「……お父さん、私の幸せばっかり考えてくれるの。でも、お父さんだってまだまだやりたいことがあるはずだし、きっと……もっと早くから、好きな人と一緒になりたかったはずなのに……なのに私、気づけなかった」
「それは違うんじゃないのか。恭介さんは別に、再婚することを躊躇してたわけじゃ……」
「でもっ……でも、まだお父さん若いんだよ? それに、だって……幸せになってないのに」
 眉を寄せた葉月は、ベンチへもたれるように背を預けると、両腕を抱きしめた。
 小柄な身体が、さらに小さく見えて眉が寄る。
 ああ、やっぱりだめなんだよ。
 葉月の知らない葉月のことを教えてもらったとはいえ、伝える相手が俺じゃだめなんだ。
 俺が知ってるはずないと思っているからこそ、結局は憶測の域を出ない。
 ……だが、俺が恭介さんに聞いたと伝えてしまうのは、違う。
 俺にできるのは、コイツが今本当はどう思っているのかと、その誤認の微々たる修正。
 できるかどうかは、未知数。
 だが、自分で切り出した以上、責任は取らねばならない。
「……だって私……違うのに」
「…………」
「お母さんの子どもなのに……なのに、ずっと……! ずっと、本当の子どもみたいにしてくれて……っ……私を引き取ったとき、まだ大学を出たばっかりだったのに、ひとりで、一生懸命育ててくれたんだよ……?」
 どれだけ大変だったか、たーくん知ってるよね?
 逸れることなくまっすぐに見つめてきた双の瞳に、そう言われてるような気がしてならない。
 ……知ってる。
 俺だって、全部知ってる。
 あのとき俺はもう、葉月よりずっと大きかった。
 周りに言わせればガキの部類から出ちゃないが、それでも十分記憶に残っているころ。
 羽織はおぼろげにしか覚えてなかったが、俺は今でも、葉月が初めて家に来たときのことを鮮明に覚えている。
「……お母さんがいなくなったあとも、変わらずに……ううん。もっと、だよ。……俺ひとりでごめんっていつも言ってて。……そんなんじゃないのに」
 まるで、昔を思い出しながら口にするかのように、ほんの少し遠くを見つめたまま、言葉を紡ぐ。
 きっと、今の葉月には見えてるんだろう。
 そう言って頭を下げる、申し訳なさそうな恭介さんの姿が。
「私は……私は、お父さんの本当の子じゃないのに。いくらでも、手放すことができたのに……なのに……っ……いつだって笑ってて、私のこと人一倍大事にしてくれて」
 ぱたぱた、と握り締めた手の甲に落ちる、涙。
 ああ、それがお前の本音か。
 引き取ってくれた恭介さんに対する、申し訳ないっていう気持ち。
 迷惑をかけたという、ヘンな気遣い。
 そんなんじゃないことは、きっと葉月が1番わかっているはずだ。
 4歳のときからずっと……ずっと、あの人と一緒に過ごしてきたんだから。

「……私、とっても幸せなの」

 これまでとほんの少し違う声色ではっきりと口にした葉月は、ゆっくり俺を見た。
 長いまつげにある、幾粒もの涙の欠片。
 今にもまた瞳から溢れそうな潤みが見えて、眉が寄る。
「だから……お父さんにも幸せになってほしいの。ちゃんと、本当に好きな人と、幸せになってほしい」
 それはまるで、決意にも聞こえた。
 ……もしかしたら、ずっと小さいころからこんなことばかり考えていたのかもしれない。
 私のせいで、とか。
 私がいるから、とか。
 いつだって、そんな申し訳ないなんて気持ちと一緒に、恭介さんの幸せばかりを……ずっと。
 恭介さんがどれだけ葉月に幸せを見出してきたのか、コイツ自身が1番よくわかってるはずなのに。
「私はもう十分なの。だから……本当はもっと早く、その人と一緒になってもらわなきゃいけなかったのにね」
 葉月は、そればかりを願って来たんだろう。
 ぽつりとつぶやいた顔が、どこかほっとしているようにも見える。
 これまで背負ってきた大きすぎるモノを、預ける場所が決まったかのように。
「……お前は知ってたんだな」
「え……?」
「俺は……いや。俺以外のいとこは、お前のことを『恭介さんの娘』としか聞いてない」
「っ……」
「お前に本当の父親がいることは、羽織だって知らない。そりゃ、大人はどうか知らねぇけどな。少なくとも俺たちはずっと、恭介さんからも親父たちからも『葉月は恭介さんが若いころ生まれた娘だ』としか聞いてないんだぞ」
 葉月と恭介さんの年の差は18歳。
 彼は高校生のころからウチに泊まることは多々あり、大学へ入ってからはうちから通っていた。
 俺はいとこの中でも一番年が近く、日々彼にかわいがってもらえたこともあって……いや、きっと幼かったほかのヤツらに比べて、物をわかってたからなんだろう。
 これまで、毎日のように一緒に暮らしていた彼が、ある日突然『俺の娘だ』と葉月を連れてきたことに大きな疑問を持ち、当たり前のように彼へぶつけた。
 結果として教えてもらったことはあるが、どれもこれも『ほかのやつらには絶対言うな。俺とお前の、男の約束だぞ』と念を押され、これまで口外せずに来た。
 だからこそ、葉月がどこまで知っているかわからなかったものの、どうやら俺以上に自分のことは知って育ってきたらしい。
 ……だからこそ、か。
 遠慮であり、申し訳なさであり。
 再婚相手の連れ子として恭介さんと“親子”を築いた葉月にとって、後ろめたさをどうしたって感じてき続けたのかもしれない。
「いっこ聞いてもいいか?」
「……ん。なぁに?」
 仮説でしかない。
 が、今の葉月の言葉を聞いて、“もしかして”は浮かんだ。
 聞いたら……お前の表情は変わるかもな。
 だが、ほかの連中が知らない背景を知っているからこそ、教えてもらいたいものもある。
 そして……できることなら、間違っていますように、と。
 俺の予想が外れていることを、願ってもいた。

「どうして七ヶ瀬を受けることにしたんだ?」

 ゆっくりと言葉を選んで告げた途端、小さい拳が、きゅっと震えた。
「なんで、日本に戻ることにした?」
「……それは……」
「どうして今ごろになって、急にこっちの大学を選んだんだ?」
 無理矢理にでも答えを引き出そうとしていることくらい、わかってる。
 だからこそ、言わせてそれを否定してやりたいんだ。
 ……もし、俺の考えが間違っていなければ。
 葉月は――自分を犠牲にすることを選んだんだろう。
 だから、あえて日本に戻ることを考えたんだ。
 恭介さんのため、と自分にひたすら言い聞かせて。

「……私がいたら……お父さん、幸せになれないから」

 正直、予想外の言葉だった。
 ……いや、大方の予想はできていたんだ。
 だが、もっと違う言葉が返ってくると思っていただけに、目を見開くと同時に奥歯が軋んだ。
「去年の冬、友達と話していたとき……その子が言ったの。自分のしたいことも大切だけど、これからは親に恩返しをする歳だ、って」
「……恩返し?」
「オーストラリアでは、18歳で成人になるの。大学へ行くとしても、社会へ出るとしても、すべて自分で責任を取ることになるの。その子は、特に親へ感謝していて……早く楽にさせてあげたいって、いつも言ってた」
 これまでの12年以上、葉月は向こうで生活してきた。
 それは恭介さんの仕事の都合もあっただろうが、もしかしなくても日本から離れることで葉月を護ろうとした選択でもあっただろう。
 日本に……冬瀬にいたら、葉月はいつまでもあの記憶を繰り返し、もしかしなくてもきっと、今のこいつのようには育てなかった。
 『幼稚園へ迎えに来たお母さんが、置いて帰った』
 それまで、見たこともなかった“母親”のことを口にした葉月を見て、俺だけでなく、お袋も恭介さんも表情を強張らせたのを覚えている。
「それを聞いたときにね、ああやっぱり私が邪魔したんだって思ったの。いつまでもお父さんのそばにいちゃいけない、って。だって私がいたら、お父さん……幸せ、になれな……っ」
「っ……な……」
 目を見たままつぶやかれたセリフに、ごくりと喉が鳴った。
 ぼろぼろ泣きながら、子どものように言葉を繰り返す。
 ……違う。
 それは、違うだろ?
 そんなモン、何よりもお前が1番わかってるはずなのに。
 恭介さんのことは、誰よりもコイツが。
「やっぱりって……どういうことだ。なんでそんなふうに思った」
「っ……たーく……」
 こいつの口から出そうにない言葉すぎて、思わず腕を掴む。
 誰に言われた。
 そう問いただしてしまいたくなるほどの強い言葉に、表情が強張る。
 当然だ。
 ンな言葉を吐かれるなんて、思いもしなかったんだから。
「誰がお前を邪魔なんて言った。恭介さんが言ったのか?」
「…………言ってない」
「じゃあ、お前の勝手な考えなんだろ? ……ンなこと恭介さんに言ってみろ。叱り飛ばすじゃ済まないってことくらい、お前だってわかってンだろ!」
「けど! ……けど私、小さいころから――」
「お前が邪魔だって思ってる人間が、こんなに大事にしてくれると思ってんのか? どうしてンなこと言うんだよ。ふざけんな!」
「っ……」
 つい、声が荒くなる。
 ダメだってのはわかってる。
 それに、こんなふうにするつもりじゃなかったってのも、もちろんある。
 それでも、止まれない。
 コイツは絶対言わないだろうと思ってたことを言われ、勝手に裏切られた気分になった今の俺は。
「言っていいことと、悪いことってのがあるだろ?」
 正直、つらかった。そして、悔しかった。
 そんなふうに思われてたのか……?
 俺も、恭介さんもそうだ。
 ヘンな遠慮とか気遣いとかをさせていたってのが、無性に腹立たしくてたまらない。
 ……無力なのは変わらずかよ……!
 我ながら、情けなくて奥歯が軋む。
「お前が一度でも誰かに邪魔なんて言われたことあったか?」
「それは……っ……」
 勢いを止められずに葉月の肩を掴むと、つらそうに眉を寄せた。
 葉月に対して怒っているワケじゃない。
 ……相手は、その向こうにいる母親だ。
 葉月に、こんなことを言わせている張本人。
 それがものすごく悔しい。
「いいか? ウチの連中だけじゃなくて、恭介さんだってそんなこと考えてすらないって知ってんだろ? なのに――」
「違う……! 違うの。たーくんは知らないから……」
「ああ、知らない。でもお前も知らないだろ? 俺はお前の知らないこと知ってんだ。だからこそ言う。お前はもっと自分を大事に……第一に考えろ。そんだけの権利があるんだぞ?」
「だって……だって私、あのとき……」
「邪魔だなんて誰にも言われたことないくせに、ンな言葉二度――」

「あるの!!」

「っ……」
 首を振って否定し続けてきた葉月が、これまでとはまったく違う大きな声をあげた。
 ある。
 それは……いつ、どこで。
 誰に言われたものだ?
「言われたの……私っ……言われた……」
 ぼろぼろと涙を流しながら、葉月が俺の腕を掴んだ。
 ……嘘、だろ?
 冗談だよな。何かの間違いだよな……?
 そんなふうに思ってるだけなんだろ?
 自分で、思いつめて勝手に『そうなんだ』って作っただけだろ……?
 想像だにしなかったセリフで、喉が鳴る。
 ……嘘って言えよ。間違いだって言えよ。
 じゃなきゃ、どうやってお前を救えばいい。
「っ……」
 いつだって笑顔で、嬉しそうで、しあわせそうで。
 ここ数年会えてなかったが、昔の印象で、きっと葉月はしあわせに暮らしてるんだろうと勝手に思っていた。
 誰だって、当たり前のように思春期があって、自己の存在ごと否定にかかるときはあるはずなのに、そんな葛藤をすることなく、毎日ただ笑ってしあわせに暮らしているはずだと、思いも馳せなかった。
 俺でさえ、なんのために自分がいるのかと考えたことがあった。
 なんで勉強するんだ。なんで学校に行くんだ。生きる意味ってなんだ、と。
 毎日のうのうと生きている俺でも考えたのに、出自を含めいろいろな背景をもつ葉月が、葛藤しないはずないのに。
「……誰に言われた」
 掠れた声が、ようやく出た。
 だが、そう言ってすぐ、“誰か”が浮かぶ。
 推測でしかないが、根拠はある。
 そのひとつが……そう。
 昨日の夜の、葉月のセリフ。
 聞いてしまったあとで、少しだけ後悔する。

 救えるのか? 俺が。

 葉月にとって、恭介さんは絶対的な存在だろう。
 父親であり、自分を引き取ってこれまで14年育ててくれた、唯一の人だから。
 だが――俺は違う。
 葉月といくつも年が違わず、それこそ何年振りかに会ったただの従兄。
 これ以上泣かせて、苦しめて……どうするつもりなんだよ。
 できるのか? 俺に。
 これまで、俺は知らなかった。
 そして、知ろうともしなかった。
 葉月しか知らず、きっと忌まわしい記憶としてずっとずっと奥に押し込めていた部分。
 ……なのに、俺がほじくり出した。
 無理矢理過去に遡らせて、葉月自身を追い詰めて。
 なんてヤツだと本気で思う。
「…………」
 ――でも。
 ここまでやった責任は、もちろん俺にある。
 だからこそ、ハンパでやりっ放しなんてことだけは、絶対にしない。
 わかってやれない部分もあるかもしれない。
 だけど、知ることでわかろうと努力することはできる。
 ……だから。
 だからもう、これ以上ひとりきりで抱えさせないために……なんて思いが、ほんのわずかに芽生えた。
「あの人が……」
 張りついたような声が聞こえた。
 はなをすする音が痛々しくて、こっちまで泣きたい気分だ。
「そう言われたのか?」
 ほんの少しだけ、息を整えてから口を開く。
 間髪入れずに、こくん、と折れるようにうなずいた姿が、あまりにも小さくて、ハンパなく切なくて。
 ……クソ……!
 誰にと言うまでもないイヤな気分で、拳を握る。
「あの日、言われたの……でも……意味がわからなくて。それで……覚えてるはずなのに、覚えてないんだね、きっと。……忘れたかったのかな」
 ぽつりぽつりと紡がれる言葉。
 落ちたままの視線の先。
 ……だが、間違いなく葉月は思い出そうとしている。
 あの日。
 きっと生涯忘れることのできないであろう、あの日あのときのことを。
「……だって、そうでしょう……? きっとね、会いたかったんだと思うの。なのに、『アンタのせいで』って……っ……『邪魔なのよ』って……!」
「っ……わかった」
 『お母さん、怖い』
 当時幼かった葉月は、それまで一切“母”のことを口にしなかったのに、突然そう言って泣いた。
 何があったのかわからなかったが、大人同士の会話から十分理解できる年だったこともあり、あのとき、それまで一切を恭介さんへ任せていた葉月の母親が、ふいに幼稚園へ迎えに来たと聞いた。
 そのとき、わずかとはいえふたりきりの時間を過ごした葉月が、どんなことを言われたのかはわからない。
 だが、当時その幼稚園へ勤めていたお袋は、幼稚園の門と道の境でただただ泣きじゃくる葉月を見つけたとき、本当に怖かったとあの日恭介さんに話していた。
「……悪い」
 もういい。思い出すな。
 ふたたび涙が溢れたのが見え、葉月の頭を引き寄せる。
 顎下へ葉月を収めながら口にすると、かすかに震える葉月がシャツを握った。
 今でも、おぼろげにだが覚えてはいる。
 あの日、いつものように学校から帰ってきて、ひとり留守番をしていた。
 珍しく家の電話が鳴って、いるかどうかをお袋に確かめられた。
 今とは違い、幼稚園に勤務していたお袋は、俺がいることがわかると『一度帰る』とだけ伝え、電話を切った。
 意味はわからなかったが、まあ、待ってればいいだろとテレビを見ていたら……ほどなくして帰ってきたんだよ。
 泣きじゃくる葉月を抱っこしたお袋が、『困ったことになったわ』と意味ありげにつぶやいて。
「あのとき私……すごく怖かったの」
 そのあとお袋は各所へ電話をし、いろいろな人間と話をしていた。
 葉月は泣きじゃくるだけで話がうまくできなくて、いくらあやしてもなかなか泣き止まなかった。
 目が合うとそのたびに泣いて。
 同じ質問ばかりを俺に繰り返した。

『どうして、ねぇねがいないの?』
『どうして、お母さん帰っちゃったの?』
『私が嫌いって、本当?』

 涙をいっぱいに溜めて見上げられた、あのとき。
 俺にもすべてがわからなくて、何ひとつ確かなことを言ってやれなかった。
 小さいころから、学校でも家でも、大人に負けるのが嫌だった。
 『子どもだから』のひとことで片付けられるのが悔しくて、いつだって大人ぶって振舞った。
 きっとそれは周りの大人にしてみれば、ひどく滑稽に映っていただろう。
 だけど、俺はそれでも満足だった。
 ……なのに、いざってときになると足がすくんで声が出ない。
 親父やお袋のように葉月に対してやることができなくて、不安を拭ってやれなかった。
 あのときほど、自分が非力だと感じたことはない。
「……お母さんって言葉……出すのもなんだか、戸惑うくらい」
「…………」
「私が覚えてるのは……お父さんと、伯父さんと伯母さんと……たーくんや羽織と過ごした、あのお家での記憶だけで、あの人のことは……ほとんど覚えてないの」
 もしかしたら、思い出したくないだけかもしれないけれど。
 ぽつりと独りごちた葉月に、また、何も言ってやれない。
 とことん馬鹿で、相変わらず頼りにならないヤツだと思う。
 ……でも、何を言えばコイツが気にすることなくまた笑える?
 それを考えてみても、やっぱりまだ的確な答えが見つからない。
 ――それでも。
 今は、あのころとは違う。
 少なくとも、それなりに人生ってヤツを経験して、挫折も人並みに味わったはずだ。
 思い通りにならない。
 楽しいことばかりじゃない。
 それがわかった今は、少なくとも……葉月を泣かせてばかりだった、あのときの俺とは違う。
 今は……少しでも安心ってヤツを与えてやれるだけの『大人』に、なったはずだ。
 あの日からずっと、ずっと願って止まなかった大人ってヤツに。
「……あの人……ね」
 不器用に涙を拭ってから顔を上げた葉月が、懐かしむように笑みを見せた。
 そんな葉月を見るのは……ひどくつらい。

 そんなふうに笑うな。

 そう、たったひとこと言ってやりたくてたまらない。
「っ……たーくん……」
「……アイツがどうした」
 頭を撫でるように触れ、少しだけ近づく。
 俺も、葉月の母親のことは知らない。
 直接会ったことはなく、あくまで情報として持ち得ているだけ。
 実際に話したらどんな人間かなんてところまでは、わからない。
 それでも、正直会いたくはないと思っている。
「……あの人、私を振り返って笑ったの」
「笑った?」
「……うん。笑って言ったの……っ……『アンタなんか要らな……!」
「ッ……」
 まるで、救いを求めるかのように俺の腕をつかんだ葉月は、声を大きく震わせた。
「いらないって……そう言ったの。『邪魔だからせいせいする』って。意味がわからなくて、でも、すごく怖かったのは覚えてて……言葉の意味がわかったとき、すごくすごく嫌な気持ちになった。ああ、私は生まれてきちゃいけなかったんだって。邪魔だからおいていかれたんだって。なのに、そんな私をお父さんが――」
「っ……違う」
「違わないでしょう……!? 私がいるから、私のせいでお父さんがっ……!」
「違う!」
「違わない……っ!! もしかしたらずっと邪魔だって思われ――」

「葉月!!」

「っ……!」
 ビリビリと、自分の声で空気が震えた。
 身体を離して両肩をつかんだ瞬間、驚いて俺を見つめた葉月の顔がひどくつらそうだった。
 気づいたんだろうな。
 言っちゃいけない言葉を口にしたことも、それを聞いた俺がどんなふうに思ったのかも。
 まるで我に返ったように瞳を丸くした葉月は……しゃくりを上げて泣き出した。
「ふ……っ……私っ……わた、し……!」
「ッ……クソが……!!」
 奥歯を噛み締めてから抱きよせると、すぐここで葉月は身体を震わせた。
 つい今しがた、葉月は言った。
 もうほとんど覚えていない、と。
 記憶にない母の姿だと。
 あれからもう、10年以上とうに過ぎている。
 にもかかわらず、一体いつまで……どこまで、コイツを苦しめれば気が済むんだ。
 心底、腹が立って仕方ない。
 今まで、小さいころからいろいろありすぎていたのは知っている。
 それでも、誰に愚痴るでもなく、すべて自分の責任だと思い込んで背負って、懸命に生きてきた。
 誰にも邪魔だなんて言われないように人の顔色ばかりを伺って、必死に……生きてきたんだ。
 自分のためじゃない、誰かのための人生。
 言いたいことも、本当の気持ちもずっと押し殺して、人のことばかりを気にして。
 泣きたいときに泣けず、笑いたいときに笑えず。

 そうやって生きてきたこれまでの月日は、本当に楽しかったのか。

 幸せだ、って……言えるのか。
「くそ……ッ」
 やるせない気持ちとともに、大きくため息をつく。
 ……ちくしょう。
 結局俺は、またコイツに何もしてやれない。
 それがわかるから、心底悔しい。
 何もかもわかったようなつもりでいて、結局は……何もわかっちゃいなかったんだ。
 葉月のことも、俺自身のことも――そして、これまでの葉月の辿って来た道すべても。
「…………」
 ちっぽけな存在だとは思うが、果たして俺にできることはあるか。
 小さかったころ恭介さんが俺にしてくれたようには、まだまだできそうにない。
 成人したからといって能書き垂れるのがせいぜいで、道標になってやるには遠い。
 迷わせて、困らせて、結局は自分でどうにかさせるしかできないかもしれない。
 ……でも。
 それでも、俺はコイツに約束した。

 ひとりぼっちにしない。
 泣かないですむように、きっと護ってやる。

 幼いながらに、精一杯考えて出した言葉は、誓いであり約束。
 葉月が覚えていようといまいと、関係のないこと。

「もっと頼れ」

 掠れた声で呟いた言葉に、腕の中が震えた。
 恐る恐る顔を上げた葉月と瞳が合い、眉が寄る。
「お前の周りにいるヤツらは、みんな……お前に幸せになってほしいんだ。お前が必要だって思ってる人間しかいねぇぞ」
「……たーく、ん……」
 かすかに、瞳へ光が戻ったように見えた。
 気のせいかもしれない。
 俺の勝手な希望かもしれない。
 ……それでも、いいだろう。
 葉月がまた、笑ってくれるなら。
 この言葉が嘘じゃないことは、いくらでも証明して見せてやる。
「……いいか? お前は、みんなから必要とされてるし、すごく……ものすごく愛されてるんだぞ?」
 諭すように呟いてから涙を拭ってやると唇を噛み、改めて新しい涙で瞳を潤ませる。
 ……それでも。
 言いたかったし、覚えていてほしいと思った。
 数年先を生きてきた俺が示してやれるのはこの程度だが、それでもこの先の人生のために覚えていてほしかった。
 いつまでも縛られ続けてきた、あんなヤツの傷でしかない言葉でなく。
「お前は必要なんだ。……わかるな?」
「……私が……?」
「ったりめーだろ。恭介さんにとっても、俺にとっても、お前はすごく大事なんだよ」
 頬にかかった髪を払ってやりながら、まっすぐ瞳を見つめてゆっくり続ける。
 だから……もう少しこの世の中を信じてくれ。
 そんな意味を、しっかりと込めながら。
「いつまでも、お前だけが昔のお前でいる必要はねーんだ」
「……え……?」
「もっとワガママ言えよ。みんなを困らせろよ。……いい子でいる必要ないだろ?」
 まっすぐ、俺を見たままこぼれる涙。
 だが、先ほどまでのようにツブれてしまいそうな顔じゃなかった。
 それだけで、随分と救われる。
「せっかく、恭介さんがくれた名前だろ? もっと、みんなに愛されてるって……自覚していいんじゃねぇか?」
「っ……」
「俺に自慢した日のこと、覚えてねぇの?」
「……覚えてる」
「上等だ」
 ぽろぽろっと涙がこぼれたが、先に俺が笑ったせいか、葉月も嬉しそうに笑ってみせた。
 オーストラリアへ渡ることを告げられた、あの夜。
 同時に名前を変えることも伝えられたが、驚いたのは俺と羽織だけだった。
 かわいいね、すてきだね、とてもいい名前ね。
 『葉月』の名前の由来を披露してくれたあの夜、みんなの中心にいた葉月はとてもしあわせそうだった。

「たーくん……ありがとう」

「俺は何もしてない」
「そんなことないよ。私、しあわせだね」
「お前だけじゃない。恭介さんだって、当たり前のように毎日しあわせだろ」
「っ……ん」
 いつしか、抱きしめていたはずの俺がぎゅっと抱きしめられていたのに気付き、瞳が丸くなった。
 でも、だからこそ確かに伝わってきたこともあって。
 俺のほうこそ救われた気がした。
 ああ、そうか。
 俺もずっと縛られていたんだな。
 きっと、葉月にそう言ってほしかったんだ。
 14年前、何もしてやることができなかったから。
「……よし。元気になったな」
「ん。たーくんのおかげだね」
「んじゃ、お前に宿題出す」
「宿題?」
「ああ」
 俺は知ってる。
 葉月は知らない。
 恭介さんが誕生日にわざわざ伝えた理由を。
 お前が七ヶ瀬大学を志望したことで、止まっていた時間が動き始めたことを。
 
「帰ったら、恭介さんとちゃんと話をしろ」

「っ……」
「そして、恭介さんがお前に会わせたい人は誰なのか、ちゃんと聞いてこい」
 目を見たまま頭を撫でると、『あ』と小さく口にしたものの、はっきりとうなずいた。
 思っているだけでは、伝わらない。
 それはもちろん、葉月だけでなく恭介さんにも言えること。
 遠回しな含みのある言葉は、本人の意図しない方向へ展開することしばしば。
 誤解を生む原因。
 これまでの10年以上親子の時間を密にしてきたふたりにとっては、もしかしたら根底から崩れてしまうかもしれない怖さもあるだろうが、俺は逆だとふんでいる。
 親子として過ごしたおかげで、見えないものは繋がっているはず。
 根っこの部分は、ふたりともそっくりなんだから。
「よし。それじゃ、クレープ奢ってやるか」
「え? 私が払うんでしょう?」
「なんで」
「だって、ドア開けてもらったし……」
「お前、どんだけ正直なんだよ。冗談にきまってんだろ」
 先に立ち上がると、さも当然とした顔で葉月がまばたいた。
 時間はとうに昼を過ぎ、おやつの時間を指している。
 あー、腹減った。
 とはいえ、あんだけのこと言えりゃ、糖分足りてなかったとはいえ上出来だろ。きっと。
「ほら、行くぞ」
 座ったままの葉月へ手を差し出すと、それと俺とを見比べながらゆっくり手を取った。
 小さな、あたたかい手のひら。
 俺とも――そして、昔の葉月とも違う感触に、数年の年月を改めて感じる。
「たーくん……もしかして、私のこと小さい子だと思ってる?」
「なんで?」
「だって……昔、こうしてよく手を引いてもらったころと、変わらないんだもん」
「お前は今でも小さいだろ?」
「もう。私、もうじき高校卒業するんだよ?」
「へぇ。そしたら、お祝いに飲み連れてってやるよ」
 手を引いたまま先を歩くと、ほんの少しだけ不服そうな声がした。
 振り返ると、比例するかのような表情。
 なんだよ。別にいーだろ? そこまで子ども扱いしてるわけじゃねーし。
 つーか、迷子になりそうじゃん。ほっとくと。
「あっ……」
「こうやって並びゃ、ちったぁ同い年に見えるぞ」
 手を引いて隣へ引き寄せると、葉月が少しだけ目を丸くした。
 背は低いが、顔立ちは大人びている。
 はたから見りゃ、そのへんのカップルと同じには見えるだろ。
「大人扱いしてほしかったら、どうすりゃいいか自分で考えるんだな」
「……大人扱い……」
「じゃなきゃ、いつまで経っても俺の中のお前は子どものままだ」
「っそれは……嫌かな」
「ま、がんばれよ」
 うっかり本音を口走ってしまい、むっとした顔で睨まれた。
 大人と子どもの違いって、どこからなんだろうな。
 自分ではいっぱしに大人だと思っていた中学のころも振り返れば大したことはなく、従弟を考えてみればまだまだ子どもでしかない。
 高校生になってるやれることは増えたが、判断力は鈍いわけで。
 それじゃあ大学生かっつったら……答えは違う。
 今とてどうかと自問すれば、納得はできてない。
 ああ、きっとこういうのはイメージもあるんだろうな。
 俺にとって小さいころから憧れつづけてきた恭介さんは、今も俺のはるか先を行く大人だ。
「お前さ」
「え?」
 クレープ屋のメニュー看板が目に入ったとき、ふと足が止まった。
 手を繋いだまま見下ろすと、風でさらりと髪がなびく。
 大人にはなった。いや、なりつつある。
 だが、受け止めるだけの中身はどうか。
 急には無理だろうし、たとえ事実を知ったとしてもすぐに葉月が変わるとは思っていない。
 三つ子の魂百まで。
 何より、葉月の母親が恭介さんと出会う前の4年間、どんなふうに葉月と暮らしていたかも俺は知らないこと。
 ……だけど、だ。
 性格はもちろん、考え方も、好みも、そしてこれからの自分のあり方も。
 人生っていう大きなモノですら、自分の好きなように変えていける。
 立て直すことができる。
 親は選ぶことができないが……それでも、この先ともに生きていく人間は自由に選ぶことができるから。

「……この先何があっても平気だ。ひとりにしない」

「っ……」
「恭介さんと話したあと、どうしても悩んだら俺に電話してこい。何時でも聞いてやる」
 繋いだ手を離してから頭を撫でると、うっすらと唇を開いてから、それはそれは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、たーくん」
「まだ何もしてねーけどな」
 小さく笑って付け足すと、葉月もくすくす笑いながら『それでも嬉しかったの』と素直に育った人間らしい言葉を口にした。

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