「先生」
「…………」
「あのーもしもし? 瀬尋先生?」
「っ……え、俺?」
「もー。先生以外、誰もいませんよ」
 確かに、反射であたりを見回すも、廊下で先生”と称される人間は俺だけ。
 かなり離れたところに、生徒会の面々と高鷲先生が見えたが、声は届きそうにない。
 2年3組の大谷 華穂が大きくため息をつき、両手を腰に当てた。
「瀬尋先生大丈夫ですか? なんか、ヤバいものとかお昼に食べました?」
「いや、食べてない。……というかずいぶんな物言いだな」
「だって、先生ちょっとヘンですよ? 上の空っていうか、完全無視かと思って若干切なくなりました」
「……それは、ごめん」
 俺よりずっと背の低い子なのに、こうして両腕を組まれると妙な威圧感を感じるから不思議だ。
「えーと……それで、なんだっけ?」
「次の授業の連絡ですよ。もー。ほんとに大丈夫ですか?」
 大丈夫じゃないかもしれない。
 確かに、記憶のどこかには『ついでに、6時間目の授業連絡いいですか?』と言われた気がしないでもないのだが、すっかり飛んでしまっているらしい。
 彼女だけに限らず、今日はずっとこう。
 上の空というよりも、もっとはっきりした理由があることはわかっている。
 ……探してる、んだよな。
 興味本位というよりは、がっつり好奇心で。
 昨日の飲み会は、結局21時には解散となったものの、そのあとが長かった。
 孝之があーだこーだ言いながら、店のそばにあったファミレスへ純也さんと一緒に俺を引っ張り込み、ヤツを家に送り届けたのは23時過ぎ。
 心底疲れた。
 さすがにその時間とあってか、本物の妹と対面することはできず、勝手な想像を繰り広げながらベッドへ入ったのは1時近かった。
 って、さすがに想像だけしてるアヤシイ時間を過ごしていたわけではなく、帰宅した途端やらなければいけないことを思い出しただけだが。
 今日は3年の授業がいくつかありはしたんだが、クラスが違うのか、結局まだ会えていない。
 ……だから余計気になるんだよ。
 あの孝之の本物の妹が、どんな子なのか。
「次の時間って、ワーク集めましたっけ?」
「いや、あれは来週最初の授業までだからまだいいよ」
「えーそうなんですか? てっきり今日までだと思って、やりましたよ私」
「へえ、偉いじゃないか。殊勝な心がけだね」
「……褒めてます?」
「え、褒めてるけれど。どうして?」
「なんとなーく気持ちここにあらずー的な」
「いや……それは、ごめん」
「二度目ですよ、先生」
 くすくすと笑われ、申し訳なさやら情けなさやらで苦笑が漏れた。
 いつから俺は、年下の女子高生にあしらわれるようになったんだろうな。
 この学校に来るまでにも高校へ赴任したことはあったが、そこは男子校。
 まさか、妹よりも年下の子に対するようになるとは、夢にも思わなかった。
「……ん?」
 甲高い声が遠くから聞こえて、何事かと視線を向ける……までもなく、こちらへ近づいてくる姿が目に入る。
「あれ。リンちゃん……?」
 ぽそりと口にした感じからして、友だちなんだろう。
 まあ、そうか。同じ2年というのもあるかもしれない。
「……お前何したんだよ」
「俺は何もしてねーっつの。鈴に聞けって」
「あー! またそーやって呼び捨てする! いけないんですよ、今はさん”ってつけるのが常識!」
「それは小学校の話だろ? 中学以上じゃ呼び捨てでも平気なんだよ」
「平気じゃないです! もー、教育委員会に言いつけますよ!?」
「言いつけてもらっても別にいーけど? じゃあ『鈴ちゃん』って呼んでやろーか?」
「っ……もう! からかわないでくださいよ!」
 ばしばしと叩かれている孝之を見ながら、ため息しか出ない。
 お前は何をしてるんだいったい。
 そう言いたいのが伝わりでもしたのか、『なんとかしろよ』と孝之が小さくつぶやいた。
「もう! なんで私が瀬那先生の授業係やらなきゃいけないんですかっ」
「いーじゃん。好きだろ? 現国」
「好きですけど、私は物語が好きなんであって、評論は範囲外なんです!」
「なんで。理詰めで解答すりゃいーんだから、ラクじゃん」
「楽じゃないから言ってるんじゃないですか、もぉ!」
 彼女はかなり本気のようだが、対する孝之は半分以上からかって遊んでる感じが否めない。
 おそらく、それもわかっているんだろう。だから、余計腹が立つんだろうな。
「……鈴ちゃん遊ばれてる……」
「わかる?」
「当たり前じゃないですか。だってほら、瀬那先生すっごい笑ってますもん」
 大谷が指差した先を見て、ああまさにおっしゃるとおり。
 笑いをこらえているどころか、ばっちり笑っている孝之は、それはそれは楽しそうだった。
「っと。んじゃ、そーゆーことで。今度から俺んとこ来いよ」
「くぅっ……! 絶対ほかの係決めます!」
「ま、そーいうなって」
「お断りますっ!」
 チャイムが響いたのを機に話を切り上げたものの、彼女はもちろん不服そうなまま。
 ……でもま、きっと真面目ゆえになんだかんだ言いながらも、授業係やるんだろうな。あの子。
 若干、かわいそうにという思いが湧いた。
「お前、からかいすぎ」
「いーじゃん。なんか、子犬みたいで楽しくて」
「人間不信になったらどうするんだよ」
「ンな豆腐メンタルじゃねーから平気だろ」
 からからと笑う孝之は、まったく反省していない。
「……ん?」
 どうやら、この一連の流れを見ていたらしく、職員室へと方向転換したところで背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「あれ。まさみちゃん、次の時間授業入ってなかったっけ」
「ちょっ……! もう、瀬那さん! あれほど『ちゃん』付はやめてくださいって言ったじゃないですか!」
「そーだっけ。わり、忘れてた」
「嘘! 絶対わざとでしょう!」
 あれおかしいな。この流れ、どっかで見た気がする。
 というか、コイツこんなことしかしてないのか……?
 きーきーと本気さが感じられる彼女と、ひらひら手を振っている孝之。
 この構図は、毎回というか各所で見られるある意味の風物詩。
 ……コイツの性格のせいだな。
 どれだけ人をからかって生きれば気が済むのか、理解に苦しむ。
「……七瀬先生、大丈夫ですか?」
「あんまり……大丈夫じゃないです」
 孝之と同じ国語科の、七瀬ななせまさみ先生。
 担当は古典だが、同じ国語科ということもあってか、孝之に関わらなければいけない役割らしい。
 ……不憫だ。
 根っからの真面目さがにじみ出ているような、きちんとしたスーツを着こなしているあたり、孝之とは真逆の人生を歩んできたことだろうに、まさかここで出会ってしまうとは。
 心の中だけで、そっと手を合わせておく。
「いいですか? 何度もお話ししましたけれど、私のほうが社歴では半年だけ先輩なんです。ですから、年下であってもそういう扱いは控えてください」
「あー、すみません。大変申し訳ない」
「それ、絶対思ってないやつじゃないですかっ」
「え、なんでそう思うかな。俺誠心誠意謝ってるつもりだけど」
「違うと思います!」
 だから、お前のこれまでの態度すべてがダメなんだろう……。
 ああ、やっぱりこいつと絡むとロクなことがない。
 とはいえ、彼女に『ほっといたほうがいい』と言えるはずもなく、なんとなく申し訳なさと居心地の悪さを勝手に感じるしかないんだけど。
「瀬尋先生も言ってくださいよ! 瀬那先生と、個人的なお付き合いがあるんですよね?」
「え。いや……どうかな。俺はただ、大学が一緒だったってだけで……」
「十分です! 特性をご存じなんですから、もう少し管理してさしあげてください!」
「う……それは無理というか……なんというか」
 矛先がこちらへ移った瞬間、孝之が明らかにほくそ笑んだのを見てしまい、危うく舌打ちするところだった。
 コイツ、俺の評判まで落とそうとしてる。
 あーそうか。じゃあもう知らないからな。
 俺とお前はそもそも学科が違うんだから、ひとりで勝手に困ればいい。
「七瀬先生、すみません。自分は準備があるので、これで」
「あっ、そうだったんですか。すみません、お引き留めしてしまって」
「とんでもない。ああ、ちなみに孝之はものすごく暇でどうしようもないと言ってましたから、授業研究でも計画の練り直しでもなんでもやらせてください」
「なっ……!」
「まあ、そうなんですか? 瀬那先生、ずいぶんと熱心になられたんですね。それじゃあ、まいりましょうか。ちょうど先ほど、業者の方がいらして何冊か新しいワーク見本置いてかれたんですよ」
「それはいい。がんばれよ、若い瀬那先生」
「くっそ……お前あとで覚えとけ」
「自縄自縛」
 ひらひらと手を振り、奥歯を噛みしめたような顔をした気のする孝之をそっと放置し、自分は職員室へ。
 次の時間は授業が入っていないので、授業研究と称して自分の別の仕事をさせてもらうのだが、うっかり置いてきたSDカードを取りに行くのが先。
 個人情報は入っていないが、自分個人という意味で言えばその類になる程度なものの、早めに回収しておきたいのが本音だった。
 すでに授業は始まっており、廊下を通る生徒は皆無。
 閉められているドアごしに各教員の声が小さく聞こえ、少しだけ非日常的な雰囲気に笑みが漏れた。


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