帰国子女入試は、割と短時間で済まされる。
 ……短時間つってもまぁ、普通の推薦入試とほぼ変わらない程度。
 違う点といえば、推薦入試より面接時間が長いことか。
 何を話すのかまでは知らないが、これまでの海外滞在についてのことも含めて聞かれるんだろう。
 無論、どうしてこの大学を選んだのかなんてのは当然。
 未だ、生活圏が向こうのままの葉月にとっては、それこそ本質を問われる質問だ。
「じゃあ……行ってくるね」
「終わったら連絡しろよ」
「……ん」
 やけに自信なさげな葉月の背中を叩いて試験会場に向かわせたのは、今から少し前のこと。
 弱々しく笑みを浮かべて手を振った姿に、ほんの少しの不安は拭えない。
 アイツはきっと、やるときはやるタイプ。
 もともと、真面目だし実力はきちんと伴ってるだろう……がしかし、な。
 目の前にいるのは羽織と同じ18の葉月なのに、どうしても昔の影とダブるせいか心配なんだよ。
 ……俺自身のよくないクセみたいなモンかもしれない。
 いつまでも、小さいころ目の前で泣きじゃくったあのときの姿が脳裏をよぎる。
「…………」
 教学課の建物からひとり、足を運んだ図書館。
 ……もう、慣れたモンだ。
 学生のときからひっきりなしに通って来たこの場所が、まさか職場になるとは。
 無論、心地いいからこそ文句なんて出てはこない。
 幾ら面倒くせぇ雑務を押し付けられようとも、それでもここにいられるのは俺にとって重要だった。
 なんだかんだ言っても、やっぱり本のある場所は心地いいんだよ。
 通常なら、日曜は休館。
 だが、今日は書庫整理があるという理由から、開館している。
 つってもま、一般向けには無論開いてないけど。
 特権というよりは、ある種、職権濫用的雰囲気がなくもない。
 ま、いーだろ。
 本来なら俺も呼ばれていたんだが、人数が足りたから、と金曜に断られた。
 おかげで、誰もいない図書館を独り占めしているような気がして、結構な優越感。
 いくら静かとはいえ、ほかに人がいると気にもなるしな。
「…………」
 そんな中、独りきりの読書時間を手に入れられるってのは、すげぇ得した気分。
 そういや、こうしてテーブルについて本を読むなんてことは、久しくしてない。
 普段のようにスーツじゃないのもあるが、なんとなく学生時代にでも戻ったような気さえしてくる。
 昔っから本の虫とはよく言われたが、実際それ位毎日図書館にいたからな。
「……は」
 当時の懐かしさが蘇って、顔が緩んだ。
 お陰で司書教諭とも親しくなったし、こんなふうにバイトから司書という職に就けたんだけど。
 ……祐恭が化学馬鹿なら、俺は国語馬鹿だな。
 ふとそんなこと浮かび、少し笑えた。

「……ん?」
 拝借したハードカバーを半分と少し読み終えたところで、携帯が震えた。
 見れば、相手は葉月。
 ……あー、もう終わったのか。
 見れば確かに、そんな時間だ。
『もしもし。たーくん?』
「終わったか?」
『うん』
 少しだけザワついたバックを背負って、高い声が響いた。
 こことはまったく違う、活気づいている場所。
 つっても、ンな大勢受験生がいるわけじゃないだろうが、それでも、なんの音もないこの場所とはえらい違い。
『今、どこ?』
「図書館。……って、場所わかるか?」
『ん。ほら、来るときにたーくんが教えてくれたでしょう?』
 それもそうか。
 そういや、来るときに散々図書館について教え込んだ気がする。
 ……ま、それも相手が俺と同じく本好きな葉月だからかもな。
「じゃ、外で待ってる」
『ん。わかった』
 本を棚に戻しながら告げると、ほどなくして電話が切れた。
 ……続きは、また今度だな。
 さすがに忙しくしている同僚に貸し出し作業をしてもらうことはできねーし。
 ンなことしたら、あとで何言われることか……。
 一瞬想像してしまって、キーキーうるさい声がどこからか飛んできたような気もした。
「…………」
 エレベーターではなく階段を降りながら、つい思い返すのは昨夜の恭介さんからのメール。
 ……もしも。
 もしも、それが今回の葉月の行動に結びついたのであれば、まぁ納得はできる。
 アイツなら、やりかねない。
 それに――……。
「…………」
 アイツが抱えている事情が事情なだけに、おかしくはない。
 最後の1段を降りたとき、妙に硬い音が響いてしばらくあたりに残っていた。

 重いガラスのドアを開けて外に出ると、ちょうど葉月が階段を上ってくるところだった。
「お待たせ」
「手応えは?」
「んー……言いたかったことは言えたかな?」
「へぇ。上出来だな」
「うん」
 ふふ、と満足げに笑った葉月の隣へ立ち、きびすをかえした葉月とともに階段を下りる。
 あれこれと、葉月が感じた印象や教授らの雰囲気を楽しそうに話してくれている姿を見ていると、ここまで出かかっている言葉を言うことを躊躇する。
 恭介さんから聞いてもらったほうが、いいような気はする。
 だが、親子だからこそ言えない部分もある気はする。
 であれば、尋ねるだけ尋ねてみて、返事があればそれで可。
 なければ、俺には言えない部分ってところで、恭介さんへ伝えることを強く促すだけ。
「……たーくん?」
「あ?」
 どうやら考え込んでいたらしく、葉月がためらいがちに腕へ触れた。
 話さなければいけないこと。
 聞かなければならないこと。
 そのどちらも考えれば気が重い。
 嫌な思いをするだろうし、要らないことまで思い出させる可能性がある。
 ……別に、俺があえてしなくてもイイことだと割り切ってしまえば、そこで終わり。
 だが――俺以外に、誰がその役を引き受ける?
 受け“られる”?
 そんな妙な使命感があるから、引き下がれない。
 我ながら、『ど』が付くほどの世話焼きだな。
「ちょっと……つーか、お前に聞きたいことがある」
「え?」
 まっすぐ家へ帰ってできる話ではない。
 とはいえ、昨日のように店でできるもんでもない。
 ……適当な場所、どっかあるか。
 車へ向かいながら考えたとき、ふいに浮かんだのは家とは逆方向にある、ほとんど人のいない海のすぐそばの臨海公園だった。
「ちょっと付き合え」
「えっと、それは別に構わないけど……。でも、どこに?」
「公園」
「……公園……?」
 当たり前のように答えたつもりだったのに、葉月は途端に目を丸くした。
 が、次の瞬間、こらえきれなさそうにくすくすと笑い始める。
「……ンだよ」
「だって、公園って……ふふ。遊びたかったの?」
「馬鹿か! なんで遊ぶんだよ! ンなわけねーだろ!」
「え? 違うの?」
「ったりめーだろ。何か? お前はブランコにでも乗りたいのか?」
「最近乗ってないから、一緒に乗ってもいいよ?」
「断る!」
 つか、そうじゃねぇ。
 楽しそうに笑われ、運転席へ乗り込みながら小さく舌打ちが出る。
 だが、助手席へ座った葉月は、いまだにくすくすと笑っていた。
「とにかく! いいから、付き合え」
「ん。わかった。……ふふ」
 ……しつこいぞお前。
 再度舌打ちをし、渋い顔のままアクセルを踏み込む。
 大学からは大した距離じゃない。
 信号3つってとこか。
 駅方面とは異なり、少しずつ高い建物が減っていく道沿いを走りながら、正面の開けた空を見て小さくため息が漏れた。

「ありがとう」
「高いぞ」
「そうなの?」
「クレープ代にまけてやる」
「いい匂いだもんね」
 駐車場へ停め、ぐるりと回ってから助手席のドアを開けてやると、意外そうな顔をしながらも葉月はどこか嬉しそうに笑った。
「わ……風が気持ちいい」
 海は目の前。
 向こうとは違い、澄んで見えることのない海面だが、それでも葉月は笑みを浮かべた。
「……あ……」
「こっちだ」
「う、ん……」
 葉月の左手を取り、ちょっとしたガーデンになっている方向へ向かう。
 海沿いで植物にとっては厳しい環境らしいが、逆に、みかんなんかは甘くなるとかっつって……ある意味実験的なもんなんだろうな。
 果樹の類だけでなくバラも植えられており、東屋をぐるりと囲むようにさまざまな植物が育っている。
「たーくん……」
「あ?」
「……えっと……」
 東屋へ入ったところで、戸惑いがちに葉月が俺を呼んだ。
 話す前からンな不安そうに見られると、切り出しにくいだろ。
 とはいえ、『なんだよ』と切り捨てるのも難しい気がして、黙ったまま葉月の言葉を待つ。
「っ……」
 が、なぜか困ったように眉を寄せると視線を落とした。
「…………」
「…………」
 妙な沈黙。
 って、なんだこれ。どういう状況だ今。
 どういえばいいか悩んだものの、ああもしかしてと繋いだ手を離して財布を取り出す。
「え?」
「いや、先に食いたいとかそーゆー話か?」
「何を?」
「クレープ」
「…………」
「…………」
 どうやら違ったらしい。
 が、ぱちぱちとまばたいたあとで、葉月は『しょうがないなぁ』みたいに笑い始めたから、ある意味いいっちゃいいか。
 戻ったな。ふつうに。
 つか、だったらなんだったんだよ今の“間”は。
 ついクセで結局『なんだよ』と言う羽目になったが、ベンチへ腰を下ろした葉月はくすくす笑ったまま首を振るだけだった。
「いろんな種類のバラが咲いてるんだね」
「種類? ンなのあるのか?」
「うん。それぞれ、違った名前が付いてるでしょう? 色も形も、模様も……この時期に、これだけのバラが見られる場所が冬瀬にできたなんて、嬉しい」
 そう言われて見れば、確かにいろんな種類のバラが咲いていた。
 うちの庭にも数年前までは花がちらほら咲いていたような気がするが、ぶっちゃけ花を愛でるタチでないのもあって、ぴんとこなかった。
 花好きなんだな、お前。
 ああ、そういえば小さいころも庭の片隅に咲いていたナデシコの手入れをせっせとしてたっけか。
「ありがとう、たーくん」
「は?」
「えっと……バラを見せに連れてきてくれたんじゃなかったの?」
 ふいに微笑まれ、一瞬なんのことかわからなかった。
 ……ああ、そうか。
 ここにきた理由、伝えてなかったな。
 にこにこと嬉しそうな葉月を見ながら、思わず言いかけた言葉を飲み込む。
 そうじゃない。
 俺がここへ連れてきた理由は、葉月のため――からは遠いもの。
 隣へ腰を下ろしたまま視線が外れ、小さくため息が漏れた。
「嫌なら答えなくていい」
「え?」
「ここで俺が聞いたことは、そのまま恭介さんへは伝えない」
「……たーくん……?」
 指を立て、それぞれを葉月へ誓うように説明する。
 すると、彼の名前を口にしたこともあってか、葉月の表情が少しだけ強張ったように見えた。
 変化がわかったから、いっそこのまま、俺の内だけのものにしておいたほうがいいのかとも思う。
 直面化させる必要はなく、それどころか……嫌でもアイツは現実と向き合うんだから、俺が介入しなくてもとも思う。
 ……それでも。
 きっとこれは俺にしかできないことで、俺ならばと判断して託してくれたから、恭介さんは昨日あのメールをよこしたんだ。
 それならば、応えるのが筋なんじゃないかと思った。

「恭介さんに、『会ってほしい人がいる』って言われたんだって?」

「っ……」
 いつもよりもずっと、低く小さな声が出た。
 途端、明らかに葉月の態度が変わる。
 ぎゅっと両手を合わせて握り、視線を落としたまま小さくうなずく。
 戸惑ったような表情のままで、笑みはない。
 ――が。
「たーくん、知ってたんだね。そうなの。まだ紹介されたことはないんだけど、もしかしたらって思い当たる人はいて……とってもきれいな人なんだよ」
「紹介されてない?」
「うん。今年の誕生日に『どうしてもお前に紹介したい人がいる』って教えてくれただけで、まだ会ってはないの。私が七ヶ瀬へ進学したいって言ったときからずっと伝えたかったって言われて……だったらもっと早く言ってくれればよかったのに、って……お父さんのこと責めちゃった」
 メールに書かれていたが、葉月が恭介さんへ七ヶ瀬受験の意思を伝えたのは1月当初だったそうだ。
 それでも、恭介さんはずっと迷いがあったらしい。
 なぜ日本へ行くのかと思う気持ちと……不安な気持ちと。
 彼も出た大学を『見てみたい』と言われて嬉しかったのに、伝えられなかった後悔も綴られていた。
「お父さん、ずっとその人と住みたかったんだと思う」
 きゅ、と両手を握りしめた葉月は、少しだけ視線を落とした。
 ……ああなるほど。
 それで変な自己嫌悪に陥ったのか。
 紹介したい人がいると言われて、葉月は再婚の話にとったと思って間違いない。
 だからこそ――恭介さんの想いは、届いてない、か。
 ったく。どっちもコミュ力あるくせに、肝心なところ省くからこんなことになるんじゃないのか。
 恭介さんのメールを見てから、俺としても気になることがいくつかあり、結局夜中どころか朝方まで電話する羽目になったため、今の葉月の考えは“勘違い”だと知っている。
 だが、葉月は知らない。
 恭介さんが言う『会わせたい人』を聞いて、こうして彼の再婚話だと捉えたんだから。
「その人ね、何年か前からお父さんと同じ事務所でお仕事してて……私にとって、お姉さんみたいな人なの」
「……恭介さんが紹介したい人、か?」
「うん。名前も教えてくれなかったんだけど……きっとそうだと思う。……ねえ、たーくんは、普段見ていて『この人はこの人を好きなんだろうな』って思う瞬間ない?」
「それは……でも、あくまで推測だろ?」
「でも、その人の顔を見ていればわかるでしょう? ああ、本当に好きでいるんだなって」
 小さく笑った葉月は、ふいにあちらを見つめた。
 俺には、葉月の言う相手と恭介さんの関係は見えない。
 だが、機微を読むことのできるこいつが言うってなると、なんらかの形で受け取ったメッセージがあったんだろう。
「お父さんも、すみにおけないよね」
 お相手の方、たーくんと年が近いんだよ。
 どこか誇らしげに、とてつもなく嬉しそうに言葉を続けながら、屈託なく葉月が笑った。
 ……はたしてそれは、ホンモノなのか。
「私、気づかなかったんの。本当はもっと早く、そうしてあげなければいけなかったのに……自分が幸せになることが一番なんだって、それしか考えてなかった」
「別に間違ってないだろ? 恭介さんはお前に幸せになってもらうことしか考えてなかった。それは絶対だし、きっと親父たちだってうなずく。なのに――」
「でも……でも、違うでしょう? だって、私には私の人生があるように、お父さんにはお父さんの人生がちゃんとあるのに」
「っ……」
 今の今とまるで違い、つらそうな……いや、半分泣いているような顔を見せられ、言葉に詰まる。
 ……ああ、やっぱり。
 お前、自分のせいだと思い込んでるんだな。
 それは勘違いで、事実とは大きくかけ離れている。
 恭介さんが今後、どんな人生を歩むつもりなのかも、俺は知らない。
 ただ、ひとつ。
 昨日の夜、彼から打ち明けられたことは、恭介さんの人生ではなく、葉月の人生を決めていくために絶対必要な過程だった。

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