当然だが、店からはまっすぐ家に帰った。
 無論、恭介さんを安心させるために。
 それが今1番大事だと思ったし……何より、葉月の態度がどうしても気になる。
 いつだって、隠しごとなんてせずにまっすぐ進んできたであろうコイツ。
 それは恭介さんのこれまでの葉月自慢の端々からもわかっていたことだからこそ、自分が知ってる姿とあまりにもかけ離れすぎていて、正直不安な部分が大きかった。
「ちゃんと話せよ?」
「……うん」
 帰り着くなり、上着も脱がずにリビングのソファへ座らせ、悪いが目の前で仁王立ち。
 浮かべた弱い笑みは、俺が怖いとかそーゆーのではなく、握りしめたままのスマフォをどうしたものかと思案しているようにしか見えない。
 ……ンな顔すんな。
 一層不安をかき立てられて、眉が寄る。
「電話……するよ?」
 まじまじと見つめていたのがわかったのか、ふと顔を上げた葉月が呟いた。
 無言の圧力でもかけていたのかもしれない。
 さすがに目の前にいたら喋りにくいかと思い、くるりと背を向けてキッチンへ。
 ……とはいえ当然、気にはなるワケで。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら葉月を見ると、まじまじスマフォを見つめてから、ゆっくりとパネルに触れた。
 意を決したように耳へと持って行く横顔は、まさに神妙そうで。
 なんだかんだ言っても、やっぱり真面目だなお前。
「……もしもし?」
 心なしか、深呼吸したように見えた。
 だが次の瞬間、ぎゅっと目を閉じて眉を寄せる。
 ……あー、相当怒ってるな。恭介さん。
 ソファで苦い顔をしている葉月を見ていてももちろんわかるが、キッチンに立っている俺にまで声が聞こえるってのは、相当のデカい声だって証拠。
 ここ最近の恭介さんに会ったのは、確か8月のお盆すぎ。
 葉月とは違い、彼は仕事の都合で年に何度か日本へ帰国し、ついでのようにウチやじーちゃんちを立ち寄ってからオーストラリアへ帰っているらしい。
 だからまあ、あンときと髪型こそ変わってるだろうが、ほぼほぼ変わりなしと思っていいだろう。
 そういやあのときも、『最近、葉月の周りをうろちょろする輩がいる』と、それはそれは怖い顔をして言ってたっけか。
 にしても、正直意外だ。
 それこそ、普段かなり溺愛している愛娘のことを、ああも怒鳴りつけるなんて思いもしなかった。
 ……ま、たまにはイイ薬だよな。
 俺も昔はよくやられたもんだ。
 相手を本気で心配してるからこその、叱るって反応。
 身をもって体感するといい。
「う……それはあの……っ……ごめんなさい……」
 アイスコーヒーを手にリビングへ戻ると、たまにテレビで見かけるように、葉月は電話を持ったままぺこぺこと頭を下げた。
 心底反省している様子が伺えて思わず笑うと、気まずそうに笑みを浮かべる。
 ……ったく。
 これに懲りたら、二度とこんな真似すんな。
 ま、さすがに次はねぇだろうけど。
「はぁ……」
 俺がぶっさいたままの新聞を手に隣へ座ると、ちょうど電話が終わったらしく、葉月が大きなため息をついた。
 ぐったりしているように見えるのは、気のせいじゃないだろうな。
「わかったか? 恭介さんが、どんだけ心配してたかってことが」
「……うん」
「これからは黙って家出したりすんなよ?」
「別に、家出したわけじゃないよ? ……入試だもん」
「そりゃそうだけどな。でも、ちょっとそこまでっていう距離じゃねーんだ。黙って家を出てくんな」
「……ごめんなさい」
 しゅん、と肩をすくめた葉月の頭をぐりぐりと撫でてから、どっかりソファにもたれる。
 普段、あんなふうにされることはないんだろうな。
 葉月然り、恭介さん然り。
 それぞれの性格と生活を想像してみても、滅多にってモンなんだろう。
 同じようにソファへ背を預けた葉月は、やっぱり疲れているように見えた。
「……あ?」
 広げたものの見るでもなく新聞を膝に乗せていたら、急に着信音が響いた。
 ……優人か。
 見れば、いつの間に撮影したんだか知らないが、アイツの自撮り写真が表示されている。
 あえて設定を解除しない理由はなぜかなどと述べるまでもなく、単にアイツが『そうしてくれ』っつーから、ってだけ。
 ヤツ曰く。

 『俺様登場って感じするだろ?』

 らしい。
 ま、なんでもいーけど。
『あ、俺ー』
「知ってる」
 新聞から目を離さず携帯を耳に当てると、すぐに呑気な声が響いた。
 ざわざわと背後がうるさいことからして、恐らく出先なんだろう。
 ……出先。
 時計はちょうど、17時を少し回ったところ。
 アイツのことだ。
 休みの日の夕方に、のんびり家へ帰るタチじゃない。
『あのさー、今日のコンパのメンツひとり足りないんだよ。お前来ない?』
「……唐突だな。つーか、昨日も飲んだのに元気だな。お前」
『まあね。若いからアルコールは水』
「その言い草はもはや依存症レベルだぞ」
 ぶ、と思わず噴き出し、新聞をテーブルへ放る。
 給料日前だってのに、アイツどんだけ酒につぎ込んでんだ。
 ……ま、俺も人のこと言えた義理ねぇけど。
「コンパ、ね。で? 場所は?」
 相変わらず、飲みが好きだな。
 なんて思いつつも、了承と取れる返事をしてる時点で同じ穴のってヤツなんだろうが。
「コンパ?」
 ……はた。
 目を合わせたまま首をかしげた葉月と、当然のように目が合う。
 家に帰ってみたら、お袋はいなかった。
 土曜とあって、羽織は帰ってこないだろう。
 この状況下で飲みに行き、ひとりきりで、留守の我が家に置いていくワケにはいかない……が、しかし。
 かといって、それじゃあ飲み会に連れてくのが果たして正解かっつったら、それはそれで難ありき。
 まぁ、羽織を連れてったことはあったが、あれは祐恭が来るから連れてったようなモンだし。
 ……とはいえ、ひとりにしたらメシ困るだろーし……。
 てか、コイツがあっちへ帰って恭介さんに何を言われても困る。
 あ、だめだ。
 どっちに転んでも俺の首が危ない。
「…………」
「なぁに?」
 それに、今日の今日だ。
 やらかしてきたってのと、勝手にひとりで思いつめて行動してきたってのもあって、やっぱ心配だな。
 葉月を見たままでいたら、電話の向こうで激しく名前を呼ばれているのにようやく気付いた。
「あー、わり」
『なんだよー。あれ、お前何? 今、ツレいる?』
「ま、そんなトコだな」
 ツレといえばツレで違いない。
 迎えに行ってから今まで、散々連れ回したしな。
『マジで? じゃあ、一緒に来れば?』
「あー……まぁいいか。そうだな」
 優人は違った意味で取ったらしいが、まあいいだろ。
 どんだけ妄想が膨らんでるのかと聞くのは馬鹿らしいし恐ろしいので、適当な返事をしてからとっとと電話を切る。
 が、しかし。
 これから、今までの経緯をざっとであろうとコイツに話さなきゃなんないワケで。
「…………」
 葉月の背後に浮かぶのは、両腕をがっちりと組んで俺を睨みつけている恭介さんで。
 ……あー。
 どうかこの件が彼の耳に入りませんように。
 相変わらず『?』を浮かべたままの表情で首をかしげる葉月に向き直ると、開いた口からため息が漏れた。
「出かけるの?」
「ああ。まぁ……飲み会だけど。お前も来い」
「いいの? 確かに向こうでは飲酒可能だけど……でも、日本じゃ未成年はだめだよね?」
「…………は?」
「え?」
 さらりと聞こえた、なんかとんでもないセリフ。
 だが、眉を寄せた俺とは違い、葉月は不思議そうに首をかしげただけだった。
「は? 何? オーストラリアは飲めるのか?」
「うん。飲酒は18歳から平気なの」
「まじで!? んじゃ、お前飲んだことあんの!?」
「誕生日に、ちょっとだけね。でも、お父さんが『お前は日本人なんだから20歳まで我慢しなさい』って」
「……あー、言うだろうな。そりゃ」
 そのときの様子がはっきり目に浮かび、乾いた笑いが漏れる。
 恭介さんの場合は、法律がどうのじゃない。
 間違いなく、あの人がルールブックだろうし。
「まあ飲ませるつもりはねぇけど、どーする? お袋も帰ってこねーし、ひとりじゃ困るだろ?」
「えっと……じゃあ、行こうかな」
「よし。ただ、1点確認事項な」
「え?」
 目の前に人差し指を立て、『いいか?』と念を押す。
 案の定、詳しい部分を飲み込めてなさそうな顔だが、うなずいた以上はこちらのモノ。
 めんどくせーことにだけは、なんねーよーにしねーとな。
 旧知のツレどもがおかしなマネをしないように、乗り込んだらまず先手を打つが、まずはそれよりも先に打つべき手がある。

「このこと、恭介さんには黙っとけよ」

 ずいっと顔を近づけてから、ぼそりと伝える。
 すると、案の定不思議そうな顔を見せた。
「どうして?」
「俺が殺されてもイイなら、別だけどな」
 少しだけ顔を歪めてから立ち上がり、キーを手にする。
 だが、すぐにその意味がわかったらしい葉月は、苦笑を浮かべたまま何も言わなかった。
 ……コイツらしいというか、なんというか。
 まぁ、恭介さんに情報が渡ることはないだろうから、その点では安心か。
「っし。んじゃ、行くぞ」
「あ、うん」
 若干心配は残るが、まぁ、いたしかたない。
 そばにいりゃ、ちょっかい出してはこねーだろ。
 笑みを見せてうなずいた葉月の手を引いて立ち上がらせ、玄関へと向かう。
 ……だが、しかし。
 この考えは、すぐに藻屑となって消え失せた。

「葉月ちゃんって言うんだー。へぇー、珍しい名前だねー」
「よく言われます」
 ……甘かった。
 俺が葉月を連れて居酒屋に入った途端、奪取するように優人たちが群がり、気付けば葉月は友人連中に取り囲まれるように座っていた。
 ……はー。なんつー壁だ。
「ずいぶんかわいい子連れてきたわね、孝之」
「あ? ……あー、従妹」
「従妹? へぇ。あんなかわいい従妹いたんだ」
「まーな」
 向かいの席でビールを呷っているアキのいたずらっぽい笑みにため息を返すと、頬杖をついて葉月を見て笑う。
 ……なんだよ。
 明らかに好奇心丸出しの表情で、思わず眉が寄った。
「そんなにおかしくねーだろ? 俺にだって、従妹のひとりやふたりはいる」
「いや、そうなんだけどさ。でも、孝之の従兄弟はみんな優人みたいなんだとばっかり思ってたから」
「……お前な」
「あはは。ごめーん」
 思いっきりジト目を向けて舌打ちし、手元にあった焼き鳥を食らう。
 ……あ、うま。
 思わぬ味付けに、表情が一瞬緩んだ。
「ん?」
 もうひと串……と手を伸ばしたとき、不意にアキが立ち上がって葉月の元へ向かうのが見えた。
 ……何する気だ?
 まるっきり、傍観者そのもの。
 ただただ見ていたら、群がっていたヤツらを一喝してすぐ、葉月を救い出してきた。
「お前相変わらず器用だな」
「うるさい男連中のさばき方は慣れてるの」
 ぱんぱん、と手を叩いて席に戻って来たアキを、どこか恨めしげな眼差しでヤツらが見つめていた。
 だが、無論何かを思っていたとしても、口を出すワケがない。
 相手はアキ。
 いろんな意味で、太刀打ちできないと悟っているんだろう。
「初めまして、だよね? 私は、孝之の幼馴染の亜紀代。アキでいいよ」
「初めまして。従妹の、葉月です」
「大変だったでしょ? アイツらの相手じゃ、疲れちゃうわよね」
「ふふ。ありがとうございます」
 くすくす笑いながら、早くも打ち解けたように見えて、ある意味感心する。
 ……ま、これでひと安心だな。
 アキと話している姿は、普段の葉月そのもの。
 必要以上に気を遣うでもなく、ただただ笑って楽しそうにうなずく。
 ま、しばらくは平気だろ。
「なぁ、孝之ー」
「あ?」
 別に、コレといって何か話しかけるつもりはなかった。
 だが、何か言うか……なんて思いかけたとき、優人に呼ばれてそのまま席を動く。
 俺が離れたあと、何が起きるかなんて予想しなかったし、何より、このとき俺の目の前にいたふたりは、至極普通の雰囲気だったから。
 それに――……。
「ワリ、ちょっと通せ」
 壁と葉月の間を少し強引にすり抜け、優人の元へと向かう。
 そう……心配なんてしなかった。
 単に、アキなら大丈夫だと思ったから。
 信頼してるし……アイツなら、妙な話を吹き込む可能性も低かったから。
 だから俺は、席を立った。
 アキならばという、ある種絶対的な思いがあったから。
 ……よく考えてみればそれは、俺の主観による我侭なモンだったんだとは思うが……このときの俺は、疑いもしなかった。

「葉月ちゃん、大変でしょ?」
「え?」
 孝之が、席を離れてしばらくしたとき。
 いたずらっぽい笑みを亜紀代が浮かべたのを見て、葉月は瞳を丸くした。
 正直、何についてかわからない、というのがあっての反応だ。
「何がですか?」
「孝之の子守」
「ふふ、子守ですか?」
 亜紀代の言葉に、葉月が一変して表情を崩した。
 それを見て、同じように彼女も笑う。
 ――……が。
「……でも」
 トーンの落ちた声で、そんな和やかな『おしゃべり』ムードは払拭されてしまった。

「孝之って、大変でしょ?」

 そのときの『大変』という言葉は、先ほどのモノとはまた違っていて。
 少しだけ寂しそうな顔をした亜紀代に、葉月は思わず喉を鳴らす。
「大変……ですか?」
「そ。うーん……なんて言うのかな。よくいえば、母性本能をくすぐるとでもいうのかしら」
 ふっと逸らした亜紀代の視線の先には、優人らと楽しそうに笑いながら話す孝之の姿があったが、それが何を意味するのか、このときの葉月にはわからなかった。
「孝之に関わると、自分のことを後回しにしちゃうでしょ」
「……あ……」
 思わず口元に手を当てた葉月に、亜紀代も小さく笑う。
 その笑みはまさに、『経験者』としてのある種の風格があった。
 ……気のせいだろうか。
 ふとそんなことを考えるが、次第にそれは『予想』から『確信』へと変わる。
「私も、ずっと孝之の面倒を見てきたっていうか……。なんか、放っておけないのよね。アイツって」
 その、眼差し。
 柔らかで、温かで……そして、穏やかで。
 彼女の横顔を見たとき、葉月は推測が確信に変わるまで時間はかからなかった。

「だから……恋愛できなかったのかもしれない」

 その言葉がすべて。
 思った瞬間、葉月は小さく喉を鳴らした。
「アイツ見てると、自分が恋愛なんかしてる場合じゃないって思うのよね」
「……え?」
「なんか、自分がそばにいて世話をしてやらないといけないっていう気にさせられるっていうか」
 葉月ちゃんもそうじゃない?
 ほんの少しだけ困ったように笑った亜紀代が、頬杖を付いて彼女に向き直った。
 まっすぐに向けられている瞳は、酒のせいかほんの少しだけ潤んでいて。
 ……まるで、見透かされてるみたい。
 心細さからか、葉月はきゅっと手を握り締める。
「まぁもちろん、孝之自身はそんなつもりこれっぽっちもないんだろうけど。……でも、だからタチが悪いのよね」
 苦笑を浮かべてから再び孝之を見た亜紀代が、ふっと視線を戻してまた葉月の瞳を捉える。
 そうなんでしょう?
 あなたも、同じ。
 まるでそう言われているようで、否定することも肯定することもできず、ただただ逸らせずに彼女を見つめ返す。
「葉月ちゃん、大変ね」
「っ……」
「でも、早くしないと……自分の幸せ、掴み損なっちゃうわよ?」
 まるで、先輩に言葉をもらうかのように。
 葉月は何も言えず黙って唇を結んだが、それでも、自然と目だけは彷徨う。
「…………」
 亜紀代から視線を外して向かうのは、孝之。
 今、1番求めているものだったのかもしれない。
 どこかで、亜紀代の言葉に困っていたのかもしれない。もしくは、戸惑っていたのかもしれない。
 それでも今そばに彼がいないことが、寂しいようなほっとするような、なんともいえない気持ちだった。
 葉月にとって彼は、昔から見つづてきた従兄だ。
 ……幸せ。
 自分の幸せはどこに戻れば手に入るのだろう。
 ふと蘇るのは、昔の古い記憶。
 そして、免れようのない事実。

 『俺はどこにも行かないから』

 もしかしたら、当の本人は忘れてしまっているかもしれない。
 それでも、自分にとっては褪せることのない鮮明な記憶。
「…………」
 ずっとずっと小さいころに聞いた、ある日の約束めいた言葉が頭に響き、思わず顔が俯いた。

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