きゅぽッ。
 間抜けな音を立てて、ポスカのキャップを開ける。
 きょとんとした顔の羽織の前髪を掻き上げ、そのまま『肉』と書いてやる。
 一瞬、何をされたのか理解できなかったようだ。
 孝之は無言で、そのまま葉月のほうを向いて、片手を彼女の顎に添えて持ち上げた。
 そう言えば、一昨日はこうやってキスしたんだっけ?
 つい、余計なことを思い出し、葉月の瞳を覗き込んで、そのまま惹きこまれそうになった。
 衝動のまま行動しそうな自分を戒めるのに、一度眼を閉じ、それからキュキュッと彼女には両頬に三本ずつ髭を引いた。
「まったく、悪戯も大概にしろ! お前ら幾つになったんだ。俺は、お前ら学生と違って、今日は仕事なんだよ。こんな取れないもんで落書きするなッ!」 
「え? 取れないの?」
 葉月の顔色が変わる。
 瞳は後悔に染まっていて、どうしたらいいのという迷いが垣間見える。
 どうせこんなの、石鹸で洗ったら落ちるだろうがな。
 二度とこんなことする気が起きないように苛めておくか?
 彼女がおどおどするのを眺めながら、そんなことを考えてしまう。
「顔、洗っても取れなかったんだよ。こうなったら、このままで仕事に行くしかないよなぁ。顔だけじゃあおかしいから、耳も付けて行くか? あれはどこに置いたっけ?」
 わざと探す振りまでしてみせる。
 だが、これはやり過ぎだったらしい。
 こちらを見る葉月の表情は、どんどんと固まってきて、伏せ目がちになり……俯いてしまう。
 いつもなら、途中で止める羽織の声も無い。
 眼で探したら、姿が消えている。
 おいッ、どこへ行ったんだ?
 何で止めねぇんだよ。
 そう思ったら、背後からでかい叫び声とともに背中を思いっきり叩かれた。
「お兄ちゃんッ! なんてことしてくれるのよッ! なんで、『肉』なのッ?」
 痛い……。
 それに突っ込みどころは『肉』か?
 突っ込み返した上で、やり返してやりたいが、それよりも葉月のほうが先だ。
 羽織もどうやら気づいたらしい、背後から殺気にも似た怒りを感じる。
「お兄ちゃん……」
「どうすれば、コレは取れるんだ、葉月?」
 怒りの滲む低い声が聞こえてくるが、この際、羽織は無視。
 じっと葉月を見下ろしながら、問いかけて返事を待つ。
 弾かれたように顔を上げ、少し弱くなった声が返ってくる。
「あ……、…多分、クレンジングなら……取れるかも………ご、めんなさい……」
 その瞳には涙が盛り上がっていて、孝之の心にそれが突き刺さってくる。
 何とかしてやりたくても、背後には羽織がいて、両親もいつやってくるか判らない。
「じゃあ、今から着替えるから、それを持ってオレの部屋に来い」
 孝之はぎゅっと拳を握り締め、言い捨てるように言葉をかけると、逃げるように階段を上がってしまった。
 自室に飛び込み、扉をぴたりと閉めたら、口から後悔の呟きが漏れた。
「俺が……俺が泣かせてどうする……」
 昔、泣かせないと心に誓ったはずなのに、昨日の夕食前に不貞寝で見た夢が脳裏に蘇る。
 静かに泣き続けたあの日の葉月。
 もう二度と、あんな顔をさせたくないのに……。
 そうさせない、自分が彼女を守ると決めたんだったよな。
 孝之は静かに己の心に問いかける。
 その反面、今回のように悪戯が過ぎたときのお仕置きはどうしてくれようかと、泣かせずに済ませる方法に頭を悩ませ始める始末。
 着替えながらも、ノックの音がなかなか耳に入らなかった。

「たーくん、ごめんね」
   着替えも済ませた孝之は、自室のベッドに腰かけて、その前に膝立ちになっている葉月の好きにさせている。
 彼女は謝りながら、手にした濡れティッシュらしき物で、彼の顔を拭いている。
 少しばかり匂いのするそれは、どうやらクレンジング剤を染み込ませているらしい。
「取れたか?」
  「うん。本当にごめんね」
 葉月は立ち上がり、使ってゴミになったティッシュを捨てて戻ってくると、またすまなそうに謝ってきた。
 孝之はムッとした顔で立ち上がり、ぐいっと彼女の身体を引き寄せて、腕の中に閉じ込める。
 これ以上、彼女に謝らせたくも、今のような表情もさせたくなかった。
 彼女に囁くように告げる。
「怒ってない。二度とこんなことするなよ」
「ほんとごめんね」
 未だに泣きそうな顔をしている葉月。
 どうにかしてやりたいが、いいアイディアが出て来ない。
 腕の中の彼女は、今にも折れそうなほど華奢なのに、温かくてその存在感を強烈に訴えてくる。
 絡んだ視線は外せなくなっていて、見つめてくる瞳に、謝罪の言葉を零す唇に、一層、惹きつけられていく。
「怒っていないから、泣くな……」 
 気づけば、自然と言葉が口から零れ出て、指先が彼女の顎を持ち上げて、顔を近づけ掠めるように唇を触れさせていた。
 我に返り、バッと腕から彼女を解放して、彼女のようすを窺う。
 ヤバッ!
 彼女も気になるが、どちらかというと自分の行動に動揺して、なんと声をかけてやったらいいのか言葉が出てこない。
「まぁたッ、たーくんはいきなりッ!!」
 葉月は俄然怒り出した。
 人の襟首とネクタイを掴んで、揺さぶり始める。
 困った状況になったが、彼女が泣いていないのに安堵し、彼も冷静さを取り戻して苦笑を浮かべる。
 そして両手で彼女の手を押さえて、襟から外させた。
「いきなり俺の首締めて……。お前は、俺を殺す気か?」
「だって……たーくんが……」
「悪ぃな、もう時間だから」
 ずるいと上目遣いで、口先を尖らせて抗議する葉月。
 耳に入らない振りで上着を手にし、部屋から出ようとする孝之を、彼女は止めようと手近にあった物を掴んだ。
 ぐいっと引っ張られ、体勢が崩れて転びかけるのを、彼は必死で踏みとどまった。
 振り返ったら、しっかりと上着を抱きしめて放そうとしない彼女の姿が眼に入る。
「ずるい、逃げるなッ!」
 ハッタと睨みつけてくる葉月。
 そんな顔にすら、愛しい想いがこみ上げてくる。
 こんな日が来るとはなぁ。
 心の中で独りごちてから、孝之は軽く肩を竦めて彼女に一歩近づき、ぶりっと彼女の両頬を手で引っ張った。
 このまま一日中構っていたいが、そういう訳にもいかない。
 自分に言い聞かせるように、そのままの状態で彼女に語りかける。
「仕事から帰ったら、相手してやるから……」
「ずぅぇっとぅわぁぃ、だよぉ」
 頬が広がったまましゃべるから、発音が怪しくなっている。
 必死でしゃべろうとする表情がまた可愛らしくて、ついつい笑いかけてしまう。
「あぁ、絶対だ。暇なら大学に来い。あまり相手はできねぇけどよ」
 そう告げてから孝之は、葉月の頬を開放し、朝食を食べに部屋を出て階下へ降りていく。
 彼女も後を追うように降りて来て、台所で母親の手伝いを始める。
 羽織は先に食べ始めていたらしい。
 ゆっくりと食後のコーヒーを口にしている。
 その額にすでに字は無かった。
 じろっとこちらを睨みつけ、
「ごちそうさま」
 と言って、食器を片づけて、自分の部屋へと戻っていく。
 今夜から、祐恭の家で合宿だと言っていたから、その準備だろうな。
 祐恭も何を教えるのやら……。
 そんなことを考えている内に、葉月がバターをたっぷり塗って、その上に餡子も塗りつけたトーストを差し出してくれる。
「サンキュ」
 礼を言って、早速そのトーストに齧りつく。
 しっかりとコーヒーまで飲んで、上着を引っ掛けたら、
「いってきますッ」
 と言い残して、外へと飛び出した。
 
 車にキーを突っ込んでエンジンを廻す。
 温まるのを待つ間、食事の前にエンジンを廻して置けばよかった、と少しばかり悔いてしまう。
「ま、お前だけは、俺の味方だよな」
 ハンドルを撫でながら、つい呟いてしまうが、それはそれで寂しい気もする。
 ぼんやりを考え込みそうになるが、そんなことをしていたら遅刻だ。
 アクセルを踏み込んで、勢い良く車を出す。
 道路に出たところで、もう一度アクセルを踏み込む。
 途端、キュッとハンドルを取られて、コントロールが一瞬利かなくなった。
 何とか制御して、ブレーキを思いっきり踏み込んで、車を停車させる。
 一息つき、原因を確かめようと車を降りて、どう見てもコレが原因だろうと思われる物を見つけた時、眼が点になってしまった。
 どう見ても、バナナの皮だよな。
 周囲を見回すと、何メートル置きかにゴミ袋が山と積み重ねられている。
 今日はゴミの日なのか?
 首を捻って考えるが、そんなことに注意を払ってない孝之に答えが出せるわけが無い。
 もう少し注意深く、周囲を探す。
 すると、バナナの皮を発見した近くのゴミ袋の山の一つが、猫にでも荒らされたのか、袋が破けて少し中身が散乱している。
 どうやら、バナナの皮もそこに入っていたらしい。
 そして寒さで降りた霜が、バナナの皮を凍らせてしまったようだ。
「ギャク漫画かよ」
 呆れ返った呟きと溜息しか出て来ない。
 朝っぱらからゴタゴタして、最後に愛車にまで裏切られた孝之は、心身ともに疲れ果ててしまった。
 それでも仕事には行かなくてはならない。
 彼は身体を引きずるようにして、車に乗り込み、職場に向かって車を走らせる。
 その後は、一日平穏に過ごせたのが、救いだったかもしれない。

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