「待たない」
「……あの…だから、もう少し――」
「だから、待たないって言ってるだろ?」
「わぁっ!?」
明日が休みという、今日。
学校が終わると同時に、彼の家に呼ばれた。
いつもと同じ……なんだけど…。
なんとなく雰囲気が違うのは、私の気のせいなのかな。
…だって、まだ……まだ、だよ?
まだ、夕食の後片付けだってしてないのに。
なのに、先生はお風呂が沸いた事を知らせる音楽が聞こえると、キッチンに歩いてきた。
いつもより、ずっと早い時間。
だから、彼がここに来たのが、まさかお風呂に誘う為だなんて思いもしなくて。
温かい大きな手に触れて貰えるのは嬉しいんだけれど、ついつい拒んでしまった。
「待って、先生!」
「だから――」
眉を寄せて、呆れたようにこちらを振り返る彼。
そんな彼に首を振って、そっと腕に掌を当てる。
「…もぅ…。どうしたんですか?そんな……急に…」
すると、彼が答えるより先に……ぎゅうっと抱きしめられた。
「……せ…んせ」
「………温かいな」
ぽつりと呟いたその言葉が、やけに響いた。
いつもの、彼らしくない声音。
それが――…無性に、不安にさせる。
「どうしたんですか?…何か…あったの?」
抱きしめられたままで呟くと、小さくため息をついてから髪に指を通した。
何も言わず、だけど…何かを確かめるように。
「さっき、俺…寝てたろ?」
「…あ、うん」
そう。
彼にしては珍しいなぁと、つい笑ってしまったんだけど。
ほんのちょっとだけ、夕食を食べた後に彼がソファで短い眠りについていた。
やけに幼い顔で眠るから、じぃーっと観察してたんだけど…。
だって、ほら。
いつもは、私が彼よりも先に起きる事って無いんだもん。
だから、彼の寝顔を独り占め出来て、凄く凄く嬉しかった。
……あ…。
そう言えば、その浅い眠りの後からだ。
彼がいつもよりずっと、こうして私に触れてくるようになったのは。
「怖い夢でも見たんですか?」
小さく笑って顔を覗くと、思わず喉が鳴った。
…こんな、寂しい顔なんて見た事無かったから。
「先生…?どうしたの?」
心が、ざわつく。
そんな顔、して欲しく無い。
いつもみたいに笑って、悪戯っぽい笑みを見せて欲しかった。
彼に当てていた掌に力がこもり、シャツに皺が寄る。
…やだ。
そんな顔、しないで。
「…え…?」
「ンな顔するなよ…。今にも泣くんじゃないかって、心配になるだろ?」
私が思っていた事を、彼に言われてしまった。
くすくす笑って眉間に人差し指を当ててから、そのまま頬を撫でる。
「だって…先生が、そんな顔するから」
「俺?でも、俺は羽織ちゃんみたいに泣きそうになって無いだろ?」
「…なってたんですよ、ちょっとだけ」
「そう?」
「そうなのっ」
眉を寄せて首を縦に振ると、小さく彼が『そっか』と漏らした。
「…どうしたんですか?そんな…。先生らしくない……」
ぽつりぽつりと呟いて、そのまま彼を抱きしめる。
すると、一瞬手の動きを止めてから、柔らかく抱き直すように腕が回る。
もっと傍に居たくて。
もっと彼を近くに感じたくて。
…もっと……安心して欲しくて。
瞳を閉じて、腕を絡めた。
「…羽織ちゃんこそ」
「え…?」
「…らしくないんじゃない?こんな、甘えちゃって」
…う。
それは…その……。
でも、そう言った彼の顔がいつもと同じ悪戯っぽい笑みだったから、ちょっとだけ安心できた。
……っていうのも、なんか、ヘンだよね。
優しく笑ってくれるよりも、悪戯っぽい顔されてる方が落ち着くなんて。
すっかり、今の彼に順応している証拠…って言えば、そうなんだけど。
「だってぇ…」
「…ん?」
「先生が、いつもと違うから」
「そう?」
「そうですよっ」
「んー……。いや、ちょっと確かめようかなって思って」
「…確かめる…?」
「うん」
髪を撫でていた手が止まり、滑るように指が唇に触れた。
…くすぐったい…っていうよりは、なんか…どきどきする。
こんな風にされたら、いつもは顔なんて見れないんだけど…。
今日は、自然に視線が上がった。
そして、すぐに彼の瞳に捕まる。
「夢の中で、抱きしめようとしたら……可愛い顔して拒否られた」
「…え」
「だから、現実でもそうなんじゃないかなーって思って」
「…ゆ。…夢…?」
「そ。夢」
「……なんだぁ…」
力が抜けた。
一体どんな事があったのかと思えば、そんな――
「こら。なんだは無いだろ、なんだは。物凄いショックだったんだぞ」
「でも、実際はそんな事しないでしょ?…私…」
「そうなんだけどさぁ…。夢とはいえ拒まれたら、ヘコむ」
「…もぉ」
おかしかった。
彼がこうして私に沢山触れてくれる要因になったのが、夢だったなんて。
「……笑い事じゃない」
「だってぇ」
だって、先生らしくないんだもん。
そんな…。
夢に捉われて、引きずるなんて。
くすくす笑っていると、小さくため息をついてから彼が手を引いた。
「…だから、風呂」
「あ。待って、だからっ…!それとこれとは――」
「関係あるんだよ。…それとも、何か?俺と入るのはそんなにイヤか?」
「ちがっ…。だから、そうじゃなくて――」
「じゃあ、いいだろ。問題なし」
「せ、先生っ!」
…しまった。
ちょっと……機嫌損ねたかも。
うー。
別に私、そういうつもりじゃあ…。
結局洗面所まで引きずられるようにして連れてこられ、彼が後ろ手にドアを閉めてしまった。
パチン、という小さな音で浴室の明りが灯ると、電気をつけていない洗面所もオレンジに染まる。
そんな中で彼の顔を伺うと、やっぱり、ちょっとだけ……不機嫌そうだった。
「…先生?」
「悪かったな。夢に振り回されるような男で」
「もぅ。そんな事言ってないじゃないですか」
「顔に書いてあった」
「…もぉ…」
瞳を合わせようとせずにシャツのボタンを外す彼を見ていると、どうしたって笑みが浮かんでしまう。
だって……。
なんか、先生らしくなくて可愛いんだもん。
「馬鹿にしてなんか居ないですよ?」
「…分かってるよ」
そんな彼の頬を両手で包むと、一瞬瞳を丸くしてから苦笑を浮かべた。
「……いくら俺でも、夢と現実くらい区別がつく」
「じゃあ、どうして――」
「…羽織ちゃんが出てきたから」
「……私…?」
「そ。他の人間に何言われようと、別に気になんてしないよ。…でも、やっぱなぁ…。ヘコむぞ?アレは」
彼が見た夢の中の私がどんなだったのかは、分からない。
だけど……だけど。
「…なんか…でも、嬉しい」
「嬉しい?」
「うんっ」
壁にもたれて瞳を丸くした彼に笑みを見せると、不思議そうな顔を見せた。
「だって…。先生の夢に、私…出てきたんでしょ?」
「そりゃまぁ…」
「…だから…。カタチはどうであれ、夢に出れたのは嬉しいです」
えへへ。
だって、夢って…想ってないと出てこないって言うじゃない?
だから、たとえ無意識であっても良かった。
夢の中に出てきたって事は、彼の中に私っていう存在が確かにあるっていう証拠だから。
「っ…ん!」
優しく頬に掌が当てられたかと思いきや、そのまま唇を塞がれた。
温かい感触が広がって、抵抗なんてもちろん出来ない。
…やっぱり、こうしてしてくれる彼のキスは、私にとって特別なものだから。
「……は…ぁ」
頭が、ぼんやりする。
こうして深いキスを彼に施された後は、決まって。
危うく足から崩れそうになったけれど、その前に彼が抱きとめてくれた。
耳元に感じる、鼓動。
それで、再び瞳が閉じた。
「…良かった」
「……え…?」
柔らかい声で顔を上げると、同じように柔らかな笑みを浮かべた彼が居た。
「何が…ですか?」
「傍に居てくれるのが、羽織ちゃんで」
予想だにしなかった言葉。
頬が紅くなると同時に……視線がそれた。
「っ…」
「コラ。どこ見てんだよ。ちゃんと話を聞く時は、相手の目を見るもんだろ?」
「…だって…」
「だってじゃない。…ん?感想は?」
……いじわる。
そんな楽しそうな顔で見られたら、言える物だって言えなくなっちゃうのに。
でも、そんな事…彼はもちろん承知の上。
これまでだって、何度も見て――…実際に経験済みだから。
「…それは、私も一緒ですよ」
「一緒?」
「うん。……先生で、良かったって…思うもん」
「それはそれは。至極、光栄なお言葉」
「……もぅ」
こうしてくっつきながら笑い合うのは、好き。
彼の吐息が掛かって、より近くに感じられるから。
それに、こういうちょっと声を潜めたやり取りって、二人だけの秘密って感じもして悪くないし。
「……先生に会えて、良かった」
自然の事の様に、そんな言葉が漏れた。
「…出会えて……こうして、一緒に居る事を許されて…。私――」
「それは、俺も一緒」
言葉を遮るように彼が強く抱きしめてくれた。
それだけで、随分と自分が安らいでいくのが分かる。
「……さっきと逆ですね」
「だな」
そうして、また――…小さく笑う。
ああ、こういう関係って凄くいいなぁ。
何ていうか……幸せ。
今まで自分が歩いてきた道は、決して平坦なものじゃなかっただろうし、近道でもなかったと思う。
でも、彼に至るまでのこの道は、決して間違いなんかじゃ無かった。
出会って、こうして…触れてくれて、触れるのを許してくれて。
些細な事で笑いあえて、全部半分こ出来る関係。
ずっとこれから先も、彼と一緒の道を歩いて行きたいと思う。
ずっとこれから先も、傍に彼が居てくれるように生きたいと願う。
そうなるように。
……そんな私の願いが、どうか叶う様に。
私が出来る事を最大限努力して、叶えたい。
…彼が傍に居てくれれば、何でも出来るような気がするから。
ううん。
気がする、だけじゃない。
事実、そうだ。
……彼と出会う前の私は、もっと……もっと弱かったと思う。
だけど、彼を好きになって、傍に居られる時間が増えて……愛されて。
それで、強くなれたと思う。
…だから……
「…ずっと」
「……ん?」
「……ずっと……こうしてたい」
自分が呟いた言葉なのに、なんだかジンとしてしまった。
涙が、ちょっとだけ浮かんでくる。
すると、頬を包んでくれたままで彼の唇がまぶたに触れた。
舌先が当たって、ちょっとくすぐったい。
「…俺はここに居るから」
そう言った彼の掌が、髪を撫で、頬から首筋を伝う。
ふと瞳を開くと、軽く頷いて――…再び口づけをくれた。
「……離したりしない」
耳元で囁かれた声が甘くて、そして…凄く嬉しかった。
……もぉ…。
また、泣きそう。
彼を慰めるつもりだったのに、結局はこうして慰められてしまった。
やっぱり、彼の前だと強くなったつもりで居ても……まだまだなんだなぁ。
だけど、いいよね?
――…これから、きっと強くなっていけるから。
ぎゅうっと彼にしがみついたままで居たら、気付くといつしかシャツのボタンが開いていた。
…でも……まぁ、いい…かな。
今日は、……離して欲しく無い気分だから。
頬が染まるのを感じながら、視線を少し落とす。
丁度、彼の胸元から少し下あたり。
そこを見つめたままで居ると、小さく音がして赤いリボンが目の前に現れた。
……うー、ドキドキする。
…でも……イヤじゃない。…かも。
「…何か、ドキドキしてない?」
う。
……ず…図星なんですけど…。
くすくすと笑う声が、やけにくすぐったい。
もぉ……困る。
どんな顔して一緒にお風呂入ったらいいの?
彼と一緒に居られるのは嬉しいけれど……やっぱり、恥ずかしいっていうのがある。
だけど、そんなこちらの気持ちはお構いなしに、彼がシャツのボタンに手を掛けた。


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