「っきゃ!?」
「……何言われた」
 中に入ると同時にドアと彼に挟まれ、身動きが取れなくなる。
 彼が両手をドアについて顔を近づけているので、同じ目の高さに彼の瞳があって。
 ……それは嬉しいんだけど……全然、笑ってないんだよね。先生。
 だから、眉が寄る。
 どうしよう。
 っていうか、どうすれば……?
 きゅっと唇を結んだまま彼を見ていたら、1度瞳を閉じてから、大きくため息をついた。
「……俺のこと、拒絶するの?」
「ちがっ……!! そんなんじゃないですよ!」
「そういうことだろ?」
「……違いますってばぁ……」
 少し寂しげな口調で、首を振りながら彼に手を伸ばす。
 ――……だけど。
 無情にも、彼はその手が届く前に身体を離して、こちらに背を向けてしまった。
 彼に伸ばしたままの手が空を掴み、それがものすごく切なくなる。
「いいよ? 別に。俺が風呂で溺れてもいいっつーんだな」
「あ……先生……!」
「あーそーかよ。そんなに俺と入るのが嫌なら、独りで入ればいーだろ」
「……あ、あの……」
「どーぞ、ご勝手に」
「っ……先生!!」
 シャツを脱いで眼鏡を外した彼の腕を慌てて掴む。
 ……なのに。
 それなのに、彼はこちらを振り返ってすらくれなかった。
「違うのっ……! あの、これは――」
「言い訳は聞きたくない」
「……せんせぇ……」
 掴んだ手を振り払うように腕を動かされ、すごくすごく切なくなった。
 ……いやだ。
 こんなふうにされるのは、すごく……虐げられているようで、泣きそうになる。
「ごめんなさい……っ……!」
 彼に離してほしくなくて。
 ……置いていってほしくなくて。
 気付くと、こちらを振り返ってくれない彼の背に、ぎゅうっとしがみつくように抱きついていた。
「違うの……! 先生と入るのが嫌なんじゃなくて…………言われた……から、なの」
 伝わってくる肌の温もりと鼓動はいつもと同じなのに、なんだかやけに心細くなる。
 ……きっと、彼がちゃんと私のことを見てくれていないからだろう。
 こんなに強く掴まっているのに、するりと身をかわされてしまいそうだ。
「誰に、なんて?」
「……絵里に……お風呂入らない、って言ってみたら……って」
 嘘なんてつくことはもちろんせずに、素直な懺悔。
 すると、ようやく彼が顔だけをこちらに向けてくれた。
「で、俺にそんなことしたんだ」
「……ごめんなさい」
 洗面所の壁にもたれるようにこちらを見ると、視線を外して小さくため息をついた。
 ……怒られる、と思った。
 だけど……だけど彼は、私がずっとずっとつらくなるような寂しそうな顔を見せた。
「ショックだった。拒絶されたって……そう思った」
「……ごめんなさい……」
「…………」
 視線を外して呟かれ、彼に回した腕に力をこめて首を振るしかできない。
 ……だって、私のせいなんだもん。
 彼がこんな顔をしてるのも、こんなふうに……寂しそうな声をしているのも。
 何も、かも。
 何も言わずに黙られているのが1番つらくて、つい……彼の顔を伺うように、俯いていた顔が上がった。
「……許してやらないって言ったら」
「え……?」
「許してやらないって言ったら、どうする?」
 変わらない表情のまま、彼が私の頬に手を当てた。
 撫でるようにされ、親指が頬を滑る。
 ……これは、彼がいつも私に何かを訊ねるときにするクセだ。
 彼は、気付いていないかもしれない。
 だから、きっと私だけが知っていることなんだろう。
 それが無性に嬉しい…………んだけど。
 やっぱり、こんな寂しそうな顔を見せられると、苦しくなる。
 だって、ものすごく悪いことを、彼にしているって……伝わってきて。
「……なんでもするから」
「なんでも?」
「うん。……なんでもするから。だから、許してほしい……」
 瞳を合わせたままうなずき、同じように彼の頬へと手を伸ばす。
 すると、今度は避けられることなく、温かな感触が指先から伝わってきた。
 ……こんなに、ほっとすることだったんだ。
 1度避けられただけなのに、まるでずっとずっとこうしてもらえなかったような気がして、ひどく安心感が溢れた。
 ……よかった。
 彼にこうして触れることができて、本当に――……。
「……え……?」
 そう思ったのも束の間。
 こちらの瞳が開くと同時に、彼が私の手を掴んだ。
 な……に……?
 いったい、何が起こったんだろう。
 そう思うくらい、私にはイマイチ納得できなかった。
 ……だって。
 目の前で、その口元が。
 彼の……口角が。
 まるで私の言葉を待っていたかのように、突然意地悪く上がったから。
「言ったな?」
「……え……。せ……んせい……?」
「二言はないよな? ……つーか、言わせるつもりないけど」
「え……えっ……!? せ、先生!?」
「何?」
「何、じゃないですよ! それは、こっちのセリフ!!」
 さっきまでは、今にも独りでどこかへ行ってしまいそうな雰囲気だった彼。
 ……なのに。
 今は、目の前で意地の悪い笑みを見せている。
 まさに、雲泥の差。
 …………うそ。
 もしかして、これは……先生にうまく乗せられたんじゃないだろうか。
「今、目の前で『なんでもする』って言ったのは、どこの誰だ?」
「そ……それは……」
 じぃっと見つめられて、視線が外れる。
 ……だ、だって。
 まさか、こんなことになるなんて――……。
「…………俺のこと試したくせに」
「……ぅ」
 ぼそっと呟かれた言葉で、思わず喉が鳴った。
 ……それは……確かに、私……が悪いと思う。
 でも、でも!
 それを言ったら、先生だってまるで私の言葉を待ってたみたいなのに……。
 ……まぁ、そうは思っても言えないけどね。
 この状況下では、なおさら。
「……あっ!」
「いいよ? 別に。許してほしくないなら」
「先生!?」
「いーよ、もう。独りでそこにいなさい。……俺は風呂入るから」
「やっ……! 先生、待って!!」
 私から手を離して再び背を向けた彼に、慌てて手を伸ばす。
 だけど、やっぱりこちらを向いてくれなかった。
 ……もぉ……。
 もぉーー!!!
「……なんでもする」
 ぴた。
「なんでもするから……! だから……先生、許して……?」
 彼の両腕を掴んで小さく……それはそれは小さく囁くと、彼が動きを止めた。
「……本気?」
「ぅ。…………うん……」
 顔だけでこちらを振り返った彼に思わず声が漏れたけれど、彼を見ていたら自然と首が動く。
 すると、満面の笑みと表現するに相応しい表情で、彼が肩に手を置いた。
「それじゃ、手始めに。一緒に風呂入ろうか」
「…………うん」
 すんなりうなずいた私に『いい子』と呟いた彼は、やっぱりいつもと同じだった。
 ……騙されたんじゃないのかな、私は。
 楽しそうに私の服へ手をかける彼を見ながら、そんな考えが浮かぶ。
「……っ! じ、自分で脱げます!」
「誰だ? なんでもするっつったのは」
「…………私」
「よくわかってるじゃないか」
 にやっと見せた彼の笑みは、いつもよりずっと意地悪だった気がする。
 気のせいなんかじゃない。
 ……先生、絶対ワザとだ。
 じぃっと彼を見たままでいたら、やっぱりまた大きなため息が漏れた。
 うぅ。
 『なんでもする』なんて、言うんじゃなかった。
 そして、何よりも――……絵里の話に、首を突っ込むんじゃなかった。
 ……今さら遅すぎるけど、ね。
 でも今度からは、もう絶対にしないようにしよう。
 うん。


2005/6/25


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