ざわざわという、いつもと同じ生徒の声。
 それは、やっぱり昼休みらしく、緊張感なんてモノは微塵も感じられなかった。
「…………」
 ……少なくとも、私以外の子たちは絶対に緊張なんてしていないはずだ。
 だって、今は休み時間なんだもん。
 いくらココが進路指導室だって言っても、指導の先生方だってお昼休みで。
 ごはんを食べに席を外している人もいれば、楽しそうに生徒とお喋りしている人もいる。
 だから、壁際に設置されている赤本や大学の要綱が並んでいる本棚を眺めている子たちも、みんなみんな笑顔だった。
 ……なのに。
「…………」
 どうして私は、こんなに緊張してるんだろう。
 ……ううん、理由はわかってるんだよ?
 わかってる――……からこそ、ヘンな汗が出てくる。
 喉が渇いて、言葉がうまく出てこないんじゃないかとも思う。
 ……重ねている手が、妙に熱い。
 うー。
 きっと私、今ものすごく切羽詰った顔してると思う。
 だって、余裕なんてないもん……!
 誰とも目を合わせられなくて、ただただ時間が過ぎるのを待つだけで精一杯。
 ……ううん。
 ちょっと、違う。
 時間が過ぎるのを待つ、わけじゃなくて。
 ここに、誰も来ないことを期待してる。
 ……本当は、きてほしい。
 だけど、きてほしくない。
 そんな相反することばかりをぐるぐると頭の中で巡らせてい――……た、そのとき。
「っ……」
 すぐ横のドアが開いて、それはもうこれでもかってくらいよく知っている人が入って来た。
「ごめん。待った?」
「……いえ……そんな、ことは」
「そう? じゃあ、始めようか」
「お願いします」
 当然の顔で目の前の椅子に腰かけた彼は、早速テーブルに持ってきてものを広げた。
 分厚い本と、幾つかの冊子。
 そして、束ねられているプリント……みたいなもの。
 ……先生、だ。
 あ、ううん。
 もちろん……目の前にいる彼は、紛れもなく……先生なんだけど。
 だけど、なんて言うのかな。
 なんだかこう……すごく、『教師』という雰囲気が出ていたのだ。
 ……って、うまく言えないんだけど。
 うー、うー……。
「……ん? どうした?」
「え!? あ……いえ……。なんでも、ないです」
 白衣のポケットから見慣れたペンを取り出した彼に、慌てて手と首を振る。
 ……うぅ。
 そんな顔しないでくださいよぉ……。
 いかにも『何考えてた?』なんて言い出しそうな笑顔で、思わず眉が寄った。
 ……でも、なんか……緊張する。
 いつもよりも、ずっと。
「……で? 羽織ちゃんは何系に進みたいの?」
「え?」
「『え』、じゃないだろ。進路だよ、進路相談」
「…………あ……」
 思わず彼に聞き返すと、瞳を細めてテーブルに手を置いた。
 ……違うこと考えてました、なんて言ったら……先生怒るよね。きっと。

 『瀬尋先生が、代わりにやってくれるそうなの』

 職員室から出てすぐの私を、日永先生はそう言って呼び止めた。
 しかも、『いい考えでしょ?』なんて嬉しそうな顔をしてまで。
 だけど私は日永先生に相談するつもりだったから、当然丁重にお断りをした。
 ……なのに。
「真面目に、俺の話聞いてる?」
「え!? それは、ちゃんと……聞いてますよ?」
「……そう?」
「もちろん!」
 頬杖を付いて訝しげな顔の彼に、こくこくと首を縦に振りながらうなずく。
 だけど、どこか『ホントに?』なんて疑わしげな表情なのは、どうしてだろうか。
 ……うぅ。
 先生、そんな顔しないでくださいよぅ……。
 普段は、あまり生徒の姿のない準備室で会話することが多い、私たち。
 だから当然、気兼ねなく喋ることができる。
 ……あまり、目も気にならないし。
 だけど、今は違う。
 こんな公の場所で先生と懇談なんて、初めて。
「……ん?」
「…………なんでも……ないです」
 若干俯き加減に、彼が開いた本へと視線を落とす。
 細々と書かれている、沢山の大学の入試情報。
 ……だけど、どれもこれも私にしてみたらレベルが高すぎる場所ばかり。
「はぁ……」
 そのせいがあってか、つい小さくため息が漏れた。
「……幸せが逃げるだろ」
「え……?」
「何かあった?」
「っ……」
 カチカチ、とボールペンを鳴らしながら、彼がまっすぐに私を見つめた。
 しかも、いつもと同じ口調で。
 ……トーンで。
 ――……だけど。
「……なんでもないです」
 たったそれだけのことなのに、顔が上がった。
 まっすぐ前を見ることができた。
 ……先生は、先生。
 私とふたりきりのときも、こうして学校で対しているときも。
 やっぱり、彼はちゃんと私を見てくれていた。
 それが今のちょっとしたことでしっかりと伝わってきて、本当に嬉しくなった。
 安心……したの。
「……えへへ」
 漏れてしまった笑みを抑えるように両手で頬を包み、きゅっと唇を結ぶ。
 嬉しかった。
 ……私が、考えすぎてただけなんだ。
 『いつもと同じに振舞ってはいけない』なんて、勝手にひとりで考えて。


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