「あれ?」
「……山中先生……?」
「お久しぶりです」
 ぺこりと頭を下げて入ったのは、化学の準備室。
 同じ階とはいえ、担当が違うと入ることもほとんどない部屋だ。
 だけど、夏休み中の今日だけは、違っていた。
 なんでかって言うと、ちゃんとした目的が今の僕にはあったから。
「実はこれ……」
「……あ」
「箱根、ですか?」
「そうなんです」
 田代先生と瀬尋先生。
 そのおふた方に持って来た箱を見せると、へぇとかほぉとか付け足してくれながら、箱を覗き込んできた。
 ……た……大したモノでもないから、どっちかっていうと……申し訳ないんだけれど。
 あまりにまじまじと見られ、思わず笑顔が困った顔へ移りそうになる。
 だけど、その前に渡してしまうことにした。
「実は、この前……えと、その……はは。か、彼女と……行きまして」
 さすがに、このときばかりはふたりの顔を見れなかった。
 ……なんとなく、沈黙。
 だけど、次の瞬間ふたりはそれこそ『おめでとう』みたいな感じに、拍手をくれた。
「えっ、え……!?」
「いやー、よかったですね。山中先生」
「彼女と旅行なんて、イイ夏休みじゃないですか」
「……あ……あり、がとうございます」
 たはは、と笑うしかなくて、思わずまた俯いてしまう。
 ……うぅ。
 顔が赤くなっているのは、きっと気のせいじゃないぞ。
 こんなに顔が熱くなるなんて、なんだか久しぶりだ。
 ……でも、本当にいい旅行だったと思う。
 だって――……この夏、できたばかりの大切な彼女と行った、特別な旅行だったから。
「…………」
 ……ただひとつ。
 ひとつ……ふたつ、みっつくらいかな……。
 できることなら、思い出から排除してしまいたい出来事を除けば……いうことないと思う。
「うわぁあーん!! おふたりとも、聞いてくださいよぉ!!」
「うわっ!?」
「なっ!?」
 あれこれと思い返していたら、当時の気持ちが蘇ったみたいに、思わずふたりの手を握っていた。
 当然、驚いた顔をされたけれど、でも、もう止まらない。
 だって、今日ここに来る前から、『そうしよう』って決めてたんだ。
 ……今さらそれをしないつもりもないし、何よりも、こんなふうに切り出しちゃった以上、引き下がれるわけもないんだから。
「実はっ、実は……!!」
「……ど……うしたんですか……?」
「何かあったんですか?」
 半泣きの状態でコクコクと首を縦に振り、ポケットからハンカチを取り出す。
 それをぎゅっと握り締め、鼻をすすって――……準備完了。

「おふたりに、どうしてもアドバイスしてほしいことがあるんです……!!」

 言ってからふたりの顔を交互に見ると、なぜかお互いに顔を見合わせながら、一瞬『またか……』なんて顔を見せたような気がした。

 ことは、つい先日。
 それこそ、今日だってまだ旅行の興奮が冷めやらぬ状況なんだから、昨日一昨日の話。
 僕は、世間一般で禁忌とされている『教師と生徒』という関係に陥ってまで手に入れた、大切な大切な彼女と一緒に、箱根山へと旅行に来ていた。
 夏真っ盛り。
 緑で溢れかえった山は、やっぱり夏休みってこともあってか人がいっぱいだった。
 ……でも、僕にはそんなこと関係ない。
 だって、かわいい彼女とふたりでいられれば、たとえ渋滞の車の中だってパラダイスに違いないんだから。
「し……詩織ちゃん」
「は、はいっ」
「……今日は、来てくれてありがとうね」
「えっ」
 急勾配の山道を車で登りながら、助手席に座った彼女に呟く。
 ……あぁ。
 なんてかわいい声なんだろう。
 話しかけるだけで、なんだかまだドキドキしちゃう。
 でも……この子が、僕の彼女で。
 彼女にしてみれば、僕は……か……彼氏、で。
 ……うわぁあ。
 きっと、僕は世界で1番の幸せ者に違いないと思う。
「それを言うなら……私のほうこそ……」
「え?」

「昭さん……今日は、連れて来てくれて……本当にありがとうございます」

 キキィイイイッ
「きゃあ!?」
「うわわっ!?」
 あまりにもかわいい顔ではにかんだ笑みを向けられ、たまらずペダル操作を誤った。
 ついでに、ハンドルも思わずそちらへ切っていたらしく、そびえ立つ岩肌に車を擦りつける寸前。
 ……あ……危なかった……。
 危うく“傷”と呼べる大きさじゃないものを付けそうになって、今ごろ冷や汗がだらりと出てくる。
 ……や、やっぱり、運転中は運転に集中しないといけないよね。
 うん、そうだ。
 だって、隣にはかわいくて愛しのマイスウィートを乗せているんだもん。
 もっとちゃんと運転しなくちゃ、彼女だって不安にさせちゃうし。
「はは……ははは」
「もうっ。昭さんったら」
 なんとなく気まずい気がして出た、乾いた笑い。
 だけど、彼女は怒ることもなく、にっこりと柔らかく笑いながら『気をつけてくださいね』とだけ付け加えた。
 ……ああ……神様、本当にありがとうございます。
 これも、やっぱりひとえに日々重ねた厚い信仰の賜物なんでしょうか。
 両手でハンドルを握りながら前を向くと、晴れた空がやけにキラキラして見えた。
 いい天気、だけじゃない。
 気分だってよければ、雰囲気もバッチグー!!
 ……今日は……いや、今回の旅行は、きっと言うことないものになるに違いない。
 僕は、大きな希望と期待を胸に、一路芦ノ湖を目指すことにした。

「わぁ……! 大きいー!」
 湖のすぐ目の前にある、駐車場。
 そこに車を停めてすぐ、詩織ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。
「大きいよね」
「ええ、とっても!」
 にっこり。
 ……ああもう。その顔だけで、僕は本当に満足です。
 きらきらと輝くどんなモノよりも、ずっとずっと(きらめ)いて見える彼女の笑顔。
 思わず、眩しさで目がくらんでいた。
「うわぁ……鯉もいるんですね」
「え?」
 車から降りてしばらく彼女を見つめていたら、いつの間にやら少し離れた桟橋のほうにまで行っていた。
 そんな彼女のところまで慌てて向かい、足元の湖面を覗く。
 すると、そこには確かにうじゃうじゃとものすごい数の黒い鯉がひしめき合っていた。
「……すごいね」
「すごいですね……」
 まじまじと見つめている詩織ちゃんと一緒になって、時間を忘れてしまう。
 …………。
 …………。
 …………。
 ……はっ。
「し、詩織ちゃんっ!」
「はい?」
 危うく、このまま夕方まで過ごすところだった。
 慌てて彼女の名を呼び、立ち上がって反対方向に顔を向ける。
 すると、同じようにゆっくり立ち上がってから、彼女もそちらを見てくれた。

「ねぇ……ぼ、ボートに乗ろうか」

 せっかくカッコよく決めようと思ったのに、こんなところでまた噛んだ。
 ……とほほ。
 どうやら、僕には決めゼリフなんてものは使いこなせなさそうだ。
「ボートですか?」
「……ダメ……かな?」
 少しだけ驚いた彼女に、つい弱気になる。
 口元に手を当てて、どちらかというと意外というか……。
「いいですよ」
「えっ?」
「あっ。……でも私、泳げないんです……」
「なぁんだ、大丈夫だよ! 僕に任せて!!」
 せっかく『Yes』の返事を貰えたのに、その途端少しだけ(かげ)ったのを見て、ついつい胸を張っていた。
 どんとこい! とばかりに胸を叩きすぎて、危うく咳き込みそうだったけれど。
「うわぁ……昭さんって、頼もしいんですね」
「あはは。まぁ、男だからね」
 両手を、ぽむ、とあわせてキラキラとした羨望の眼差しを受け、思わず頬が赤くなった。
 ……たはは。
 だけど内心は、穏やかなんかじゃない。
 だって僕は――……実は、彼女と同じでまったく泳げないんだから。
 ……あぁ……ど、どうしよう。
 いやでも、なかなかボートの転覆事故なんて話はそうそう聞かないし……。
 大丈夫。
 きっと大丈夫さ。
 何事もなく、彼女といわゆる『デートの定番』であるラブラブボートタイムだって、こなせるに決まってる!
「昭さん、行きましょう?」
「あっ、うん。行こうか」
 気にはなる。
 だけど、目の前にぶら下がっている大きなもののほうが、今は大切だし……それしか見えていなかった。
 ……人間、やっぱり目の前にあるご馳走を前にして、わざわざ悪い方向のことなんて考えないんだよね。
 当然僕もそうだから、このときは笑顔で彼女と楽しい時間がすごせるに違いないと少し先の時間へ思いを馳せていた。


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