「……あれ」
 珍しく早く部活が終わった、放課後。
 職員玄関から外に出ると、雨が降っていた。
 ……さっきまで降ってなかったクセして。
 途端に、ため息が漏れる。
 置き傘は、これでもしてある。
 ……が。
 ここからロッカーまで取りに行くのは、結構面倒で。
「……ん?」
 ……走るか。
 なんて思っていたら、向かいに見慣れた人影が見えた。
 正面は、生徒たちの使う昇降口。
 そこの出入り口に立って同じように空を見上げていたのは、部員で友人の妹の――……羽織ちゃん。
 あれは、どう見たって走っていこうとか考えている顔だ。
 現に、1歩踏み出しては悩み、また1歩踏み出しては――……を繰り返しているから、ほぼ確定。
 ……受験生という立場を自覚してないんじゃなかろうか。
 というか、女の子なんだからびしょ濡れで帰ろうなんて考えないでもらいたいところだけど。
「……仕方ないな」
 そう言った自分の顔が少し緩んでいたのに気付いたのは、それから少し経ったあと。
 ……おかしいな。
 呆れているはずなのに、どうして笑みが漏れる?
 しかも、先ほどまでは行きたくもなかった場所にわざわざ足を向けているわけで。
 我ながら、少し笑える。
 だが――……これが事実。
 あのコンパがあった日から、どうしても彼女を見てしまっていた。

「走って行こう、なんて考えてる?」
「え!?」
 後ろから声をかけると、びっくりしたように彼女が振り返った。
 ……まぁ、驚くよな。
 聞こえるはずのない場所で、男の声が聞こえたら。
「……先生」
「小降りならともかく、本降りだからね。無茶はしないように」
「……す……みません」
 う、と小さく詰まってから頬を染めてうなずいた彼女に、つい笑みが漏れた。
 ……謝るとは思ってなかったな。
 だからこそ、なんていうか……素直すぎて、こっちが困る。
「迎えは?」
「……あ。お兄ちゃんが……」
「そうなの? 言ってくれれば送ってあげるのに」
「えぇ!? ……あ、や、あの、そんなっ。……とんでもないです」
 慌てて手と首を振った彼女の顔は、相変わらず赤いまま。
 ……んー。
 そこまで意識されると、結構こっちが恥ずかしくなるんだが。
 並んで立ちながら、互いに前を向いている状況。
 こうしていると、彼女が自分よりずっと背が低くて、ずっと華奢だと実感する。
 普段、こんなふうに近くにはいないからな。
 教師と、生徒だし。
 …………教師と生徒、ね。
「…………」
 そのつもりだったんだけどな。
 ふと笑みが漏れるあたり、俺もそろそろ末期って感じかもしれない。
 まさか、こんなことになる日が来るとは。
「……?」
 ふと、感じたこと。
 それで、思わず視線が泳ぐ。
 ……なんだ?
 彼女を見ると、こちらに気付いて不思議そうな顔を見せた。
 だが、やっぱり気になるワケで……。
「……先生?」
「いや……」
 気になっていること。
 それは、匂いだった。
 すごく甘くて、やけに反応させられる――……。
「……羽織ちゃん、さ」
「はい?」
「もしかして、香水か何かつけてる?」
「え? ……あっ。もしかして……先生、香水ダメですか? ごめんなさい」
「……いや。これくらいなら、大丈夫だけど」
 慌てて頭を下げてから1歩下がった彼女に、こちらこそ慌てる。
 ……が、しかし。
「え……?」
「あ、ごめん。……いや、なんか……」
 出てしまった笑みのまま首を振るも、彼女はやはり気になっているようだった。
 ……まぁ、そうだろうけど。
 なんか……違うんだよな。この子って。
 俺がずっと抱いていた『年下』のイメージから、ことごとく外れていく。
 人に頼って、甘えて、すがって。
 それを当然と考えている、俺の周りにいた年下とは大違いだ。
 ――……けど。
「……っ! ……せ……んせ」
「あんまり人に気を遣わなくていいんだよ? 謝りグセは、つけないほうがいいんだから」
「……あ……」
 ぽんぽんと頭に軽く触れてから笑みを見せると、一瞬瞳を丸くしてからにっこりとした笑みを見せた。
 思わず、その顔を――……まじまじと見つめてしまう。
 ……ヤバい。
 素直に、かわいいと思った。
「…………あ」
「え……?」
 さらに手を伸ばそうとした瞬間、彼女がこちらから視線を外した。
 向うのは、すぐそこのロータリー。
 ……あ。
 滑り込んできた見慣れた黒い車が、テールランプを灯す。
「それじゃ、またね」
「あ、はい」
 俺を見ながら少し困った顔を見せた彼女を促すと、柔らかい笑みでうなずいた。
 この顔。
 そして、この笑み。
 ……まさか、そのどれもが自分だけのものにしたくてたまらなくなる日が来るとは、な。
 教師という職に就いて、生徒を見ていて……こんなふうになるとはね。
 我ながら、参った。
 彼女にだけは、本当に降参。
 ……教師も所詮は人間。
 そして、俺は普通に男だったんだな――……なんて浮かんで、少しおかしかった。

「で。わかった?」
「……わかんないです」
「あーあ。それじゃ、俺はお先に」
「え!? せ、先生! 待って! いじわるしないでくださいよっ」
「意地悪? 失礼だな。わからない君が悪い」
「……そ……んなぁ」
 くるっときびすを返し、向かうのは準備室のドア。
 ……まぁ、別に本気で置いて帰ろうとかは思ってないけど。
 しかし、彼女はこちらの予想通りに慌ててあとを追ってきた。
 困ったように眉を寄せ、すがるような瞳でこちらを見る彼女。
 …………かわいいね。
 我ながら、やっぱり意地が悪いようだ。
 彼女に追いかけてほしくて。
 彼女に必要としてほしくて。
 ついつい、意地悪くあれこれ言ってみたくなるんだから。
 ……ていうか、性格悪いよな。
 自分で言うのもなんだが、今まで自分がコレほど嫌なやつだとは思いもしなかった。
 ――……でも。
「っ!」
「羽織ちゃんが悪いんだよ」
「ふぇ……。ふぇんふぇいっ!!」
「はは。面白かわいい」
「っもう! ひどいですよ!」
「ごめん」
 両頬をつまんで小さく笑うと、手を払われてから睨まれた。
 まぁ、そりゃそうだ。
 ……けど。
「……いけない子」
「…………もぅ。さっきからそればっかりじゃないですか。先生ってば……」
「失礼だな。俺は優しいよ?」
「…………そう、ですね」
「……何? その間は」
「べ、別に……」
「別にっていう顔じゃないだろ。え? 言いたいことがあるなら、聞くよ? 俺は」
「ほ、本当になんでもないですってば!」
 ぶんぶん首を振って、こちらの視線から必死に逸れようとする彼女の手を、しっかりと掴んでやる。
 ……これで、身動きは出来まい。
 ついつい上がった口角のままで彼女を見ると、それはそれは困ったように眉尻を下げた。
 この顔。
 やっぱり、俺がこうなってしまったのは彼女のせいなんだ。
 かわいくて、どうしても自分だけ見ていてほしくて。
 そして、いつも構っていてほしい。
 ……なんか、我侭な子どもみたいだな。
「送ってほしい?」
「……ほしいです」
「仕方ないな。それじゃ、何か交換条件を提示してくれれば考えてあげるよ」
「……うー……」
 こちらの言うことに文句らしい文句も言わずに、最後は必ず納得してしまう彼女。
 絵里ちゃんとは大違いだ。
 ……でも。
 きっと、だから俺は彼女を好きになったんだと思う。
 自分だけの傍にいてほしくて、自分だけを求めてほしくて。
 ……我ながら、勝手な男だ。
「先生……?」
「え?」
「……もぅ。どうしてそんなに楽しそうなんですか?」
「楽しいから」
「……私をいじめるのが?」
「やだな。いじめてないよ? 俺は」
「…………もぅ」
 どうやら、いつの間にか笑ってしまっていたらしく、早速彼女に指摘された。
 でも、結局最後は彼女も笑っているわけで。
「……え……?」
「いい匂い」
「……せ……んせい」
 さらりと流れる髪に手を伸ばして、指で遊ぶ。
 香る、甘い匂い。
 それが、シャンプーなのか香水なのか……まぁどっちでもいいか。
 俺にとって、これは『彼女の匂い』なんだし。
 きっと、これからずっとこの匂いを嗅ぐたびに、彼女を思うんだろうな。
「……幸せなヤツ」
「え?」
「いや、別に」
「もぅ、なんですか?」
「なんでもないよ」
「……もぅ」
 彼女と出会えたことで、価値観が変わった。
 そして、彼女と出会えたことで、これからの自分の人生が変わった。
 ――……始まりは、あの場所。あのとき。
 あのとき気付けなかったら、俺は今ここにいないかもしれない。
 ずっと、忘れることはないだろう彼女の香り。
 それに出会えたことを、心底誇りに思う。


 

2005/3/22


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