「……ゴミ?」
「そ。ついでに目が疲れたから、使っただけ」
先ほどまでとは打って変わって、いつものように明かりがついたリビング。
そのソファに彼と座りながら、何度かまばたきが出た。
「……冗談っていうか、なんていうか……」
少し困ったような彼の声に、当然涙なんて止まっている。
それじゃあ……見間違えただけ?
彼が泣いてるって……いうのは。
「……よかった……」
「それはこっちのセリフ。……ったく。一時はどうしようかと思ったよ」
「ごめんなさい……」
ほっとしたからか力が抜けた身体を、彼と同じようにソファへ預ける。
すると、彼が髪を撫でるように手を動かした。
「……だって、あのときと一緒だったから……」
「あのとき?」
「……あ。……あの……」
ぽろっと滑った言葉を彼が当然の如く拾い、誤魔化すこともできなくなった。
……そんな顔で見られたら、素直に言うしかできない。
少し瞳を細めた彼を上目遣いで見るものの、やっぱり許してくれそうにもないし。
「…………遠足のとき」
じぃっと彼を見たままで、ぽつりと呟く。
……が。
「あー、あれか」
「……え……?」
「ん? 何?」
「……そんな……反応、ですか?」
「どうした?」
てっきり、もっと違う反応が返ってくると思ったのに。
……なのに、彼はあっさりと返事をした。
しかも、表情だってこれまでと何ひとつ変わっていない。
つらそうでもなければ、思い出すのも嫌……って感じじゃなくて。
「…………」
そんな彼の姿はどうしても自分の中で描けなかったので、ついつい眉が寄ってしまった。
「……だから、アレも同じ」
「同じ……? 同じって、何が……?」
「だから。…………今の理由と」
いつの間にそうしていたのか、彼のパジャマを掴んでいた。
……そのせいかどうかは知らないけれど……彼が、私から視線を外す。
まるで、バツが悪いみたいな顔をして。
「今と同じ……?」
繰り返すように呟く。
……ものの、今度は彼が肯定も否定もしなかった。
どうしてだろう。
それは気になるけれど、でも――……あ。
「……え? 今と同じって……もしかして」
「さて。夜も遅いし、もう寝るかな」
「あ、まっ……!? 先生! 待って!」
ふ、と彼を見た途端、張本人である先生は、こちらを振り返らずに寝室へと向かってしまった。
そんな彼を慌てて追いかけるものの、まったく気にせずベッドへ。
……らしくない。
こんなふうに、はぐらかすような態度を見せるなんて。
「先生!」
「おやすみ」
「……もぅ。ちゃんと聞いてください!」
「何?」
横になってしまった彼の隣へ座るようにすると、渋々といった感じながらも、彼が苦笑を浮かべた。
「……どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか?」
「聞かなかったろ? 羽織ちゃんが」
「そ……れはそうですけど……でも……」
「……でも?」
先ほどまでと、また立場が変わった。
……こうして、すぐに彼がうまく形勢を逆転してしまう。
別に、もちろん嫌なんかじゃない。
嫌じゃないけど……ちょっと、悔しい気がするのはどうしてだろう。
「…………不安だったんだもん」
1度視線を外してから再び合わせると、彼が少しだけ瞳を丸くした。
「……そうなの?」
「…………」
彼の問いに無言でうなずき、視線を落とす。
――……と。
「あ……」
「……だったら、もっと早く聞いてくれればよかったのに」
「…………だって……」
「不安にさせて、ごめん」
彼が、身体を起こしてしっかりと抱きしめてくれた。
……温かさが伝わってきて、なんともいえない気分になる。
泣かないって約束したのに、また泣いてしまいそうで……自然に瞳が閉じた。
「あのときは、コンタクトしてたからさ。それで、ゴミが入って……ね」
確かに。
あのとき、彼は眼鏡じゃなかった……と思う。
断言できないのは、それだけ、彼の涙というのがあまりにも衝撃的だったから。
だって、初めて見たんだもん。
……あんなふうに、先生が泣くなんて思いもしなかったし。
「……よかった」
「え?」
「理由、ちゃんと聞けて」
彼に腕を回しながら、笑みが浮かんだ。
……思ってるだけじゃ伝わらないって、ホントだ。
聞いてみなきゃ、本当のことなんてわからないもん。
「心配した?」
「……うん」
「そっか」
「……?」
髪を撫でてくれている彼の声が、ほんの少しだけ嬉しそうで……少し視線が上がった。
「ん? 何?」
「……ううん」
思った通りの、笑顔。
……それが、彼にあって心底ほっとできる。
「え?」
「……これからは」
ぎゅっとひときわ強く抱きしめられて彼を見ると、肩口に顔を近づけながら、言葉を続けた。
「なんでも聞いて?」
「……あ……」
「ちゃんと答えるから」
頬に手のひらを滑らせながら顔を覗き込まれ、小さく喉が鳴った。
……優しい顔。
その顔を見て、身体から力が抜ける。
余計なこと全部が抜けてくれたみたいに、笑顔が浮かぶ。
…………ああ。
やっぱり、先生ってスゴイ。
「……うん」
抱きしめられている身体だけじゃなくて、心までしっかりと温かくなった。
――……あの日から、私は少しずつ変わっていった。
不安なことも、気になることも。
すぱっと率直にはできないけれど、それでも、ちゃんと口に出せるようになってきたと思う。
…………ただひとつ。
「…………」
「んー? 何?」
「なんでも……ないです」
「そう? こういうときこそ、俺は聞くべきだと思うけど?」
「っ……! いいの!」
彼がいたずらっぽい笑みを見せてワザと言葉を濁し、私に聞かせようとするときだけは――……未だに聞くなんてこと、できないけれど。
でもきっと、これだけは聞かなくてもいいんじゃないかと思う。
……多分……ね?
2005/11/2
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