「…どしたの?」
「……え?」
風呂から上がってソファにもたれていると、ふいに肩を叩かれた。
首だけで見上げれば、そこには絵里の姿。
……あー。
時計を見るまでも無く、どうやら、またぼんやりとした時間を過ごしてしまっていたらしい。
「…私、何かした?」
「は?」
「……いや、何となくだけど」
急に言われた言葉に、思わず口がぽっかりと開く。
別に俺は、こいつに対して『お前のせいだ』みたいな態度は見せていない。
それなのにいきなり言われた『私のせい?』的な発言に、戸惑ったというのが1つ。
そしてもう1つは……やっぱり、どこかで俺自身の気持ちがコイツにバレたんじゃないか、という懸念だった。
「…別に、お前なんかのせいじゃねぇよ」
ふいっと顔を逸らし、無理矢理ニュースへ向ける。
――…と。
「っ…おい!」
「…人が心配してやってるのに…!そんな態度無いでしょ!!」
「な…にを!?別に、お前に心配してくれなんて言ってないだろ!」
「何よその言い方!可愛くない!!」
「あー、そーだよ!可愛くねぇよ!むしろ、それで結構!!」
「なんですって!?」
「何だよ!!」
パチン、と突然消えた画面から絵里に食いかかり、勢いのまま立ち上がる。
売り言葉に買い言葉。
ンなモン百も承知だが、どうしても止められなかった。
…悔しかったと言うのもあったんだと思う。
明後日には、コイツは俺の知らない男と二人で暮らすんだという事が。
理不尽だって事は、分かってる。
分かってはいるが――…俺にだって、どうしようもない。
「大体、お前は俺の気持ちなんて、何にも分かろうとしねぇじゃねぇか!」
「…気持ち?気持ちって何よ。言わなきゃ分かんないに決まってるでしょ!」
「!それは……っ…」
「純也は、いっつもそうじゃない…!いつもそうやって、私だけ責めて!でも、純也だって悪い所あるのよ!?」
精一杯身体を真っ直ぐに伸ばして、しっかりと俺を見上げて。
小さな身体のクセに、絵里の存在はやっぱり大きかった。
…一緒に暮らす前から、それは分かりきっていた事。
だけど、こうして一緒に暮らしてみて、色んな顔を見て。
それで、余計に――……離したくないと思った。
一緒に暮らしてる理由も、初めに交わした約束も、全部分かってる。
分かってるからこそ、どうしても……とそう思う。
「っ…!」
ぐいっと両肩を掴み、少しかがんで視線を合わせる。
「…じゃあ、言うよ」
「……え…?」
そして静かに呟くと、一瞬、ぎゅっと強く瞳を閉じた絵里も、おずおずと瞳を開けて俺を見つめた。

「キス、しようぜ」

「…っ…な……!?」
「それが、俺の正直な気持ちだ」
馬鹿だな。
俺達の事情を全て知ってるヤツが居たら、きっとそう言って笑うだろう。
敵うワケないのに。
キスどころか、例えコイツを抱いたとしても、これからの状況が覆るなんて事はありえないのに。
……こいつの中にはしっかりと、俺の知らない『男』の存在が確立しているんだから。
「……じょ…、冗談でしょ?」
一瞬の間の後で、瞳を丸くした絵里が小さく笑い声を上げた。
「純也らしくないわよ。…っていうか、キス?はぁ?そんな……何言ってんの?」
あはは、と笑いながら、視線を逸らして首を振る。
…らしくない。
そうだな、確かに俺らしくないとは思う。
そんな事言ったら今後の自分がどうなるか、なんて全く考えもせずに、なりふり構わず欲しがるなんて。
「…は。冗談だよ」
「……え…?」
「お前の反応が見たかっただけだ」
短く笑い、両肩から手を離して絵里に背を向ける。
冗談。
…と言うよりは、気の迷いとでも言うべきか。
何を焦ってるんだ?俺は。
それとも、最後に……とでも思ったんだろうか。
どちらにせよ、こんな所にいつまでも居るべきじゃない。
もうここは、俺が居ていい場所に変わったりしないんだから。
「…?なん――…ッ!」
ぐい、と無理矢理に肩口を掴まれた途端。
強引な腕が、首に絡んだ。
「じゃあね!」
「…な…んだよ…」
「おやすみっつってんの!」
「……は?お前、何怒ってんの?」
「っるさい!怒ってないわよ!」
どすどす、と足音を立てながら、絵里が寝室へ向かって――…
「っ…!」
デカい音と共にドアが閉まった。
「……何だ、ありゃ…」
そちらを見つめたままで……そっと、口元に手を当てる。
…言ってないぞ。
アイツからキスしてくれ、なんて事。
「……………」
自分から言い出した事が、マズかったんだろうか。
確かに、『キスしよう』とは言った。
そうは言ったが――……
「……っくそ…」
こんなにも、嫌な気持ちになるなんて思わなかった。
キス、したのに。
これまでずっと好きだった女と、実際に。
…それなのに。
喜びでも嬉しさでもなく、残っているのは後味の悪さと…後悔。
キスなんて、望まなければ良かった。
そうすれば、もっと潔く、後腐れなく別れる事が出来たのに。
「…………ちくしょう」
僅かに残っている唇の感触と温もりに、どうしようもなく苛立ちだけが募った。

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