そうして始まったお試し期間。

なんとなく、彼女の顔を見るのが気恥ずかしい。

しかも、ヤツも手練れなのか、はたまた男なんて本気で知らないのか、昨夜メールで、

 

「名前で呼んでください」

 

とか言いやがった。

ほとんど女のスタッフに囲まれてる俺としては、あまりそういうことはしたくない。

もともと「真姫ちゃん」と呼んでいるんだから、別に良いではないか、と思うんだが、彼女はそうじゃないらしい。

二十代も半ばを過ぎると、女の鼻は急に良くなるんだよ。

 

「…稔さん?」

 

うん、ていうかね?

その「さん」付けっていうのも、もともと慣れてないっていうか寒いぼが立つっていうか、鳥肌も立つっていうか…、慣れてないんだよ。

……いつものように「稔先生」と呼んでもらいたいのだが、彼女のせっかくの笑みを奪ってしまうのはなんだかもったいない気がしたので、しばらくは我慢することにした。

 

「なに?」

「…えと。さっき電話で診て貰えないかって言われたんだけど、調整利く時間、あるかな?」

「予約…、ってこと?」

「うーん、うん。今からくるー、みたいなこと言ってた」

「了解。それじゃ、時間調整してみる」

「お願いします。…あ、で、電話で病状とか言ってたのメモしたから、これ渡しておきますね」

「……ああ」

 

これって、医療行為じゃないんだろうか…。

と、少し不安になったが、電話の主がきっと言いたい放題言うだけ言って、「今から行くわ、じゃ!」的な電話の切り方をされたんだろう。

メモに書かれてあった名前は見た覚えがあった。

 

「……」

「稔さん…?」

「いや、なんでもない」

「…そう?」

 

それだけ言うと、診察室から出ていく彼女。

俺は、というと。

少し触れ合った指先から浸食していく「よこしまな」気持ちが溢れてどうしようもなく、いきり立っていた。

 

「…うーわー…、なんで急にこんなに抱きてぇとか思うんだよ、俺…」

 

性欲魔人か!

と、一人でつっこみを入れたいぐらい…、いや、突っ込みたいのは俺の方か。

違う違う違う!

胸中でのつっこみがいつの間にか下ネタ方向に行ってしまっているのが、少し怖い。

極力二人きりでいないようにしたいが、…彼女がそれを許してくれそうにない気がする。

 

「…ね、稔さんってさゆちゃんと付き合ってるの?」

 

…彼女のいる男がわざわざ「お試し期間」と銘打った「恋人ごっこ」に付き合うと思うか、ボケ。

 

「……違う」

「嘘…」

「なんで嘘なんだ」

「…だ、だって」

「だって?」

「…仲、良いから…」

「……はぁ…。仲良ければみんな付き合ってると思うのか、真姫は」

「そういうわけじゃ…、ない、けど…」

「だったら、変に邪推して不安になることなんてないだろう?」

「……うん」

 

 

 

───って、ちょーーーーっと待て、俺。

 

 

 

不安になることない、なんて言って良いのは「彼氏」という立場だけだよな?

今のところ俺と真姫はカレカノという関係ではないわけで、……むしろ、俺は真姫のことなんて、これっぽっちも…。

 

「なぁに? 稔さん」

 

……思ってない、思ってない…!

そんな恐ろしいこと、考えてないぞ!!

 

「…別に」

「……ふーん……。じゃ、帰る」

「気を付けてな」

「解ってます」

 

と、言うと彼女は「さようなら」と言って診察室のドアを閉めた。

俺は、なにが自分のなかで起きてるのか全くもって理解出来てないまま、彼女の背中を見送っていたが、外も暗いので、本当に大丈夫なのか職員玄関口が見える窓から、外を見る。

小さな体が玄関から出てきて、外灯の少ない道を左右きょろきょろ確認して、右に向かった。

 

「……ん?」

 

すると、まるで真姫を待ってたような男が一人出てきて、真姫は嬉しそうに一緒に帰っていった。楽しそうに笑って話をする姿は、いかにも『付き合ってます』っていう感じがした。

今まで見たことのない光景に、少々驚きながら、そのまま回れ右をする。

診察室のドアを開け、中に入ってからドアに背を預けると、自嘲気味に笑みが浮かんだ。

…なんだ。

彼女には、もうちゃんとした彼が居たんじゃないか。

俺、馬鹿かもしれない。

今頃、気付いたってもう遅いのに。

 

気付いてしまった。

真姫を好きな自分に。

 

子供と一緒だな。

自分の物で誰も邪魔しない時は見向きもしないのに、誰かがそれを取ろうとすると抵抗を見せる。

彼女は、おもちゃなんかじゃないのになぁ、などと思っていると自然に薄い笑みが出た。

カチカチと響く時計の音を聞きながら、再び誰も居ない診察室にため息が漏れた。

 

 

所詮、ガキはガキだ。

 

 

ガキに本気になった俺は、もっとガキかもしれない。

 

 

 

「え?」

 

 

 

突然、なにを言われたのか解らない、というような顔をしながら、真姫がこちらに固まった表情を向けているだろうが、俺はカルテに目を落としているため、彼女の顔は見えない。

 

「だから、お試し期間、終わりにしよう」

 

先ほどしたものと同じ返答を返す。

 

「……な、なんでですか?」

 

声を振り絞って俺に「なぜ?」と聞こうとする様は、自分から「傷つきたい」と言っているようで、余計に傷つけたくなる。

 

「飽きたから」

「…たった一日で?」

「ていうか、俺、売約済みには興味ないし、嘘つきはもっと嫌いだから」

「……はい?」

「昨日、帰りに男と帰っただろ? 彼氏がいるなら、最初から言ってくれよ。高校最後の遊びに、医者をおとすゲームかなんかしてたんだろ? あいにく、俺は忙しいから他当たって」

 

相変わらずカルテに目を落としながら、仕事をしてる振りをする。

既に終わったカルテ整理、それでも仕事をしながら彼女と話をしないと、今すぐにでももっとも傷を付ける方法を行使しそうで怖いからだ。

 

「それにな? 経験者からの苦言。…付き合ってる男がいるのに、二股はいけないと思うぞ」

 

出た言葉に、驚いた。

今まで自分が言われていた俺が、人にこんな話をするなんて、と。

そうして、自分を棚に上げる。

 

自分は、悪くない。

 

黙ってた方が悪いんだ、俺が彼女を振ろうが、俺が振られようが知ったこっちゃねぇ。

 

「……あの、私――」

「てーことだから、一日早いけど、もう明日からこなくて良いよ」

「え、ちょっと待ってください!」

 

「…何?」

 

他に男がいたくせに、尚も食い下がろうとする彼女に、ゆっくりと向き直ると、自然に瞳が細くなる。

別に黙ってたことを怒ってるわけじゃない。

人に気のある素振りを見せていたのに、黙って他の男に目を向けていたのが悔しかった。



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