋も若干辛くはあるが、まぁ、食えないほどじゃないし。
 何より、友人らとやった“怒涛の闇鍋”とは違い、普通に食べられる鍋だったというのが何よりも嬉しかった。
 ……よかった。
 やっぱ、こういう鍋は良識ある大人とやるに限る。
 ……まぁ、唯一心配していた絵里ちゃんも、今回はノータッチだったからこそ今の平和があるんだが。
 彼女ならば、間違いなくえげつないような物を迷わず入れるはずだ。
 大福とか、はたまたチョコとか。
 グラスをかたむけながら彼女を見ていると、何やら純也さんの袖を引いているのが見えた。
 珍しいな、こんなふうに目の前で絡むなんて。
 ――……などと思っていたのも束の間。
 事態は、一変することになってしまった。
「あ、ウマいな。これ」
 純也さんの声でそちらを見ると、箸には何やら肉団子のような物が見えた。
「……あ」
 それには、見覚えがある。
 そう。
 家を出る前に羽織ちゃんがせっせと作っていた物だ。
 どうやら、肉団子の中にウズラの卵が入っているらしい。
 ……まともな彼女で良かった。
 などと考えながら自分も鍋を探ると、純也さんと同じ塊をつかんだ。
 中身がわかってると安心できるというもので、なんの迷いもなくひと口でほおばる。
 ――……途端。
「っ!!?」
 思わず左手で口を押さえた。
「……先生?」
 驚いた羽織ちゃんから、お茶の入ったグラスをひったくるようにもらい、中身を一気に飲み干す。
「祐恭君……大丈夫?」
「どーしたの?」
 純也さんと絵里ちゃんの問いかけに答えられず、しばらくうつむいてから――……グラスを彼女に返してやる。
 ……が。
 彼女だけは、目を見張って慌てたように口元へ手を当てた。
「せっ……先生……もしかして……」
「……どうしてトマトが入ってるんだ」
 思わず、瞳が細くなる。
 ありえん。
 絶対に、ありえん。
 ……つーか、まさか彼女がこんなモノを作っていたとは。
「……トマト?」
 絵里が不思議そうな顔をしたが、羽織ちゃんから視線は微動だにしない。
 だって、そうだろ?
 こんな………こんなモン入れやがって……!!!
「プチトマトが入ってるなんて、聞いてない!!」
「ごっ、ごめんなさいっ……!」
「なんで俺が食えない物が入ってるんだよ!! え!?」
「だってぇ……闇鍋って言うから……。それに、プチトマトが1番手ごろな大きさで――」
「タダでさえ食えないのに、煮込まれて温まったプチトマトだぞ!? ……最悪。もう、一気に興ざめ」
 わざとらしく大きめにため息をついて見せると、さすがに彼女も口を閉じた。
 ……ったく。
 もっと人が食える物を入れてくれればいいものを。
「……ごめんなさい。でも、あれはひとつしか入ってないんですよ? だから……先生は引かないと思ったんだけど……」
 ……はぁ。
 何を言うかと思いきや。
 はっきり言って、俺は昔から運が悪いほうじゃない。
 ……でも、何もこんなところで強運を発揮しなくてもいいだろ……俺。
 思わず、自分へツッコミが入った。
「……あとで覚悟ね」
「え」
 ぼそっとそれだけ呟いてから酒で口を直すと、若干はすっきりとしてくれた気がした。
 しかし、本当にびっくりした。
 ……温められたトマトがあんなにもマズいものだとは。
 ヘコみながら豆腐を箸で切ると、純也さんが苦笑を漏らす。
「祐恭君、アタリ引いたねぇ」
「……ですね」
「てことは、そろそろ出てくるかな……」
「え……?」
「メインが、さ」
 小さな純也さんの言葉に目をあわせると、にやっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
 ……メインって……言ったよな、今。
 目の前には、ぐつぐつと煮える鍋。
 ……てことは、何か?
 これまで無事だったのは……すべて、純也さんの計算のうち……?
「…………」
 まだまだ汁の多い鍋を見つめながら、思わず喉が鳴った。
 確かに、これまではハッキリ言って闇鍋らしさが皆無。
 そう考えると、これからが本番のような気がしないでもないが……。
 なんてことを考えていたら、絵里ちゃんが小さく声をあげた。
「なっ……!?」
 怪訝そうな視線の先にあった物に、つい釘付けになる。
 ……間違いない。
「き……きゅうりぃ!?」
「……おー、やっぱりそろそろ出てきたんだな」
「出てきたんだな、じゃないわよ!! 何、これ!? こんなの、鍋に入ってないでしょ! 普通!!」
 きゅうりを箸で掴んだまま純也さんを見てから、放るように皿へと入れた彼女。
 だが、当の彼はというとまったく驚きもせずに笑みすら浮かべていた。
「当り前だろ? 普通の鍋じゃねぇんだし」
「……っ……」
「ちゃんと食えよ? 取ったんだから」
「……うぐ」
 普段の彼からは伺えないような、意地悪な笑み。
 それを見た瞬間、思わず羽織ちゃんと顔を見合わせてしまった。
 ……どうしよう。
 彼女の瞳は、そんな色でいっぱいだった。
 とはいえ、いつまでも何も食わないままでいることなどできず。
 結局――……迷いながらも、箸を鍋に入れる。
「……っ」
 箸先に、何かが当たる。
 硬くもなく……かといって、それほど柔らかい物でもない。
 なんだ、これ。
 仕方なく引き上げてみると………出てきたのは、ナスだった。
「……うわ……」
 思わず顔が歪む。
 いや、別にナスは食べれないわけじゃない。
 ……だが、鍋にナスって……。
 いかにも汁気を多く含んでいる雰囲気が漂っていて、非常にキツい。
「……あ」
 羽織ちゃんの声でそちらを見る――……と。
「……えー」
「な……なんですか、その声はっ」
「なんで羽織ちゃんは普通の具を引くわけ? 面白くないだろ」
「……だってぇ……」
 彼女が掴んでいたのは、餃子。
 ……ち。
 もっと面白い物かと思っていただけに、思わずため息が漏れた。
 ……しかし、ナスか。
 箸で切ると、そこから汁が溢れる。
「……はぁあ」
 大きくため息をついてから仕方なく口へ運ぶと、やや辛めの味が広がった。
 ……なんか、ツイてない感じがする。
 やっぱり、今日という日は俺にとってあまりよくない日らしかった。
「……うわぁ」
「なんだ、これ……」
「な……!?」
「ぎゃーー!」
 その後も、どんどんと鍋から上がる奇妙奇天烈な物。
 春雨は、まだよかった。
 絵里ちゃんが引いたのは――……紛れもなく、タピオカだったから。
「ちょっ……! なんで、こんな物が入ってるのよ!?」
「お前が買っておいて食わないから悪いんだろ?」
「だからって、鍋に入れることないでしょ!?」
「うるせーな。ほら、食えよ。粒こんにゃくっぽいだろ?」
「んなわけ、あるかぁ!!」
 そろそろ具がなくなってきたからということで使用することになった、穴杓子。
 これが結構なクセものだった。
 ……鍋底をさらうというのは、やはりよくない物が出てくるわけで。
 見てはいけないような物が、ぞくぞくと現れてきた。
「……さすがに、これで雑炊やる気にはならねぇな」
「いや、雑炊はやめましょうよ」
「だね」
 汁のみが残った鍋を前に、4人の顔にはそれぞれ色濃い疲労感が漂っていた。
 ……鍋でこんな思いをするのは、もう二度と嫌だ。


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