「だいじょぶです」
「……そう? まぁ、元気なら何より。で? 志望校は?」
「あ。……えっと……」
ふっと一瞬だけ優しく笑った彼が、瞳を閉じてから背を正して向き直った。
『進路相談を受ける副担任』という顔をして。
「私、小学校の先生になりたいんです」
「……へぇ。いいんじゃない?」
「ホントですか?」
「うん。子ども受けよさそうだし」
「……んー……。褒め言葉、ですよね?」
「もちろん」
一瞬見せられた彼らしい意地悪な顔で訊ねるものの、わざと肩をすくめてから大きくうなずかれた。
……うーん。
でもまぁ、いっか。
「それで、教育学部の心理学科に進みたいんです」
「……心理学科?」
「はい」
その言葉でちらりと私を見た彼は、改めて本に視線を落としてからパラパラとめくり始めた。
きれいな指がつつっとページをなぞって……そして止まる。
…………。
……先生の動きって、なんだか不思議。
ちょっとしたことなのに、なんてことないのに、やっぱり特別に見える。
なんだか、まるで魔法でも使っているみたいな……そんな感じ。
「何?」
「え?」
「……何か付いてる?」
「あ。……いいえ、なんでも……」
どうやら、いつの間にかまじまじと見つめてしまっていたらしく、動きを止めた彼がいたずらっぽい顔を見せた。
……うー。
そんな顔されると、また顔が赤くなっちゃうじゃないですか。
なんて思ってはみるけれど、やっぱり彼が許してくれるはずはない。
……もしかしたら、暫くこのことで何か言われるかも。
「…………うん」
「え?」
「それなら、七ヶ瀬にもあるよ」
『ほら』と言って彼が広げて見せてくれたのは、七ヶ瀬大学の入試情報とキャンパス情報だった。
――……県立七ヶ瀬大学。
これまで、候補に入れようか迷って……結局情報しか見なかった場所。
「七ヶ瀬は希望校に入れてない?」
「……ないです」
「どうして?」
「え!? ……あ……あの……」
ごく普通に彼は訊ね返したんだと思う。
……なんだけど、やっぱり……正直言って答えにくい。
だって、その………ねぇ……?
「……だって……」
レベル高いんだもん。
ぽそ、と彼から視線を外して呟くと、同時にため息が漏れた。
……笑われる。
絶対に、笑われる。
そしてきっと、呆れられるんだ。
『どうしてそんなことを言う?』とか、『なんでそんな弱気なの?』とかって。
……だけど、どうしても希望校に入れることなんてできなかった。
確かに、七ヶ瀬にも公立としては珍しく教育学部に心理学科があるっていうのは知っていた。
場所だって家から近いし、先生の出身校でもあるし…………でも。
「……え……?」
俯いたまま見ていた手を、軽く突つかれた。
何かと思って見れば、彼が――……持っていたシャーペンのノック部分。
「……?」
優しい顔をした彼の意図がわからずにまじまじと見ると、私のノートを開いて、その空白へとペンを走らせた。
『俺がついてるんだよ?』
きれいな、クセのないまっすぐな字。
そんな彼の大好きな字が、ノートへと記される。
『いい家庭教師が付いてるだろ?』
「……でも……。私は……」
『俺が出た大学なのに?』
「っ……それは……」
『行きたくないの?』
「そんなことはっ……!」
さらさらと音を立てて増えていく文章に、小さな声でこちらは反応を返す。
すると、瞳が合った瞬間に彼は優しく笑って再びノートへ視線を落とした。
『七ヶ瀬、おいでよ』
「……え……?」
『あと半年、俺が付きっきりで面倒みてあげるから』
トン、と最後に点を書き添えた彼が顔を上げ、目が合った途端にふっと笑みを見せた。
……どうしよう。
すごくすごく嬉しい。
こんなふうに、こんなことを筆談できているのも嬉しいけれど、でも、それ以上に――……先生にそう言ってもらえたことが嬉しかった。
「……ん」
まっすぐに私を見ていた彼に小さくうなずき、改めて笑みを見せる。
すると、彼自身が書いた『七ヶ瀬』という字に大きく丸をつけてから、シャーペンを置いた。
「それじゃ、七ヶ瀬の対策を中心にやったほうがいいね」
「……はい……っ」
「……ん?」
「ううん。なんでもないです」
改まった口調になった彼がおかしかったのか、つい、笑ってしまいそうになった。
それをすかさず見逃さなかった彼がいたずらっぽい顔をしたけれど、でも、同じように小さく笑ってからプリントをトントンと机でまとめただけで、何も言わなかった。
「あれー? 珍しい」
「……え?」
「瀬尋先生、こんなトコにくるんですねー」
ちょうど背中から聞こえた声で彼を見ると、私ではなくて、私の後ろにいるであろう子を見るように視線を上げた。
「先生、私の進路相談も乗ってよー」
「悪いけど、これはウチのクラスの子の特権だからね。譲れない」
「えー? ……いーなー。私も2組になればよかった」
「大げさだな」
なんともいえない、不思議な……ううん。
……ちょっとだけ、いい気分はしない……感じ。
さっきまで私だけを見てくれていた彼は、私を越えた後ろの子をずっと見ていて。
だからこそ、私がまっすぐ見つめていても、彼と視線が合うことはない。
……なんか……悔しい、な。
ときおり笑顔を見せて話す彼の声と、そんな彼と話している女の子の声。
…………私が、知らない子。
そして、私が知らない先生。
「…………」
楽しそうにやり取りする姿ばかりがやけに印象付いて、視線が机に落ちた。
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