違う。
けれど、違わない。
何の音もしない部屋が、辛かった。
何も言わずに耳元でため息をついた彼が、どうしようもなく恐かった。
……もう、戻らない。
きっと、もう……彼は、私なんかに。
そう思うと、また涙が浮かぶ。
「……先生…?」
不意に、彼が身体を私から離した。
……それで、おぼろげながらもその表情が目に入る。
「っ…」
まるで、無表情に近い顔。
そのままで、彼は私を真っ直ぐに見つめていた。
「……え…?」
一度瞳を伏せた彼が、ゆっくり瞼を開くと同時に手を動かした。
……え?
彼が指先で触れたのは、耳元。
同時に、彼の視線はそこへ向かう。
「…ピアス?」
ぼそっと呟かれた言葉で、思わず瞳が丸くなった。
「っ…ちが…います。これは……」
再び真っ直ぐに瞳を見つめられて、ぞくっとしたモノが身体を走る。
「……違う…の」
緩く首を降り、そして耳元のそれを外して見せる。
……だけど、彼の表情は変わらなかった。
「…あ」
「それじゃ、コレは?」
次に彼が向かったのは、胸元。
…の、ネックレス。
それを指先で引っ掛けるように取られ、一瞬だけ冷たさが消える。
「これは……誕生日に…」
「…誕生日に?」
「………お兄ちゃんが…」
『誕生日』と言う言葉を呟いた途端、彼の瞳が鋭くなった。
まるで、『誰に?』と告げていたような気がして、思わず答える。
……なのに。
やっぱり、彼はその表情を崩す事が無かった。
…気に入らない?
それとも、何とも思ってない?
それすらも図れず、やるせないような気持ちが広がる。
「…孝之が、ね」
「ちがっ…違う…の。これは……先生と付き合うなら…って、言って…」
ほんの少しだけ嘲るような彼の声で首を振り、あの時の言葉を思い返してみる。
そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もない、私の誕生日だった。
これまで『プレゼント』なんてくれた事も無かった彼が、可愛らしい包装の細長い箱を私にくれたのだ。
開けてみたら、何度か雑誌で目にした事のあるブランドの、新しいデザインのネックレスで。
…すごく驚いたけれど、でも…彼が言った言葉で納得もした。

『祐恭と付き合うなら、それ位するんだな』

高い物を、身に纏う様に。
安い物でも、価値ある物に見える様に。
そう言って、彼は諭すみたいに続けた。
…だから、そうなろうと思った。
先生が選んでくれたから。
彼が、私にチャンスをくれたから。
だから、少しでも近づけるように。
彼が、私と一緒に居てくれるように。
私を――…恥ずかしく思わないで済むように。
あの時、改めて思った。
彼に相応しいと言われる、大人になりたいって。
「…そう」
ぽつりと呟いた言葉に、視線が上がった。
…でも、やっぱり彼の表情は…どこか虚ろにも見える。
いつものような覇気が無いのは勿論だけど、でもなんだか、それ以上に――…

「それじゃ、これは?」

「…え…?」
ふっと視線を落とした彼が、手に取ったモノ。
それは、彼ならば絶対に忘れる事のない、彼がくれたあの指輪だった。
「……これは…っ…」
普通に答えればいいのに、なぜか言葉がつまる。
しどろもどろになって、視線が…定まらない。
……同じ、モノ。
先生が私にくれた、彼と同じ……おんなじ、指輪。
…ペアリング。
その言葉を口にするだけで、不思議な位幸せになれた。
彼との共通点と言うのが、本当に本当に嬉しかった。
これまで生きてきて、初めて貰った特別なモノ。
大好きな人から貰った、大切で掛け替えの無い――…指輪。
それは右手の薬指で変わらずに、小さいながらもしっかりとした存在を放っていた。
「………先生が、くれた物…」
「…………」
「すごく…凄く嬉しかったんです」
ぎゅっと左手で包むように手を重ねると、あの時の気持ちが蘇ってくるような気がした。
彼がくれた、本当に大切な物。
…内側に入っている、彼の名前。
そして、それに続く自分の名前。
それは他の誰の物でもなく、『私』だけのもの。
その事を確かに証明してくれていて、本当に本当に嬉しかった。
「……これだけだ」
「…え…?」
「俺の存在を示すモノは」
手を取ったままで彼が囁いた言葉は、いつもの彼とは全然違ったトーンだった。
「ちっぽけなモノだな」
「…先生…?」
「小さすぎて、目立ちもしない」
いつもの彼とは、違う。
いつもだったら、こんな風に言ったりしない。
…この言葉も勿論だけど、こんな…口調でなんて。
何だか凄く儚い様な印象で、胸が苦しくなる。
……ひょっとしたら、私が彼に言わせてるんじゃないだろうか。
そんな風に、とても……恐い。
「…誇示するには、足りない」
「……そんな事は…!だって、この指輪は――」
「知ってた?右手にしてても、何の効力も発揮しないって事」
「…え…?」
はっ、と短く笑うように言った彼が、指先で指輪を弄ったまま続けた。
…勿論、目線はそこを見つめたまま。
伏せ目がちだからこそ、余計に……不安を駆り立てられる。
「……っ…あ。待って…!待って下さい!」
沈黙が訪れてしまうそうになった時、ある事を思い出した。
…どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。
こんなに大切な事なのに。
……この、彼の表情を変えられるような事なのに。
「これ。…これも、先生に貰った物ですよ?」
彼の手を取って握り、そっと――…口元へ運ぶ。
きゅっと結んだ唇へ彼の指先を当て、そして正面から彼を見る。
…けれど。
彼は、じっと唇を見てから、ふっと視線を逸らしてしまった。
……それだけじゃない。
僅かに――…今、まるで嘲るような笑みを浮かべた。
「…どうりで」
「……え?」
「やけに目が行くと思った」
そう言うと、彼が視線を逸らした。
「皮肉なモンだな。俺の存在を誇示するはずの物が、ヨソの男を引き寄せる手助けをしてるなんて」
「……先生…?」
「でも、だからってここまで気合入れる必要があるのか?…たかがホストクラブに行く為に」
「違う…!私、ホストクラブに行くなんて聞いてなかったんですよ!」
「…へぇ。それじゃ、どこに行くつもりだったんだ?」
「私はただ……暁さん達が――」
「稔さん達が、ね。…ふぅん。それじゃ、何?こんな時間に、彼らがどこへ連れてってくれると思った?買物?食事?」
「だ…から、それは――」
「それは、何だ。…え?わざわざ化粧までして、俺には見せないような格好もして。……それで、何?続きは?弁解なら幾らでも聞いてやる」
「ッ…それは…っ…!」
ぐいっと両肩を捕んだ彼は、先程までと態度を一変させた。
真っ直ぐに私だけを見つめて、一度たりとも逸らさずに瞳を射抜く。
…恐い、と…少しだけ感じた。
彼の正直な気持ちをぶつけられているのは、嬉しい。
でも、彼が本気で怒ってる。
それが分かって、何も言えなかった。
「違う…っ…」
「違う…?何が違う。誘われた文句が?それとも、弁解が?」
……信じてくれてない…?
違うの。
先生が思ってるような事じゃない。
そう言いたいのに、彼の前では言葉がしぼんでしまった。
言いたい事は、沢山ある。
謝らなければいけない事も。
でも、彼はその隙を与えてくれそうに無かった。
「っ…!」
「…それじゃ、何か?稔さん達に誘われたから、ここまでキメて来たのか?」
「せんせ…!?」
じわっと涙が浮かんだ時、彼がワンピースの肩紐を肘まで下ろした。
同時に身体が震え、ぎゅっと力がこもる。
…当然、こんな格好だから彼の目には下着姿の私が映っているはず。
「や…」
…嫌だった。
辛かった。
そんなんじゃないのに。
先生が思ってるような理由じゃないのに。
だけど、それを言う前に彼が一度瞳を伏せてから、視線を逸らしてしまった。
…一度、しっかりと下着を見つめてから。
それはもう――…心底辛そうな顔で。

「…悔しいを通り越して、狂いそうだ」

まるで吐き捨てるかのように呟いた言葉で、瞳が開いた。
「ち…がうっ…!違うっ!!」
ふるふると首を振り、彼の腕を掴む。
押さえつけられていた身体が自由になったのは、当然、彼が私からどいたから。
…でも、それは嫌だった。
彼が離れた今、彼はもう私を見ていなくて。
大きくため息をついて髪をかき上げた彼は、もう……私なんかの所に戻って来てくれないような気がして。
それが、本当に恐かった。
……嫌だった。
『終わりにしよう』なんて聞きたくない言葉が聞こえてきそうで、自然と声が大きくなる。
「信じてくれないかもしれないけれど、そこはっ…そこだけは、違うの…!」
無理矢理にでも視線が欲しくて、下から顔を覗きこむようにしていた。
…だけど、それでも視線は得られない。
彼はもう、しっかりと瞳を閉じてしまっていたから。
「そこは…先生だけだから…。ここは先生だけの為だから」
言葉に力が入らない。
でも、それでも終わりにするわけにいかない。
たとえ、涙声で聞きづらくても。
たとえ、彼が全く聞いてくれていなくても。
…それでもやっぱり、口を閉ざしたくは無かった。
彼にもう一度振り向いて貰うって、そう決めたから。
「…暁さんが言ったの……先生の所に連れてってくれるって」
ぎゅっとスーツの上着を掴むと、僅かに彼の身体が震えた。
…聞いてくれてる。
それが分かっただけでも、希望は消えない。
「だからっ…だから私…!…これは、先生の為なの。全部、本当に…!!っ…先生に…会えるって聞いたから…。だから、それで…っ…」
ぼろぼろっと、瞳の端から涙が零れた。
情けなく、しゃくりも上がる。
――…と、その時。
彼が、不意にこちらを見た。
……先生。
ずっとずっと、欲しかった瞳。
それで安心したのか、一層涙が溢れた。
「違うの…!違うっ……下着だって…、先生の為なの…!……ここに触れるのも、これを見るのも…っ…先生だけ…」
涙を拭うのも忘れて続けると、最後の方は自分でも聞き取れない位の声量になっていた。
…でも、彼は今度は視線を逸らしたりしなかった。
ちゃんと私だけを見てくれていた。
……だから、辞めたくなかった。
ちゃんと、経緯(いきさつ)を全て話すまでは。
たとえ彼が、それを信じてくれなくとも。
「…っ…先生に…ひっ…く…先生に嫌われたら……私…ダメに、なる」
首を振りながら彼を見ると、辛そうに眉を寄せてから――…頬に触れてくれた。
そこがじんわりと温かくなって、不安で一杯だった自分がゆっくりと解放されていくのを感じた。
…特別な人。
やっぱり彼は私にとって大切な人だから、だから……行かないで欲しい。
置いていかないで欲しい。
……『いらない』なんて言わないで欲しい。
そんな思いから、彼の服を掴む掌に力が篭った。
「狂うのは、私の方っ…!…ごめん、なさい……っ…ごめんなさい…!もう二度としない。二度としないから…!だから、そんな…っ…そんな風に言わないで…!!」
まるで泣き叫ぶかのように言った最後の言葉で、ぎゅうっと彼が抱きしめてくれた。
途端に身体が温かさに包まれて、安心するように一層涙が流れる。
恐かった。
彼が、『いらない』って言葉を向けるんじゃないかって思ったから。
だから、それを防ぐ為に精一杯言葉を紡いだ。
私が話していれば、その言葉を聞かないで済むんじゃないか。
子供だから、それしか思いつかなくて。
…それで、ずっとずっと――……気を張れていたんだと思う。
「私…っ…わたし…!」
「…分かったから。…もういい」
ぎゅっと抱きしめたままで、彼が耳元で囁いた。
ひどく落ち着いている声。
…だけど、さっきまでとはまるで違う。
今のは、確かに彼自身の声だった。
これまでの私が知っている、先生その人の確かな声。
「…ごめん。ちょっと……抑えられなかった」
「…っ…ふぇ…」
きつく抱きしめられて髪を撫でられ、彼を掻き抱くように私も腕を回す。
…ほっとするような、温もり。
それは何物にも代え難い、今一番欲しい物だった。
「……分かってたんだ。俺の我侭だって事は」
「っ…!そんな…!」
「いや、ホントの事だよ。…下らない嫉妬だって事も、単なる思い過ごしだって事も……分かってたんだよ」
髪を撫でてから頬に触れた彼が、ゆっくりと身体を離した。
…すぐそこにある、瞳。
やっぱりその色はいつもと違うけれど、向けられている温かさは同じだった。
そして――…涙を拭ってくれる、その仕草も。
「…悔しかった。俺以外の男の為に、こんな格好したのかって思ったら」
「違う…!それは――」
「ん。分かってるんだよ。…だけど、我侭だから。だから――…止まんなかった」
そう言って弱く笑った彼は、今度こそ唇に触れてくれた。
彼自身の意思で。
そして――…彼がいつもしてくれるように、その、親指で。
「…ちゃんと、見せて?」
「え…?」
「……これ。俺だけの為なんだろ?」
「…あ…」
つ、と唇を離れた彼の指が滑り落ちたのは、僅かに見えている――…下着だった。

先生だけの場所。

先程言った言葉が頭に浮かび、急に……恥ずかしくなってきた。
「そ…れは…っ…」
「…それは?」
「……あの…」
確かに、彼の場所だと思ってる。
それは勿論、嘘じゃない。
…でも、だからこそ……恥ずかしかった。
あんな事を言ったという事が。
そして――…改めて彼に促されている、今が。
「っあ…!」
「…俺だけのモノだから」
つつっと指が背中に回り、途中まで下ろされていたワンピースのジッパーを下ろしてしまった。
途端に肩紐ごとワンピースが前に垂れ、慌てて両手で肩を抱くように押さえ――
「っ…!」
「…ダメ」
…られなかった。
「…ッ……いじわる…」
「そう?…俺は、さっき言ってくれた事を復唱しただけだよ」
上目遣いに彼を見てみるものの、当然何の効力をも発揮する事は出来なかった。
…それどころか、何かを楽しむように……彼が穏やかな笑みを浮かべる。
「………っ…あ…!」
「…見せて?」
耳元で囁いて、柔らかな笑みを見せて。
……これって、とても反則だと思う。
でも、彼は全く気にしない様子で顎を捉えた。

「…俺のモノって、誇示してみせてよ」

「ッ…」
その時彼が言った『モノ』と言うのは、もしかしたら――…もしかするんだろうか。
捕えられた瞳を逸らす事が出来ずに彼を見つめていると、ふっと口元を緩めてから、両手で私の頬を抑えて口づけを落とした。


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