「もー、昭さんったらぁ」
「ははは。詩織ちゃんこそー」
 先ほどまでとは違い、本当に……それはそれは甘い時間がやってきた。
 ……やっぱり、車内っていうある意味の密室空間は、とびっきりだと思う。
 だって、人目を気にする必要はまったくないし、それに――……。
「……あっ」
「あっ! ご、ごめんっ……!」
 ……ジュースを取ろうとして、うっかり彼女と手が触れちゃう、素晴らしいハプニングもあるしね。
 てへへ。あぁ……幸せだ。
 にょろほんと顔が緩んで、どうしようもないほど鼻の下が伸びきっていた。
 道は、広々としていてかつ、交通量もない。
 なんて走りやすい道なんだ。
 山道ってだけあって、もっとゴツゴツしてるのかとばかり思っていたけれど、そんなことはないんだなぁ。
 なぁんだ。拍子抜けだ。
 話に聞いていた箱根とは随分違って、優雅に走ることができる。
 これならば、ちょっと前に本で読んだ『ワンハンドステア』っていうのが、容易にできるじゃないか。
 そう考えながら、もう1度彼女の手に触れることができないかと、ちらちら伺っていた――……そのとき。
「きゃあっ! あ、あきらさっ! ぶっ、ぶつかっちゃいますよ!?」
「……え? ッうわあああ!?」
 にんまりしながら隣の彼女に思いきり視線を向けていたら、絹を裂くような悲鳴が車内に響き渡った。
「ひえぇえ!?」
 目の前に突如として現れたのは、真っ赤な車。
 ……しかも、なんか……ちょ、ちょっと怖そうで高そう。
 こんな見通しのよくて、かつ、開けた場所なのに思いきり追突しそうになって、ぎゅうっとブレーキを踏む。
 ……踏む。
 ふ……踏む……。
「っだわぁああ!? も、だめっ! 間に合わないぃ!!」
 どひゅーん
「うぎゅう!?」
 思わず、ぎゅうっと両手でハンドルを握ったまま、目を閉じてペダルを思いきり踏んでいた。
 その途端、なぜかものすごい重力を感じ、シートへ身体がくっ付いた。
 ……く……苦しい……!
 ブレーキって、こんなに苦しいものだったっけ……!
 あ……ああそうか。
 そんなの知らなくて当然だ。
 だって僕……こんなにべったりとペダル踏んだの、きっと今が生まれて初めてだから。
「ッ……くぅうう……!!」
 無意識でハンドルを切り、それこそ無我夢中。
 今、自分が何をしたのかも正直覚えてないし、それに、目の前のあの車がどうなったか――……っ……そうだ……!
「車っ!」
 慌てて身体を起こし、ばっと目を開ける。
 ……だけど。
「あ……れ……?」
 我が目を疑うとは、まさにこのこと。
 だって、さっきまですぐそこにあったあの赤い車が、なかったんだ。
 ……そう。なかった。
 それこそ、あの車の影も形も存在してはいなかった。
「……え……?」
「ッ……昭さんっ! ブレーキ!!」
「へ――……ッうわぁああ!?」
 ぽかん、としてワケがわかってなかった僕をシャキっとさせてくれたのは、またもや詩織ちゃんだった。
 ぐいっと腕を引かれて前を見た瞬間、反射的にブレーキをぎゅぎゅぎゅっと踏み込む。

 その先、道がなかった。

 すんでのところで、ものすごいカーブからそのまま下の道に落っこちるところだったんだから。
 ……あ……危ない……。
 どきどきしながらハンドルをきつく握り締め、サイドを引いて何度も深呼吸をする。
 ぼ……僕はいったい……。
 自分が何をしたのか。
 それもわからないままだったけれど……バックミラーで後ろを見ても、そこにはあの車は映り込んで来る様子がない。
 ってことは……抜かした、でもなければ……え……?
「詩織ちゃん……僕はいったい……」
「もおっ……! すごいスピードで、前の車を抜いたんですよ?」
「……え……?」
 覚えてないんですか?
 少しだけ心配そうな顔で言われても、正直言って首を縦に振るしかできない。
 ……僕が……抜いた?
 あの、車を?
「………………」
 どくどくと早鐘のように打ち付けている鼓動を少しでも抑えられれば、と思って胸に手を当ててぎゅっとシャツを握る。
 は……はは……。
 ははは……。
 ……そんなことあるんだ。
「……び……びっくりした……」
 乾いた笑いを浮かべ、深呼吸を何度も繰り返してからサイドを下ろす。
 さっきまでとは違い、のろのろと亀みたいなスピード。
 だけど、僕はこれでもいいと思った。
 ……だって……本当に、怖かったんだ。
 …………。
 ……人間って……いざってときは、自分でもびっくりするようなことができるんだな……。
 まるで、超能力者にでもなったみたいだ。
 ゆっくりと、40キロ以下をセーブしながら道を進み、ハンドルを握る自分の手を見る。
 いつもは、何をやってもダメで、本当に……不器用で。
 だけど、今だけはまるで、黄金でできている特別なもののように見えてくるから不思議だ。
「…………」
 ……だけど、やっぱりその手は微かに震えていて。
 今自分に起きたことが間違いなく現実なんだと、改めて実感した。

 人間は、ときたまに『デジャヴ』というものを体験することがある。
 ……ちなみに。
 今の僕も、そのひとりだ。
「なんで……」
 思わず、ごくっと喉が鳴った。
 ようやく辿り着いた目的のお店で食べ終えた、お昼ごはん。
 やっぱり、地に足を付けている時間っていうのは本当にほっとする。
 今日は、ボートとか運転とか……そんなので、なんだかすごく疲れたし。
 だからこそ、お茶を飲んだりごはんを食べながら彼女と話している時間は、格別だった。
 ……も……もちろん、車の中の時間も好きなんだけれどね。
 でもあれは、危ない目に遭っていないとき限定であって、何も、命からがらの状態なんかを望んでるわけじゃない。
 僕は、そんな変態さんじゃないからね。
 ……いい?
 とにかく、そんな状況は願い下げなんだ。
 たとえ、この先にどれほどおいしい思いをすることができる約束があったとしても、もう、あんな怖い思いは……まっぴらごめん。
 絶対、嫌だ。
 そう思って、僕はこれっぽっちだって望んだり願ったりしなかったのに。
 ……なのに……。
「なんで……」
 ぎゅうっとハンドルを握りながら、また泣きそうな声が出た。
 でも、もちろん彼女に聞こえないよう細心の注意は払ってる。
 ……だって、さっきの運転といい、ボートといい……かっこ悪いところばかり見せてしまっているんだ。
 これ以上株を下げるわけにはいかないんだよ? 絶対に……!
 …………でも。
「……ごくっ」
 目の前にある、湘南ナンバーの車。
 それも、ただの車じゃない。
 真っ赤なスポーツカーだ。
 きっと、かなり怖い人か……もしくは、軽そうな人が乗ってるんだろうな。
 僕は、堅実派だからまず乗れない。
 ナンバーだって、まったく軟派的じゃない『相模』ナンバー。
 人によっては『相撲』と読み違われるのが難点だけど。
 でも、僕はコレが気に入っていた。
 ――……だけど、それだけじゃなかった。
 この、今僕の目の前を走ってる車。
 これこそはまさしく――……先ほど僕が『超技術』を披露したあのときに目の前を走っていたその車に、違いなかった。
 ……夢ならば、なんて悪すぎるんだろう……。
 僕は、二度と会いたくなんてなかったのに。
 だって……こ……怖い、じゃないか。
 こんな車に乗ってる人は、みんな乱暴な運転をして、ちょっとでも気に障ればずーーーっと付け回してきたり、クラクション鳴らしたり、パッシングしたり……そう!
 あ、煽られるに決まってる!!
 しかもしかも、何かイチャモンとか付けられたりして……。
 あわわわ。
 そうならないように、スピードを少し上げて、前の車が急に止まれないようにしてやるんだ。
 ……これって、良策だと思うなぁ。
 だって、ぴったり後ろから張り付いていれば、前の車は追突を恐れてブレーキなんて踏めないでしょう?
 そうすればドライバーの人も降りてこれないし、カツアゲとか暴力沙汰なんて第2の事故にも発展しないで済む。
 ……僕って、危険回避能力は意外と高いんだなぁ。
 スピードを上げてカーブを曲がっていく前の車を見ていたら、ほややんと顔が緩んだ。
 …………安心安心。
 これならばきっと、前の車はこの山を降りるまで絶対に止ま――……。
「ぎょああ!?」

 端っこに、止まってた。

 しかも、ハザードを焚いて、わざと僕に道を譲るみたいな格好で。
 ……ど……どどどどうしよう。
 え? えっ!?
 お、おこっ、おこっ……怒ったのかな……!?
 さっきまでの勢いはどこへやら。
 急に、さあーっと身体全部から血の気が引いた。
「昭さん……?」
「……へっ……?」
「大丈夫ですか? ……なんだか……顔色があまりよくないみたいだけど……」
「へ!?」
 ぎゅうっとハンドルを握ったままアクセルを踏み込み、オーバースピードのままカーブに突っ込む。
「っきゃ!?」
「うわ!?」
 当然、車は曲がりきれなくて大きな弧を描きながら反対車線に飛び出した。
 ……あ……危ないっ。
 たまたま対向車がなかったからよかったけれど、もしもあのとき対向車が来ていたら……。
「ひぃいいっ……!!」
 ぶるぶると首を振り、ガクガク顎を鳴らしながらハンドルを切る。
 だけど、どうしたって気になってしまうのは――……追い抜いてしまった、あの、赤い車。
 追い越すとき、ちらっと窓を見たら……なんだか、ものすごく怖い人が睨んでたように見えたんだよね。
 し……舌打ちとかっ、してたかもしれない……!
 あぁああ!!
 それどころか、もしかしたらナンバーを控えられて、家まで追ってくるかも……!?
「うわああ!! し、詩織ちゃん! 逃げよう!!」
「えっ!? ど、どうしたんですか!?」
「ダメだよ! やっぱり、箱根は危ない……! 近づいちゃいけなかったんだ……そうっ……そうだよ! そうに違いない!!」
 ぐんっとアクセルを大きく踏み込んで、前のめりにハンドルを握り締めたまま運転を続ける。
 早く帰ろう。
 こっ……こんな物騒なところに、いつまでもいるわけにはいかないんだから……!!
「うぅっ……」
 だけど。
 ……だけどもしも……もしも、あの車の運転手がものすごく怖い人で、執念深くて、そんでもって……情報を簡単に手に入れることができる人だとしたら……!!
「ひぃいいい」
 一瞬、学校に木刀を背負って殴り込みする恐ろしい人が頭に浮かび、思わず首を振りながら悲鳴を噛み殺していた。
 怖い……怖い怖いっ……!!
 やっぱり、無理して箱根なんかに遠出するんじゃなかった……!
 僕らは、まだまだ冬瀬付近で遊んでたほうがいいんだ! そうに違いない!!

 神様ッ……! どうか僕らふたり、迷える……というか、追われる子羊を、お助けください……!!

 結局。
 そのあとは、半泣き状態で狼から逃げる羊の如く、1泊2日の旅行をキャンセルしてまで僕らは冬瀬へ帰るハメになった。


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