「……なんだか……不思議な気分です」
「え?」
「ふわふわしてて……すごく気持ちいいですね」
どき。
目の前に座って、ぽよんとした笑顔のまま首をかしげた彼女に、思わず鼓動が大きく鳴った。
気持ちいい……?
はっ。いかんいかん!
ぼ、僕は別に、よっ……よからぬことを考えたわけなんかじゃなくて。
ただただ、彼女にそんなふうに言ってもらえたことが、単純に嬉しかっただけだよ?
誰に弁解するわけでもないけれど首を振り、違うことを頭で考え始める。
……今は、ボート漕ぎに集中。
ボート漕ぎに……。
ボート……。
「昭さん」
「え?」
目を閉じてオールを漕ぐのに集中していたら、彼女が少し心配そうに声をかけてきた。
「なぁに? 詩織ちゃん」
「……あの……疲れませんか?」
口元に手を当てて聞かれたのは、僕の体調だった。
あぁ……なんて優しい子なんだろう。
僕から『乗ろう』って言ったことなのに、こうして気遣ってくれるなんて。
正直言って、確かにこの作業は楽じゃない。
ましてや、僕はこれまで、運動部なんかに所属したこともなければ、身体を鍛える趣味があるわけでもなくて。
どっちかっていうとインドア派だし、汗だくになって作業するなんてことも、したことがない。
……だから、痛かった。
手漕ぎボートを借りて、進み始め……ものの5分もしなかったかな。
僕の腕と背中と足と腰と……とにかくもう、全身が悲鳴を上げだしたのは。
だって、ボートって僕が思ってた以上に難しいんだよ?
オールを同じ力で均等に漕がなければ、ぐるぐるとその場で回転してしまう。
思った方向に進めないだけじゃなくて、これじゃあせっかく彼女にいいところを見せようと選んだボートが裏目に出ちゃう。
……だから、がんばった。
僕は、疲れてるなんて素振りをまったく見せずに、ここまで来た。
気付けば、ボートを借りた小屋は遥か遠くに見えたし、あのときはすごく遠くに見えた湖畔にあった木々の連なりが、今ではぐっと間近になっていたし。
「……ありがとう、詩織ちゃん」
「そんな! こちらこそ……ありがとうございます。昭さん」
僕を気遣ってくれている彼女の、この極上の笑み。
このお陰で、二の腕を侵食し始めていた疲れや痛みが、一気に吹き飛んだ気がした。
「さぁ、それじゃあもう少し向こうまで行ってみようか」
「えっ? でも、時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫! あそこまでなら、5分もかからないで戻れるよ」
にっこり笑って、口から出任せ。
……嘘です、ごめんなさい。
僕は、ここに来るまですでに10分以上消費してます。
…………だけど、もう少し、湖上というステキなシチュエーションで、ふたりっきりを味わっていたい。
ちらりと時計を見たとき、早くも返却時間まで15分を切っていたのがわかったけれど、でも大丈夫さ。
ここまで来れたんだから、戻れないことはない。
――……でも。
僕はこのとき、いろんなものを無視していたことになんて、まったく気付かなかった。
だって、湖にもあるなんてこと、本当に知らなかったんだよ。
まさか――……ここまで実は水の流れに乗って来たから、帰りは逆らう形になるなんてことは。
……まさに、幸せの真っ只中にいた僕が、知り得るはずもなかった。
「さぁ、もう少し向こうまで行ってみよう」
「あっ! 昭さん!」
「え?」
にっこり笑って、もう1度身体全体でオールを漕いだ瞬間。
まるで、後ろにある何かに気付いたみたいな顔をした詩織ちゃんが、慌てて僕を引き止めた。
「なぁに?」
「後ろっ……後ろ……!!」
「……へ?」
僕は、知らなかった。
いや……でも、本当はそれじゃいけなかったんだ。
だって、それは『知らなかった』んじゃなくて、単に『気付いてなかった』だけにすぎなかったんだから。
「うわぁああ!!!!」
「きゃぁあああ!!?」
ザバアァっと、それまで静かだった湖面とボートが、激しく大きく揺らいだとき。
僕は、ようやく彼女が言っていた『後ろ』に気付いた。
まさか、それまでずっとやむことなく鳴らされていた警笛が、僕らに向けられていただなんて……いったい誰が知りえるだろう。
「うわっ!? うわ、うわわっ! うわぁあ!!」
「きゃぁあっ! あっ、あきっ、昭さんっ!!」
「詩織ちゃあん!!」
必死に踏ん張りながら、彼女を庇うように手を伸ばす。
だけど、届かない。
……くっ……かくなる上は……!!
「詩織ちゃん!!」
「ッ……! あっ……昭さっ……!?」
がばぁっとその場に立ち上がり、彼女の元へと身体を――……。
ガタコンッ
「うわぁああ!!?」
「きゃあああ!!」
突然、『ぐらっ』どころか、『ぐるりんっ』ってくらい大きくボートが揺れた。
……いや、揺れたなんて表現も適切じゃないと思う。
だって、今にも沈みそうな動きを見せたんだから。
「ひぃいい」
慌ててその場に座り、頭を低くして波が収まるのを待つ。
大きく大きく鳴らされていた警笛は、徐々に遠ざかって行った。
ちらりと視線を向けると、大分離れてくれたみたいだし。
……よ……よかった……。
とりあえずは、一難去る。
だけど、問題は……これからかもしれない。
だって、これほどまでにグラついたボートを、適切な処置でいち早く乗り場まで戻さなきゃいけないんだから。
「……あ……昭さぁん」
「だっ、大丈夫! 大丈夫だよ、詩織ちゃんっ! もう大丈夫だからね!」
不安げに、そして潤んだ瞳で名前を呼ばれ、一瞬どっきりした。
……でも、こ、こんなところで弱気な面を見せるわけにはいかない。
だって僕は、彼女にとっての『彼氏』に違いないんだから。
「あ……あはっ、あはは! あはははは!! い、いやあ……ビックリしたね」
「え……?」
「本当はね、あの大きな波に乗って一気に向こうまで戻ろうとしたんだ。上級者向けなんだけれどね」
「そう……だったんですか?」
「うん。……ごめんね、びっくりさせて」
どんどん出てくる、口から出任せの数々。
……嘘の上塗り。
そう言っても過言じゃない。
…………だけど。
だけどやっぱり、彼女にいいところを見せたい気持ちは当然あるから。
「さあ、それじゃあ戻ろうか」
「はいっ」
こほん、と咳払いをしてから彼女を見ると、にっこり笑ってうなずいてくれた。
……ほっ。
どうやら、なんとかやりすごせそうだ。
時計を見ると、すでに時間はあと10分弱。
…………戻らなきゃ。
なんとしてでも……!
「えいやぁっ!」
かけ声とともにオールを漕ぎ、勢いよく進路を戻す。
目の前には、両手を重ねて頼もしそうに僕を見る彼女がいるんだ。
……幾らなんでも、失敗を重ねるわけにはいかない。
そんな強い思いがあった。
「せいやぁ!」
「……あ……」
「とぉりゃあっ!」
「あきっ……あきらさ……」
「どっせぇい!」
「昭さんっ!」
「……え?」
ぎっこん、ぎっこん。
何度か力強く、そして逞しくオールを漕ぎ、精一杯の男らしさをアピールする。
だけど、何度かそれを繰り返していたら、彼女が僕の手を握ってきた。
どっきりして彼女を見ると、少しだけ……なぜか困惑している顔。
「……え? 詩織ちゃん……?」
「昭さんっ……あの……あのね……?」
「う……うん……?」
真剣そうな表情に、視線が逸らせなくなる。
……言おうか、言うまいか。
そんな選択をしているような彼女は、僕がごくっと喉を鳴らしてから、ようやく俯いていた顔を上げた。
「……昭さん……」
「うん……?」
「さっきから、ぐるぐる同じ場所回ってるけれど……」
「へっ?」
「……だいじょうぶなのかな、って……思って……」
思いもかけなかった事態。
情けなく口をぽかんと開けて、瞳を丸くする。
すると、途端になぜか彼女のほうが『ごめんなさい』と謝った。
……そんな……。
そんなこと、ないのに。
だって、彼女が悪いことなんて……これっぽっちもないのに。
「ごめっ……ごめん……!」
「え……?」
「……実は僕……ボートに乗るの、これが……初めてで……」
「えっ?」
「だからっ……! だから、その……ごめん……ヘタクソなのはそういう理由なんだ」
ぎゅうっとオールを握り締めたまま、俯いて告げる――……懺悔。
……こんなことになるのなら。
彼女を危ない目に遭わせてしまうんだったら……最初から、嘘なんてついてまで自分を繕わなければよかったのに。
「……ごめんっ……!」
深く深く頭を下げ、ただただ彼女に許しを請う。
……許してくれなくて当然だ。
だって、僕は……僕はっ……。
「ッえ……?」
だけど。
次の瞬間、思ってもなかったことが起きた。
「……詩織ちゃん……」
「謝らないでください」
目の前に座っていた彼女が、僕の頭を撫でてくれたのだ。
……まさか、ありえないって思ってたのに。
だって、僕は言うなれば彼女を裏切ることをしたのに。
…………それなのに……。
「昭さん……気にしないでくださいね」
「でもっ、でも……!」
「だって……気持ちは、私もわかりますから」
少しだけはにかんだように。
首をかしげながら笑った顔は、まさに慈愛に満ちていた。
すべてを慈しみ、不偏な愛を注ぐかのごとく。
「詩織ちゃんっ……!!」
「だから、謝ったりしないでください。そして……もう、無理はしないでくださいね?」
「もちろんだよ!」
ぎゅうっと彼女の両手を握り締め、優しい眼差しを真っ向から受ける。
……あぁ……やっぱり彼女は、僕にとって最愛で最強の女神様に違いない。
「ありがとう……!」
何度も何度も感謝の言葉を口にし、うんうんと首を縦に振る。
とにもかくにも、今はただ本当に嬉しくてたまらなくて。
ありがとう、と何百回も口にしたいと心底思った。
……もちろん、巡り合わせをしてくださった神々の皆様にも。
――……結局。
僕らがボート乗り場へ辿り着くことができたのは……それから20分弱経ってからのことだった。
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