「――……というわけなんですよぉ!!」
 だんっ!
 両手で机に拳をぶつけてから、ひぃいいっと情けない声があがった。
 田代先生が用意してくれたパイプ椅子に深く腰かけ、まるで、僕の授業中堂々と居眠りをしている生徒の如く、机に突っ伏す。
 でもっ、でもっ……!
 僕は、本当にどうしたらいいかわからなくて。
 なんとなくだけど、風の噂で田代先生が実は怖い人かもしれないという情報を得たから、今日はここまでやって来たんだ。
 きっと……きっと、彼ならばなんとかしてくれる。
 そんでもって、瀬尋先生も一緒に聞いてくれれば『文殊の知恵』みたいに何かいい案が生まれると思ったから。
「どう思いますか!! 田代先生!!」
「へっ!?」
 がばっと顔を上げてから、握り締めていたハンカチで涙と鼻水を拭う。
 すると、なぜか神妙な顔つきで瀬尋先生と顔を見合わせていた彼が、困ったように引きつった笑みを浮かべた。
「いや、その……まぁ……なんだ。……なぁ! 祐恭君!」
「え!?」
 ハハハ、と乾いた笑いを浮かべた田代先生が瀬尋先生に話を振ると、それはそれはものすごくびっくりしたような、困ったような。
 そんな曖昧な表情のまま、ごほんと咳払いをして――……。
「……瀬尋先生……?」
「はいっ!?」
「あの……あの、僕、何か悪いこと言いましたか……?
「え!?」
 そう思うのも、無理はないと思う。
 なぜならば、瀬尋先生はずっと……僕と視線を合わせてくれなかったからだ。
 恋する女の子じゃないから、別に気にはしない。
 ……だけど、気になった。
 だって、あまりにも露骨に……まるで、僕と視線が合うと石になっちゃうみたいな勢いで、視線を逸らしていたから。
「いや……ははは! そ、んなことないですよ」
「……そうですか……?」
「ええ! もちろん!!」
 人間とは、割と我侭な生き物で。
 あまりにも思いきり否定されると、どうしてかいい気分はしなかった。
 ……なぜだろう。
 なぜだかはわからないけれど、今日の瀬尋先生はなんだかいつもの瀬尋先生とは違う気がする。
 どこが違う、ということはできないんだけれど……でも、なぜか……。
 なぜか、そんな気がした。
「まぁ……とにかく。その……ねぇ? 山中先生?」
「……はい?」
 ごほんと咳払いをした田代先生が、小さく音を鳴らせて椅子ごとこちらに向き直った。
 ……でも、失礼かなとも思うんだけど、なぜかその瞳は楽しそうに笑っている……ような気がする。
 …………なぜ?
 理由はわからない。
 わからないけれど……まるで、第六感がそう告げているかのように、僕にはキラキラと輝いて見えた。
「きっと大丈夫ですよ」
「……え?」
「その車の持ち主は、多分……そうだなぁ。もしかすると、山中先生を試していたのかもしれませんよ?」
「試す……? え? 僕を、ですか?」
「ええ」
 考えてもなかったことを告げられ、思わず瞳が丸くなった。
 だけど。
 なぜかそのときちらりと瀬尋先生を見ると、『えぇ!?』みたいな顔で、僕と同じように瞳を丸くしていたのが見えた。
「ほら、箱根っていう場所柄もあるし、もしかしたら先生に挑んでいたのかもしれません。……うん。そうそう。それがイイ。きっと、そうですよ」
「……はぁ……?」
 なぜだかわからないけれど、田代先生は、宙を見つめながらあれこれ呟き、そして――……なんだか自分ひとりで納得しているようだった。
 ……?
 頭の中に、『?』ばかりがいっぱい浮かぶ。
 だけど、答えを自分で出せなかったからここに来たんだ。
 田代先生の話を、ちゃんと最後まで聞こう。
「あとは、自慢の愛車を見せびらかしたかったとか……」
「……はぁ……」
「あ。さては――……自分のテクを隣に乗せてた彼女に見せびらかしたかったのかなァ……?」
「ごほっ!!」
「……へ?」
 ニヤ、と田代先生が瞳を細めながら顎に手を当てた瞬間。
 なぜか、僕よりも先に、瀬尋先生が反応を見せた。
「え? 瀬尋先生……大丈夫ですか?」
「ごほごほっ……げほっ……! だ、いじょぶ……っげほ……!!」
 ……あんまり大丈夫そうには見えません。
 コーヒーにむせ返ったのか、瀬尋先生は机にカップを置くと、僕に背を向けて手を横に振った。
 ……うーん。
 もしかして、瀬尋先生ってコーヒーが苦手なのかな。
 ふと、そんなことが浮かぶ。
「ま、とにかく」
「……はい?」
「きっとその車を運転してた人は、横に乗せてた彼女ばかり気にしてて、山中先生の車は目に入ってなかったと思いますよ」
「……そうですか?」
「ええ。大丈夫です。……もしかしたら、運転しながらギアの入れ方とか教え……」
「ッ……純也さん!!」
「……へ?」
「あはは。……ま、そんなトコですって」
 キラリ。
 一瞬、田代先生がものすごく楽しそうな顔で、なぜか僕ではなく瀬尋先生を向きながら考えを披露してくれた。
 そして……それこそ、噛み付くんじゃないかというような勢いで、瀬尋先生が……顔を赤くしている。
 …………。
 ……あぁっ。
 顔が赤いのは、むせたからか。
 納得納得。
 ………………でも……。
 それじゃあ、どうして瀬尋先生があれほどまでに強く、田代先生に怒るんだろう。
 ……?
 その謎だけが、解けなかった。
「……なるほど」
 だけど。
 これまでいろいろ話してくれた田代先生のお陰で、ちょっとだけ怖い気持ちが薄れたように感じた。
 ……でも、ひとつだけ。
 反対に、ある疑問が浮かびあがる。
 それは――……。
「……でも、田代先生」
「はい?」

「どうして、その車にその人の彼女が同乗してたってわかるんですか?」

「え」
 そのとき。
 初めてと言ってもいいくらい、目の前で時間が止まる瞬間を目撃した。
 僕の目の前にある、すべての時間。
 もちろん、それには瀬尋先生の時間もしっかり含まれている。
「……いやっ……それは……っほら! そうそう! いやー、さすがに男同士で箱根にわざわざ上ったりしないでしょう?」
「そうですか? でも、結構グループで男性だけがいることも――」
「いやいやいや! その赤い車に乗ってる人間は、大抵、すぐ横にかわいい彼女を乗せて『自慢の運転』を見せつけたいっていう人たちばかりですから」
「……は、あ」
 ぐむむ。
 ……なるほど。そういうものなのか。
 ていうか、田代先生ってもしかしたら『心理学』とかに詳しい人なのかな。
 車の車種も形も何も言っていないのに、そこまで読み取ってしまうなんて。
「……すごいですね。田代先生って」
「ははは。ありがとうございます」
「…………」
 思わず拍手をしながら彼を褒め称えると、対照的に、押し黙ったまま誰とも視線を合わせずコーヒーを飲んでいる瀬尋先生が視界に入った。
 ……うーん?
 もしかしたら、瀬尋先生はどこか具合が悪いのかもしれない。
 だってほら、今日僕がここに来てからずっと、こんな調子だったし。
 …………。
 ……僕……タイミング悪いときに来ちゃったのかなぁ。
 思わずハンカチを口元に当てて瀬尋先生を見ると、そんな気持ちが湧き上がってきた。
「えっと……おふたりとも、ありがとうございました」
「……え? もういいんですか?」
「あ、はいっ。お陰さまで、気が楽になりましたので」
 そそくさと立ち上がり、椅子を畳んで田代先生に渡す。
 すると、そこでようやく瀬尋先生が顔を上げた。
「あのっ……瀬尋先生」
「……え?」
「具合がよろしくないときに、無理矢理お付き合いさせてしまったみたいで……申し訳ありませんでした」
「……え……」
「どうぞ、ゆっくり休んでくださいね」
「……は……は、あ」
 瞳を丸くした彼に、ぺこっと頭を下げてから、田代先生にも頭を下げる。
 するとそのとき、なぜか今度は田代先生が口元に手を当ててこちらに背を向けた。
 ……?
 若干その肩が震えていたように見えなくもなかったけれど、なんだか……やっぱり、『?』ばかりだ。
 でもまぁ、僕自身の不安は解消されたから、これ以上ここにいても、ふたりの邪魔をしちゃうだけだし。
「それじゃ、失礼します」
 ぺこり、と頭を下げてから、そのままドアへと向かうことにした。
 生物室を同じタイプのドアを開け、静かに閉めてから誰ひとりいない静かな廊下を進む。
 そういえば……。
 田代先生の机の端っこに、僕のものとは違う『箱根』という字の入ったお土産らしき箱が積んであるのが見えた。
 ……もしかして……田代先生も、箱根に行ったのかな。
 生物室のプレートが見えてきたときにそんなことが浮かんだけれど、そのときの僕は、ただただ『報復』と書いて『おれいまいり』と読む類のものが回ってこないことだけを祈るので精一杯だった。

 ――……ちなみに。
 ドアを開けたとき、どこかから怒声のような大きな声と、同じく大きな笑い声が聞こえてきたのは……僕の気のせいだったのかどうか、今でも判断はついていない。


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