「ったく……お前、いつの間に飲んだんだよ」
「ん……まだ平気……」
「平気じゃねーだろ!」
 広義で俺を殺す気か!
 思わず、苦い顔をしたまま奥歯を軋ませる。
 22時近くになったころ、ようやく解放されて帰って来た愛しい我が家。
 ……だが。
「あーもー……マジかよ」
 ……やっぱ、マズイよな。
 お袋や親父に、酔っ払ってる葉月を見せるのは。
 というわけで、こっそり先に中へ入ってから、リビングにふたりがいないのを確認し、とっとと部屋まで担いでくることに成功した――……現在。
 ……だがしかし。
「…………はぁ」
 問題は依然として、目の前にあった。
「ったくよー……」
「ん……」
 ベッドへ下ろしてから、隣にどっかりと座りこむ。
 大きくベッドが沈んだものの、まったく気にする様子も起きる気配もなく、すやすやと幸せそうな顔で寝たままの葉月。
 その根性が、少し羨ましい。
「……つかお前、明日入試じゃねーのか?」
 頬にかかる長い髪を払ってやるも、当然応答などあるワケもなく。
 やたら気持ちよさそうに、こちらへころりと寝返りを打つとベッド占領は継続された。
「…………」
 しょーがねーな、なんて呟きながら軽く布団をかけてやった俺は、あー、優しいよな。
 ホント、明日起きたら心の底から感謝させようと思う。
 ――が。
「っ……! ……あ?」
 ベッドへもたれるようにしてフローリングに足を投げ出した途端、肩を掴まれた。
 だが、弾かれるようにそちらを振り向いてみて、驚く。
 なんせ、当の本人はまったく目を開けずに変わらず眠りこけていたから。
 ……平和なヤツ。
 結局そんな葉月を見ていたところで、出てくるのはため息ばかり。
 仕方なく手で払った毛布を再びかけてやってから、掴まれていたシャツから指を外そうとした……とき。
 不意に、すべての動きが止まった。
 ……いや。
 “固まった”と言ってもいい。
「葉月……?」
「……ごめ……な、さ……」
 少しだけ、自分の声も掠れたのがわかる。
 動揺した。
 けど、普通の神経のヤツなら間違いなく誰だってこうするだろうな。
 すやすやと眠っていたヤツが、謝罪とともに閉じたまぶたへ涙を滲ませたんだから。
「どうした?」
 起きてるのか、はたまた本気でタチの悪い夢を見ているのか。
 それは俺にはわからないが、閉じたままのまぶたから涙が零れたのは紛れもない事実。
 どんな理由があれ、情けないくらい動揺する。
「私……いけな……っ……わたし……」
「葉月……? オイ、どうしたんだよ」
 もしかして、昼間叱りつけたせいか。
 恭介さんに黙って日本へきたことを気に病んでいるのかと思い、そっと肩に手を置く。
 泣きながらって、待てよ。よせ。
 ふいに、今朝見た夢の中の小さな葉月が脳裏をよぎり、ごくりと喉が鳴った。

「……お母さ……っ」

「ッ……!」
 思わず喉が鳴った。
 ……違う。違うだろ。あれは違う。そうじゃない。
 アレは、葉月が悪いワケじゃない。
 絶対だ。
 悪いのは、むしろ母親。
 それがわかっているからこそ、なんとも言えない嫌な気持ちでいっぱいになる。
「違う。お前は悪くない。……お前のせいじゃないぞ?」
 いつの間にか固く強く握り締めていたらしき葉月の手のひらを開いてやってから髪を撫でると、少し安心したように表情が和らいだ。
 ……何年経っても癒えることのない古傷なんだろうな。あれは。
 表面上ではそんなモノを微塵も感じさせない振る舞いをしていても、やっぱりまだまだ深く根を差していることがよくわかった。
 だが、それに対してどうすることもできない自分が、非常に悔しい。
 ……やっぱり、周りの人間が何を言ったって駄目なんだ。
 張本人である母親に、『葉月のせいじゃない』と言われなければ。
「…………」
 キツく俺のシャツを掴んでいた手から力が抜け、するりと滑るようにベッドへ落ちた。
 その手を布団に入れてやってから立ち上がり、スマフォを取り出す。
 そういえば今日、葉月に会ったときから、しようと思っていたことをそっちのけにしてたな。
 スポーツの結果を調べるでも、見たかった動画を探すでもなくただひとつ。
 恭介さんへのコンタクト。
 彼とはメッセージアプリで繋がってはいるが、最近連絡してなかったため、少しばかり探すのに手間取った。
 が、スマフォを開くと普段ほとんど使う機会のなくなったメールアプリへ、新着メールが2通。
 ひとつはただの広告だが、もうひとつはまさに今、メッセージを送ろうと思っていた恭介さんのパソコンアドレスからのものだった。
「…………」
 ごくり。
 やばい、もしかして何かバレたか?
 ひょっとして、葉月のスマフォになんかそーゆー保護っつーか監視っつーか保護者専用アプリとか入ってる?
 だとしたらある意味、絶体絶命。
「……え……」
 深呼吸をしてからメールを開くと、そこには相変わらず几帳面な文が並んでいた。
 メッセージではなく、メールで送ってきたのは何かと思ったら……なるほどね。
 読み進めるに従い、思わず眉が寄る。
 振り返ってベッドを見れば、先ほどとは違って安らかに眠る葉月の姿。
「……ったく」
 再びメールに戻るとついそんな言葉が漏れた。
 葉月が、あえて日本に戻ろうと思った理由。
 七ヶ瀬大学を受けようとした理由。
 二度と帰りたくなかったはずの、ここ――……冬瀬に帰ってきた理由。
 それが、一気に紐解けた気がして。
「……ったく」
 だが、明日は入試が控えている。
 問いただすのは、それが終わってからだな。
 頬杖をついてスマフォを見つめると、ため息が漏れた。

「……う」
 なんだか、えらく遊ばれているような気がする。
 何にって……猫に。
 近所に住み着いていた黒い子猫につきまとわれ、結局飼う羽目になって。
 新聞を読んでいればそれに飛びついてくるし、寝ていれば顔を踏まれるし。
 散々なんだが、やっぱりかわいいモノはかわいい。
 ……って、ウチで猫を飼ったことはねーぞ。
 つーか、そもそも……。
「ねぇ、たーくん。そろそろ起きて?」
 ふとした拍子に目が開き、見慣れた顔が怪訝そうに覗いているのが見えた。
「…………」
「起きた? おはよう」
「……はよ」
 小さく朝のあいさつっぽいものを口にすると、俺を覗き込んでいた顔が笑みを見せた。
 今の顔と、昨日の夜俺が見たつらそうな顔のギャップに、思わず頭が冴える。
「あのね、私お昼から面接なの」
 がばっと身を起こすと、フローリングに正座するような格好で葉月が座っていた。
「……あ?」
「もう……お布団かぶらないと風邪引いちゃうよ?」
「あー……そうだな」
 そんなことすっかり忘れてた。
 毛布を持って来ようと思ってたんだが、結局は風呂に入ってリビングに寄って……そのまま寝たんだっけ。
 …………。
 ……あ?
「そのワリには、きっちり毛布が……」
「……私がかけたんだよ?」
「あー、なるほどな。サンキュ」
 身体を起こし床に立つと、同じように立ち上がって俺の隣に葉月が並んだ。
 ……しかし。
「…………」
 葉月、いつ起きたんだ……?
 あんだけ爆睡状態だったヤツが、ひょいひょい起きれるモンなのか?
 普通に喋ってても、俺の喉の調子だっていつもと変わらないし……。
 となると、どうやら俺がここに寝てすぐに毛布をかけてくれたらしい。
 ……相変わらず、知らない間に気を遣うヤツだな。
 どうやって、いつ、ここに来たのかはわからないが、葉月が俺に毛布をかけたのは事実。
 少し謎だ。
「たーくん、起きました」
「あら。ありがとー、ルナちゃん。いっつもこうなのよ? 困るわよねぇ。……いい年して」
「ふふ」
 ようやく俺が起きたのを見てキッチンへ向かった葉月が、腹の立つくらい楽しげにお袋と話し出した。
 ……つーか、その笑いは……。
 間違いなく俺がネタにされているのがわかって、眉が寄る。
 悪かったな。どーせガキみてぇだよ。
「……ふん」
 ダイニングの椅子へ腰を落ち着け、ラップのかかったままの焼きそばに手を……。
「あ?」
「今温めるから、待ってね」
 すぐそこってところで、横から伸びてきた手がそれを取り上げた。
 別にこのままでもまぁいいとは思うが、そういうなら別にいい。
 なんて思いつつも、相変わらず葉月の気の遣いように感心はする。
「たーくん、牛乳飲むの? それともアイスコーヒー?」
 パックとボトルを手に俺を見た葉月へ、一瞬返事につまった。
「いや、アレがいい。ほら、お前昔作ってくれただろ?」
「え?」
「カフェオレ」
 そう。
 出たのは、葉月が提示したどちらでもないモノ。
 昔、小さなエプロンと踏み台を使ってまで俺に作ってくれた、ミルク多めのカフェオレ。
 市販とはまた違う独特の味は、今でも鮮明に覚えている。
「たーくん、覚えてくれてるの?」
「まーな。うまいモンは覚えてる」
「そっか。嬉しいな」
 まんざらでもない笑みが見れて、正直ほっとする。
 お袋に断って、ミルクパンをコンロにかけるべくキッチンに立つ葉月を見ていたら、ほどなくして甘いコーヒーの香りが漂ってきた。
 なんてことはない、ホットミルクに砂糖とインスタントコーヒーを混ぜただけの物。
 だが、割合が絶妙らしく、お袋や羽織が作った物だと味が違った。

 『葉月だけのもの』

 まさに、特権とも呼べるソレ。
 葉月は自他ともにわかっていたのか、よく作ってはみんなへ自慢げに振舞っていた。
 そのお陰か、今でもたまに飲みたくなる。
 幼い頃の好物はずっとそうだって言うしな。
 ……ましてや、本家本元が作ってくれる機会なんて、数年ぶり。
 それこそ、次にいつ飲めるかわからない以上、失するわけにいかない。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
 しげしげと見ていたら、ついつい昔の葉月と姿がカブった。
 幼いながらも懸命に作っていた昔と、あのころよりずっと背も何もかも大きくなった今と。
 なんか……親ってこういう気分なのかもな。
 なんて、我ながら馬鹿なことが思い浮かぶ。
「あ。まだ熱いよ?」
「わーってるって」
 目の前に置かれた、湯気が上がっているカップから早速ひとくち。
「っ……あち」
「大丈夫?」
 ……わかってんだよ。頭では。
 だけど、普通思うだろ?
 少し吹いて冷ませば飲めるかなー、って。
 でも、予想以上に熱かった。
 やってみないとわからないなんて、ガキと同じかもしれない。
「……やっぱ……」
「え?」
「懐かしいよな。……この味だよ。これ」
「そうなの? でも、そう言ってもらえると嬉しいね」
 何気ない言葉だったとは思う。
 それでも、葉月にとってはまた違ったんだろう。
 やけに満足げに微笑まれて、こっちまでそれが伝染する。
 やっぱ、本人に作ってもらうのがベストだな。
 オリジナルは、違う。
「……でも」
「あ?」
 温めてくれた焼きそばに、マヨネーズをかけて箸ですする。
 ……ウマい。
 この前もらった岩のりとの絶妙なハーモニーがうんたらかんたら……と言いたくなる気持ちもあるが、それをやったところで誰が反応してくれるワケでもない。
 優人くらいのモンだな。
 こーゆー馬鹿やったら『うーわー。日本のトリュフやー』とか言ってくれるのは。
「……なんだよ」
 一抹の寂しさを感じながら音を立てて焼きそばを食っていたら、葉月が目の前に座って両肘をついた。
 じぃーっと見つめる先にあるのは、俺特製……というよりは、アレンジの焼きそば。
 その視線はまるで、『おいしそう』とでも言ってるようだ。
「……なんだよ。食いたいのか?」
「え? ううん。そうじゃないんだけど……」
 そうじゃないと言いながらも、相変わらず見てるのは焼きそばというか……俺の手元というか。
 そこから伝わってくるのは、どうしたってやっぱり『ちょうだい』とかって言葉じゃねーの。
 ……あ、さてはアレか。
 俺に『ガキみてぇ』って言われるのがどーのって――。

「焼きそばとコレって、どうなのかな……って思ったんだけど……」

 ははーんとばかりにニヤけた途端、苦笑を浮かべて葉月がマグカップを指差した。
 ……はた。
 言われてみれば、焼きそばと……甘いコーヒー牛乳の組み合わせは、はたして。
「……いいんだよ、別に。腹に入ればみな同じ」
「もう。そういう問題なの?」
「イイんだっつの。一瞬『あ、そっか』って思っただろ?」
「それは、まぁ……」
 一瞬言葉に詰まって笑った葉月に、正直ほっとしている自分がいた。
 ……昨日の、あの涙。
 そして、寝言であろう謝罪の言葉。
 あんなもモン、コイツは知らなくていいんだ。
 たとえ本人が、昨日の夢を覚えていてもいなくても。
「…………」
 ふと視線を上げると、テレビのCMに気を取られている横顔があった。
 俺の気持ちがカブっているせいか、ときおり寂しそうにも見える。
 ……結局、強がってるだけなんだよな。こいつは。
 小さいころしばらくの間一緒に暮らしていたせいか、羽織と似ている部分が多くある。
 同い年だから、余計にかもしれない。
 双子っぽいよな……なんて思ったのは、昔のこと。
 今となってみれば、髪型も声もまったく違う。
「ん? なあに?」
「っ……別に」
「そう? ……んー……。気になるよ?」
「なんでもねーって」
 まじまじと見すぎていたのか、いきなり目が合って慌てる。
 かぶりを振って焼きそばをがっつくように食べ切ってから、少し冷めたカップを手にする。
 ……ったく。
 相変わらず、鋭いなコイツは。
 何も考えていなさそうっつーか、普段からぽえぽえしてそうで、実は……ってのが、葉月。
 油断も隙もありゃしねぇ。
 それが、ある意味ぴったりくる。
 ……1番縁遠そうなのに。
「さて。んじゃ、そろそろ行くか」
「あ、うん。お願いします」
「おー」
 目に入った時計で立ち上がり、一気にカップの中身を飲み干す。
 すると、葉月が何か言いたげな顔を見せた。
「ん?」
「ねぇ、たーくん。……おいしかった?」
 一瞬だけ、その表情がこれまでのモノと違った。
 まるで……そう。
 言うなれば、昔。
 遠い昔、小さいころよく大人たちに向けていた、少しだけおどおどと自信なさげな――あの顔。
「っ……!」
「ごっさん。うまかったぞ」
 ぐりぐりと頭をやや強めに撫でてやってから、ひらひら手を振って先にリビングを出る。
 そのとき振り返ると、それはそれはほっとしたように微笑む姿があった。
「……よかった」
 ぽつりと呟かれた言葉。
 それはいったい、どんな思いから出たモノか。
 そう思うと、ほんの少しだけなんとも言えない気分になる。
 人の反応を気にするクセ。
 これはよくもあり、悪くもある。
 人のことばかり気にせずに生きろ、と言っても……まぁ、葉月の場合は無理かもしれないが。
 コレばっかりは、性格だからな。
「着替えてくるから待ってろ」
「ん。わかった」
 軽い音を立てて階段を上がり、手早く服を着替える。
 ドアを開けっ放しだったこともあってか、階下からはお袋と楽しそうに話す葉月の声が響いていた。
 ……しかし、七ヶ瀬ね。
 受かったらアイツ、どーする気なんだ?
 今さらになって、当たり前と言えば当たり前であり、普通なら受験する前に考えるであろう問題が浮かぶ。
 ……とはいえ。
「まぁ……いいか」
 財布と鍵をポケットに突っ込んだとき、そんな言葉が漏れた。
 俺らしいと言えば、俺らしい。
 だが、深刻に受け取ってないと言えばまさにソレ。
 まぁ、とりあえず今は入試に専念させるしかねーか。
 今だけは……昨日見た、あの恭介さんからのメールもナシにしておいてやる。
「たーくん、準備できた?」
「今行く」
 よく通る葉月の声に返事をしながら部屋を出ると、なんともいえない小さなため息が漏れた。

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