「瀬那羽織……?」
「今度来た、英語の教師だよ」
高校3年の4月。
クラス編成は変わらないので、新しいことといえば学年が変わったのみ。
担任も引継ぎされただけで、同じ瀬那雄介教諭。
……まぁ、変わるとすれば副担任が違う人になるくらいだろう。
と、いつも通り平塚から電車とバスで学校に来てから、見慣れた順路を通って教室に向かった朝。
てきとーにあいさつを交わしてから席に座ると、隣のヤツにそんな話をされた。
「……で?」
「だからぁ、あの瀬那先生の娘なんだって」
「…………あー、なるほどね。ってことは――」
隣で居眠りをしている男に目をやる。
……いつから寝てんだこいつは。
つーか、今は朝だろうに。
「孝之の姉貴だろ?」
「と思う」
彼がうなずくのを見てから、孝之を起こすべく手を伸ばす。
アネキ、ね。
コイツにそんな存在がいたことすら知らなかったということは、よっぽどコイツにとって困る情報とやらなのかもしれない。
「あと、もうひとり。今回、すげーぜ。なんでも、現代文の先生もかわいい女の先生だって話」
「へぇ」
ビッグニュース! とばかりにほかのヤツが情報を持ちかけ、ふたりで大いに盛り上がり始めた。
――途端。
ぴくり、と孝之の指が動く。
「おい。起きろって」
少し強めに揺するものの、一向に動く気配がない。
……ま、いつもそうだけど。
仕方がないので、携帯を取り出して通話1本。
小さく聞こえてくるのは、バイブの振動音。
…………不貞寝?
そんなことが頭をよぎり、電話を切って鞄に手を伸ばす。
「……あった」
現代文の教科書を取り出し、パラパラめくりながら作者の写真が載っている部分を探す。
……ま、このへんでいいか。
「孝之。寝るならヒゲ3本な」
……もちろん反応はない。
「お前じゃなくて、小林多喜二にだけど」
「待て!!」
「お見事っ」
ペンをくるくる回しながら彼に教科書を返すと、隣のヤツが手を叩いて笑った。
何やら、面倒くさそうなバツの悪い表情でこちらを見ると、頬杖をついて視線をそらす。
「……なんだよ」
「お前の姉貴が来るんだろ? うちの学校に」
「だから?」
「なんで言わなかったんだよ、そんな面白いこと」
「馬鹿か! どこが面白いっつーんだよ! だいたい、ただでさえ担任が親なのに、副担まで身内だぜ? そのうえ…………あーーもー。どこの世の中に、学校で身内に固められて喜ぶやつがいるんだよ!」
「お前の素行が悪すぎるんだよ」
「ッ……うるせぇ!」
さらっと答えてやると、一瞥して睨まれた。
……それにしても面白いことになったな。
孝之の姉貴か。
遊びに行っても見たことはなかったし、これは想像のしがいがある。
「お前に似てる?」
「似てない」
「……じゃあかわいいとか?」
「かわいくねぇよ」
眉を寄せて嫌そうな顔を見せると、首を振ってしっかり否定。
……そこまで否定するとなると、実際は孝之が言うような人物じゃないんだろう。
多分、逆。
かわいくて、似てる……のか?
想像つかないが。
「だいたい、羽織は姉貴ってタイプじゃねぇんだよ。むしろ、妹だな。ありゃ」
「……妹?」
「そ。おっちょこちょいで、抜けてて、貫禄の『か』の字もない。教師として不適合」
「随分な言い方だな」
「ホントのことだから、しょーがねーだろ? 祐恭は見たことねぇから言えるんだよ。女子高生と変わんねーって」
「……まぁそれはそれでいいんじゃないか? 若いってことだろ?」
「ぶぁーか。若いんじゃなくて、ガキなんだよアイツは!」
大きくため息をついてから、孝之がまた机に突っ伏した。
……そんなに嫌なのか?
むしろ、話聞いてると面白くてたまらないのに。
なかなかないぞ。
ここまで自分の身内が学校に固まるなんて。
「でもさー、若い女の教師って久しぶりじゃねぇ?」
「そういや、そうだな」
「……やばい。俺、ちょっと楽しみなんだけど」
楽しそうに笑ったヤツに孝之が視線を送り、小さく『やめとけ』と呟いた。
何も、そんな嫌そうな顔しなくてもいいだろうに。
お前こそどんだけだ。
「席に着けー」
すると、ちょうどいいタイミングで瀬那先生が入ってきた。
――で、その後ろ。
普段とは明らかに色の違う雰囲気に、教室内がざわつくというよりは、どよめいた。
「今度副担任についてもらうことになった、瀬那羽織先生だ。教科は英語。……あまりいじめないようにな」
……え。
彼女が……孝之の姉?
「……マジで?」
「はー……」
盛大なため息をついて頭を抱えた孝之をよそに、思わず2度見して目を見張る。
教師というのだから、年上だろう。
だが、俺と同じ……いや、むしろ年下にさえ見える。
背もわりと低めで、教師という感じがしなかった。
「先生ー。羽織ちゃん、娘って本当ですかー?」
「……ちゃん付けをするんじゃない。まぁ、確かに娘だよ」
「おおおお!」
苦笑を浮べながら瀬那先生が言うと、教室がにわかにざわめき立つ。
が、孝之はというと見たくもないといった感じで、頬杖をついた。
「……似てないな、お前と」
「当たり前だろ。俺はあんなに能天気じゃねぇよ」
吐き捨てるように呟き、もう1度大きなため息をつく。
能天気、ねぇ。
……まぁ、確かにおっとりしてそうだけど。
「羽織ちゃん、彼氏いるのー?」
「えぇ……!?」
いきなりの質問に戸惑いつつも、苦笑を浮べながら首を振る彼女。
途端に、教室が沸いた。
「マジでー!? じゃあ、俺立候補ー」
「あ、俺もー」
「……え!? あの、ちょっ……」
「こら、お前たち!」
明らかに対応に困惑している彼女のかわりに、瀬那先生が一喝。
途端、室内が嘘みたいに静かになった。
……さすがは先生。
オンオフの切り替え、付きすぎ。
「お前たちが相手をしてもらえるわけないだろうが。……まったく。真面目に授業を聞くように」
……ていうか、全員考えてもみろ。
彼女と付き合ったら、父親が瀬那先生でしかも義弟は孝之なんだぞ?
そんな人生、俺だったらお断り。
片時も肩の力が抜けず、苦労するに違いないだろうに。
……瀬那先生はともかくとして、孝之がやっかいだよな。
コイツが義弟とかになったら、絶対あーだこーだ理由つけてタカってくるに違いない。
「……ということは、部活の副顧問は彼女になるのか?」
「あー、まぁそうじゃねぇの」
通り一遍のあいさつと連絡事項を終えると、ふたりが連れ立って教室を出て行った。
後ろ姿を見送ってから孝之を見ると、相変わらず苦虫でも噛み潰してるかのような顔すぎて噴きそうになる。
「弓道やってねーけど、知識はあるし」
「なんだ、やってないのか?」
「アイツが射るワケねーだろ? 無理無理」
ひらひらと手を振って伸びをし、今までとは打って変わっていそいそと1時限目の国語の教科書を取り出す。
……と、何かを思い出しでもしたのか俺を睨んだ。
「ったく。落書きなんかしやがったら、タダじゃおかねーからな」
「ああすればお前、起きるだろ?」
「……まぁな」
同じように教科書とノート、そして辞書を机に出しながら言うと、苦笑交じりに呟く。
……しっかし、若いっていうかホント幼いっていうか……。
大丈夫なのか? あのセンセ。
『よろしくお願いします』と頭を下げた姿がまた目に浮かび、ふとそんな疑問が頭をよぎった。
「……っと」
チャイムが響き、引き戸が開く――……と同時に。
これまでとは違う、線の細い女性が入ってきて、なぜか孝之が『う』とうめいた。
「……? どうした?」
「…………別に」
別にって、顔じゃないけどな。お前。
心なしか、先ほどコイツのアネキが登場したときとほぼ同じ反応のように思えるのは、気のせいか。
彼女よりも心なしか小さく見える女性は、重たそうに抱えていた荷物を教卓へ置くと、改めて背を伸ばした。
「みなさん、初めまして。今年から、現代文を受け持つことになりました。瀬那葉月です」
「え……?」
「……瀬那……?」
「…………」
当然のように教室がざわめき、孝之へと誰もが視線を向けた。
が、張本人は窓を向き、意図的に視線から逃れようと必死。
しかし、もののみごとにその防衛反応は虚しく砕け散るわけだが。
「……あ……えっと、たーくんとは従姉弟で――」
「ッ……馬鹿!! だからその呼び方すんなって――」
「……たーくん……?」
「たーくん……?」
「………………たーくん?」
「ッ……うるせぇ馬鹿!!」
じわじわと波が広がるかのように誰しもが口にし、当然のように俺もそう呟いた途端、ガタンッと勢いよく音を立てて孝之が立ち上がった。
のち。
「……もう。ちゃんと座ってね?」
「っ……!」
めっ。
小さな子どもを叱るみたいに瀬那先生が……ややこしいな。
葉月先生が孝之に眉を寄せ、改めて教室内が爆笑に包まれた。
国語が終わった休み時間。
机で瀕死状態の孝之をよそに英語の授業担当のために職員室に向かうべく席を立つと、隅のほうから声がかかった。
「いーなー、瀬尋。代わりてー」
「いいぞ、代わってやっても。ただし、英文法も行けよ?」
「……あー……やっぱいい」
眉を寄せて苦笑を浮べた彼らに肩をすくめてから、教室を出る。
リーディングと、ライティング。
英語2種類がどちらも“瀬那”先生とはね。
なんの因果かわからないが、そもそもこういうのって、採用の時点でどうにかされるのが普通じゃないのか?
だいたい、おかしいだろ。
他人じゃない、同じ苗字の先生が3人も採用されてるとか。
……まぁいいけど。
うちのクラスから職員室はすぐ。
まっすぐ行った突き当たりにあり、一目瞭然。
「失礼します」
いつ来ても騒がしい室内。
英語科は……あそこに瀬那先生がいるものの、彼女の姿は見当たらない。
……どこだ?
もしかして新任は別?
などと眉を寄せながらあちこち見ていると、ようやく見つかった。
1番手前の机で、何やら荷物と格闘している彼女が。
「先生」
「っ……はい!」
声をかけると、慌てたように振り返った。
さらりと長めの髪が流れ、一瞬見とれた。
「……えっと……」
「あ……次の時間、先生の英語なんで」
「そっかぁ。7組の生徒さんなんだ。よろしくね」
「こちらこそ」
にっこり笑った彼女が、なんの躊躇もなく片手を差し出してきた。
……握手?
まさか初対面で握手を――しかも彼女に求められるなど思わなかったので、思わず面食らった。
だが、不思議そうに俺を見つめているのに気づき、片手で握る。
自分よりも小さな、温かい手。
そのせいで、一層彼女が幼く思えた。
「次の時間はみんながどのあたりまで進んでるか見せてもらって……少し授業やろうと思います」
「わかりました」
「じゃ、お願いね」
にっこりと笑った顔は、本当に屈託なくて。
なんていうか、本当に……年上か? と、孝之じゃなくても思った。
「先生って……孝之のお姉さん、ですよね?」
「うん。そうだけど?」
「……いや……なんか、タイプ違うなと思って」
「あはは、よく言われるの。今日も、朝すごく嫌な顔されちゃった」
……あー、わかるわかる。
朝の、と言われただけで思わずうなずいていた。
孝之の姿がありありと目に浮かぶようだ。
よっぽど『マジかよ。なんなんだよいったい!』とかなんとか言ってそうで、笑える。
「じゃ、連絡お願いします」
「はい」
軽く頭を下げて職員室をあとにし、教室に入って席に着く。
移動教室とかじゃないし、連絡もないよな。
英語の教科書と辞書、ノートもろもろを出してから――浮かない顔の孝之を振り返ると同時に、意地悪っぽく笑っていた。
「随分かわいい先生だな」
「……知らねぇし」
あー、嫌そう嫌そう。
ぶっきらぼうに答えた彼に、ほかの生徒も声をかけ始めた。
そのたびに、嫌そうに文句を言ったが、もしかしたらこれは照れ隠しとかだったり…………しないよな。コイツの場合は。
などと思っていたら、チャイムが鳴って羽織先生が教室に入ってきた。
「きりーつ、れーい」
号令がかかり、彼女もそれに習って頭を下げる。
「じゃあ、今日が初めての授業なので……どこまでやったか教えてもらえますか?」
彼女が訊ねると、デカい声で数人の生徒がページを告げた。
苦笑を浮かべてうなずき、早速授業開始。
…………へぇ。
もっとチャチかと思ってたけど、きれいな発音だな。
見かけによらず、結構きちんとしてるかも。
これまで、英語に女性教師がついたことがなかったせいか、高い声で響く英語というのは結構心地よかった。
「…………」
ふと孝之を見ると、珍しく授業を聞いていた。
……なんだ。あれこれ言いながらも、真面目に聞くんじゃないか。
さっきの現代文もそうだったが、相変わらずワケがわからないな、と思わず笑えた。
カツカツとチョークが黒板に当たる音とともに、きれいな字で文字が綴られていく。
箇所箇所で丁寧に説明を加えながらの授業は、初心者向けかもしれないものの、好感が持てる。
何より、わかりやすい。
……さすが、瀬那先生の娘だな。
ノートを取りながらそんなことに感心をし……てはいたのだが、ふと……あることに気付く。
ほんの些細なこと。
だが、かなり重要といえばそうだ。
「先生」
「え? 瀬尋君、なぁに?」
……もう名前覚えてるのか。
しっかりしてるな。
挙げた手を戻し、代わりにシャーペンで黒板の1点を指す。
「そこ、スペル違ってますけど」
「え!? ……うぁっ、本当だ。ごめんなさい!」
「羽織ちゃん、しっかりしてよー」
「ダメじゃーん」
「……ご、ごめんねっ」
慌てて箇所を訂正し、ブーイングを飛ばす生徒に向かって苦笑を浮べて頭を下げる。
その姿は、今までの教師にはなかったもので、初々しいからかやはりかわいく見えた。
「……ったく」
はぁ、と小さく孝之がため息をつくと、シャーペンを置いたまま彼女を見つめていた。
ノートに、消しゴムをかけた形跡がない。
ということは――……。
「お前、気付いてたなら言ってやればいいだろ?」
「俺が言ってどーすんだよ。……ここで姉弟喧嘩見たいのか?」
「ある意味、見てみたいけど」
「っ……馬鹿じゃねーの」
にやっと笑ってやると、やれやれと言った感じに肩をすくめた。
姉弟喧嘩、ね。
コイツが罵るのは目に浮かぶが、彼女がどう対応するかは多少興味もある。
「じゃあ、教科書読んでもらおうかな」
こちらに向き直っった彼女が、名簿を取った。
「えっと、今日は8日だから…………っ……」
ぴくり……と、孝之が小さく反応。
そう。8番はコイツだ。
「……瀬那君」
「…………」
黙って立ち上がって教科書を読もうとすると、ほかの連中から返事しろだのなんだのとブーイングが飛んできた。
そのたびにうるさそうにする姿を彼女が見て、笑っている。
……まぁ、かったるそうに長文を読み始めたら、徐々に静かになっていったが。
しばらく読み進めたところで、彼女が席に座るよう指示した。
ほっとした顔で孝之が座る――と、次に呼ばれたのは俺の名前。
「続き、お願いします」
立ち上がって、孝之の続きから読んでいく。
すると、少し不思議そうに彼女がこちらを見た。
…………俺、なんか間違えたか?
何事もなく読み終えると、彼女がストップをかける……が、座ろうとした途端声がかかった。
「きれいな発音ね」
「……そうですか?」
「うん。ありがとう。それじゃあ、次……鈴木君」
……そうなのか?
あんまり自分じゃ感じないし。
まぁ、英語は嫌いじゃないけどな。
結局このあとは滞りなく授業が進み、終了を告げるチャイムが響いた。
「それじゃ、ここまで。今度の授業までに、英訳を書いたノートを出してね」
教科書を閉じて告げ、荷物を持って教室をあとにした彼女。
……マメだな。
これまでノートを提出させられたことがなかったせいか、そんなことを思った。
やはり、教師であることに変わりはないようだ。
教科書類をしまって次の授業の準備をすると、ため息をつきながら孝之が机に伏せた。
「……あー、面倒くせぇ」
「お前真面目に書いたんだろ?」
「そうだけど……アイツに何か言われる気がして嫌なんだよ」
……なるほど。
まぁ、家に帰れば何か言われるだろうな。
「ていうか、さ」
「あ?」
「お前、羽織先生と葉月先生、どっちが苦手なんだ?」
「っ……」
国語と英語、どちらも終えた今になって思うが、なんとなく姉である羽織先生の授業よりも、従姉の葉月先生のときのほうが、よっぽど顔が上がってなかった気がするんだよな。
普通、従姉のほうがまだ気が楽なんじゃないかと思うんだが、コイツは逆。
姉である羽織先生のほうが、なんだかんだと文句を言いながらも――……そう。
コイツは、羽織先生に対してはああだこうだと文句ばかり並べていたのに、葉月先生に対してはひとことも文句を言わなかった。
アイツはああだとか、こうだとか。
その手の愚痴をまったく聞かなかったせいで、俺が余計こう思うハメになったんだろう。
「もしかしてお前……」
「ンだよ」
頬杖を付いている孝之を見ると、目が合った途端そっぽを向いた。
……なるほど。言うまでもない、ってか。
普段何に対しても強気で決して折れたりしないコイツにも苦手なものがあったのかと思うと、少しおかしかった。
|