「……え?」
「ごめんねー。実は、急に保護者の方と面接が入っちゃってね」
 夏休み明けの、ある日。
 早めにお弁当を食べて、次の時間の準備をしてから訪れたのは、ざわざわと混雑を見せている職員室。
 だけど、目の前の日永先生は、とても申し訳なさそうに頭を下げた。
「だから、相談……明日に延ばしてもらうわけにはいかないかしら?」
「あ、それは大丈夫です」
「そう? 瀬那、本当にごめんね」
「いいえ」
 両手を合わせた日永先生に笑顔で首を振ると、ようやく笑みを見せてくれた。
 そこでようやく、こちらにも笑みが浮かぶ。
 元々は、今朝になって急に私がお願いしたこと。
 だから、断られても文句はもちろん言えなかった。
「それじゃ、また明日きちんと相談に乗るわね」
「お願いします」
 相談というのは、ほかでもなく――……進路のこと。
 すでに受験の雰囲気が漂っている中で、実はまだ私だけ不透明なままだったのだ。
 将来就きたい仕事も、進みたい学部も、とうにそれらは決まっている。
 ……なんだけど……どうしても、大学だけが決まらなかった。
 私が目指す学部を抱えている大学は、さほど多くなくて。
 だから、決めようと思えば簡単に決まる。
 決まる……んだけど……。
「それじゃ、失礼します」
「ごめんねー。それじゃ、また明日」
 忙しそうな日永先生に頭を下げてから、出口を目指す。
 昼休みだけあって、沢山の生徒が目指す先生を訪れていた。
 ある子は、私と同じような相談を。
 ある子は、また同じように教科の連絡を。
 そして、ある子は雑談……かな?
「…………」
 ……だけど。
 そんな『当たり前』の光景を見ながらも、なんとなくそれらを自分に置き換えることができなくて。
 だって……私は違う。
 私は――……先生と付き合うことができているから。
 心底好きになった人で。
 きっとこれから先も、これ以上好きになれないってくらい……大好きな人。
 大切で、特別で。
 だから……違う。
 私が彼を訪ねてする『相談』も、『教科連絡』も、『雑談』も。
 どれもこれもがほかの生徒とは、やっぱり違う。
 何が違うって……雰囲気、かな。
 なんてことない他愛無い会話だけど、やっぱり端々に感じるモノがある。
 …………特別、ってちょっとだけ思う。
 だから、彼と過ごす場所がたとえ学校だろうと、特別な時間に変わりなかった。
 いち生徒として接されていても……寂しいなんて思わなかった。
 みんなにとっての『当たり前』と、私にとっての『当たり前』は違うから。
「…………」
 それで、最近ちょっと悩み始めた。
 その内のひとつが、この……進路。
 これまでは、おぼろげながらも志望校はちゃんと決まっていた。
 少し遠くなるけれど、でも『独り暮らし』に憧れがあったから……実は自分から進んでその大学に決めたんだもん。
 ……なんだけど……ね。
 今ごろになって、また、悩み始めた。
 理由は――……ほかでもなく、彼なわけで。
「…………」
 彼が出た大学は、ここからほど近い『県立七ヶ瀬大学』。
 お兄ちゃんだけじゃなくて、身近な人も出ている大学だ。
 ……だけど、正直に言うと……その大学だけは考えてもいなかった。
 だって、自分からしてみたら本当にレベルの高い大学で。
 どうしてお兄ちゃんが入れたの? って思うくらい、本当に……私にとっては難関で。
 ましてや、テストで理数系をひとつ受けなきゃいけないっていうのが、ネックだった。
 数学も、化学も物理も不得意。
 ……だから、最初から無理だって諦めてた。
「はぁ……」
 でも、ここに来て……悩んだ。
 彼が行っていた大学、だから。
 ときおり話で聞くことがあるから、余計にいろいろ思うんだと思う。
 ……やっぱり、行ってみたいじゃない?
 自分が知らないころの、彼がいた場所だから。
 そういう意味では、やっぱり特別だと思った。
「……あ!! 瀬那ー! ちょっとー!」
「え?」
 遠くから聞こえた、私を呼ぶ声。
 振り返ると、職員室のドアに手をかけたままで私を手招いている、日永先生が見えた。
「なんですか?」
 小走りでかけ戻り、次の授業の教科書と筆記用具を抱えなおす。
 すると、彼女は満面の笑みを浮かべて私に告げた。
 ……とんでもない、予測外なことを。


目次へ戻る   次へ