男の人が泣くのを見るのなんて、もしかしたら初めてだったかもしれない。
自分の記憶を辿ってみても、幼いころのお兄ちゃんでは見たことがあっても……『男性』の姿ではなくて。
お父さんもそうだし、葉月の父である恭ちゃ……じゃなかった。恭介さんも、そう。
……私の周りにいた“大人”の男の人が涙するところなんて、見たことなかった。
あの日――……遠足の、あのときまでは。
「…………」
ふ、と夢でまで見た光景。
それで、目が覚めた。
……先生、泣いてた。
今では随分前のことになるけれど、でも、やっぱり衝撃的で忘れることはできない。
あのときの匂いも、あの場所の雰囲気も、何もかも。
「…………」
ふと瞼を閉じれば、すぐに夢でも見たあのシーンが浮かんだ。
……涙した理由。
先生と付き合えるようになってしばらく経つけれど、でも、未だに聞くことはできていない。
もしも――……自分の予想通りの返事が戻ってきたら……?
それが怖くて、口には出せなかった。
あれ以来、私が彼の前で泣くことはあっても、彼が涙するようなことは一度もない。
いつも笑っていて、ときに私が困ってしまうくらいいたずらっぽい顔を見せることはあっても、泣くなんてことは全然。
……だから、聞いていいのか迷う。
好きな人だから、聞いてみたい。
だけど、本当に好きだから躊躇する。
……昔のこと、聞いてどうするつもりなんだろう。
きっと、私が欲しいような答えは返って来ないってわかってるのに。
「……わがまま」
上半身を起こして膝を抱えると、小さく言葉が漏れた。
…………そういえば。
「あれ……?」
今ごろだけど、いつもここにある彼の姿が今日はなかった。
いつもは、私が起きるときまで彼は隣にいてくれるのに……今そこにあるのは、少し冷たくなった彼のスペースだけ。
それが、無性に不安を募らせた。
「……っ……」
転びそうになってしまいながらベッドを降り、そのままパタパタと足音を響かせてリビングへ向かう。
あんな夢を見たせいだっていうのは、わかってる。
わかってるけれど……不安。
彼が隣にいてくれない夜が、こんなにも心細かったなんて……知らなかった。
「あ……れ……」
そこにあると思っていた姿だけに、真っ暗でシンと静まり返ったリビングで思わず声が出た。
……いない……?
まさか、独りでどこかへ出かけるなんてことは考えられない。
ましてや、まだ夜中。
だもん……出かけたりするはずない。
……そうですよね?
「…………」
不安からか、ぎゅっと掴んだパジャマを再び握り直し、真っ暗な室内へ足を進める。
――……と、廊下からわずかに明かりが漏れているのが目に入った。
……こんな時間に?
…………。
あ。
そこでようやく、思い当たることがあった。
……そうだ。
先生、きっとあそこにいるんだ。
思わず声をあげそうになった口を両手で押さえながら、そちらへと足を向ける。
先ほどまでとはうって変わって、軽い足取り。
……それが、少しおかしい。
「…………」
やっぱり。
案の定、光は彼がいつも書斎として使っている部屋から漏れていた。
……仕事してたんだ。
そう思うと同時に、こんな時間まで起きて仕事をしている彼に対して、ほんの少しだけ申し訳なくなる。
……置いていったりするはずないのに、あんなふうに考えたりして……。
「…………」
部屋の手前で1度深呼吸をしてから、ドアへ手を伸ばす。
ここに、彼はいる。
……きっと、いつもと変わらない……大好きな笑顔で。
「せん――……せ」
ドアの隙間に手を入れながら開いた途端。
……思わず、瞳が丸くなった。
「っ……」
正夢って、こういうことを言うのかな。
……それ以外に、どう言ったらいい……?
今、目の前に確かにいる彼が――……涙を流しているという事実に対して。
「……どうした? こんな時間に」
しっかりとした筋を作って、涙が……ひとつ、ふたつ。
……頬を……伝う。
「せんせ……どうして……」
「え? 何が?」
「……なんで……泣いてるの?」
どうしても、視線は彼の涙にしか向かない。
泣いてるという、事実。
……これは……嘘じゃなくて、夢でもなくて……。
それなのに、彼はまるで今頃気付いたかのように、頬の涙を拭って見せた。
「……っ……」
「最近、なんかつらくて」
ふっと伏目がちにしてから視線を落とし、口元を彼が手で押さえた。
……つらい……こと?
そんなこと、これまで聞いたことなんてなかった。
私は…………っ……私はいったい、彼の何をわかってあげられていたんだろう。
何も……わかってなかったクセに。
「……なんて。何? 泣いてると思……っ……え?」
先ほどまでと一変して、彼は笑顔を見せた。
少しふざけたように手と首を振って、いたずらっぽい笑みを見せる。
……だけど。
彼は、私を見てから瞳を丸くして、喉を動かした。
…………理由は、なんだろう。
もしかして――……私が泣いてるから、かもしれない。
「ちょ、なっ……! え? なんで? なんで泣いてるの?」
「……だって……せんせ……っ」
「ちがっ……! ちょ、待った!! 嘘だよ! 泣いてないから!」
「……ふぇ……」
ガタン、と椅子を鳴らせが彼が、そのままの勢いで肩を掴んだ。
力強い手のひらから、しっかりと伝わってくる温もり。
……だけど、目の前がぼやけてちゃんとした行動ひとつひとつが見れない。
「なんで泣くんだよ……」
ぎゅっと瞳を閉じると同時に、彼が私を抱きしめてくれた。
全身に彼の温もりが伝わってきて、余計に――……。
「これ」
「……え……?」
「だから、これだよ。コレ」
じわっと熱くなった瞳の前に、彼が小さなものを取り出した。
手のひらにすっぽりと納まる大きさで、目を引くピンク色の……液体が揺れる。
「……これ……」
「ったく。どうしたんだよ……」
それに手を伸ばすと、彼が小さなため息をついた。
……私の手にも、簡単に納まってしまう、コレ。
それこそは、見紛うことなく――……彼がいつも使っている目薬に間違いなかった。
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