「それじゃ、またね」
「授業遅れるなよ」
「わかってますよー」
 そんなやり取りを最後に、ようやく彼が私へ視線をくれた。
 足音が遠ざかって、今では背後に彼女の存在は感じない。
「どうした?」
「……え……?」
 なんてことない顔。
 そんな、さっきまでと同じ顔で、彼がまばたきを見せた。
 ……それも、そのはず。
 だってきっと、私が思っているこんなことは、我侭でしかないんだから。
「…………」
「…………」
 顎に手を当てて私をまっすぐに見ている彼を見ることができず、視線が落ちる。
 ……嫌な子。
 彼は『先生』で、それはこの学校の生徒ならば誰にとってもそうなのに。
 ……現に、私にとっても彼は『先生』。
 だけど、それでもやっぱり――……頭のどこかでは、『彼女なのに』なんていう思いがあったのかもしれない。
 ……悔しかった。
 彼が私以外の子と楽しそうに話すのが。
 しかも……自分が知らない子だからこそ、余計に。
「……え?」
 落としていた視界に入ってきた、シャーペンを握った彼の手。
 それで、1度顔が上がった。
『1組の教科連絡の子』
「……え……?」
 小さく声をあげてから彼を見ると、ふっと笑って小さくうなずいてくれた。
 ……そうだったんだ。
「…………」
 シャーペンを取り出して、彼の書いた文字の手前へペンを動かしてみる。
 ……先生と違って、きれいじゃない自分の字。
 だけど、なんだか……嬉しかった。
 こんなふうに、違った形でする彼とのお喋りが。
『そうなんですか?』
『もちろん』
 さらさらと滞りなく続く、彼の文字。
 それが増えていくごとに、嬉しさが増していく。
 ……ほっとすることができる。
 ――……なんて思っていた、そのとき。

『心配した?』

 たったひとことだけ、彼がペンを走らせた。
「っ……」
 まさに、図星。
 それで、喉が鳴る。
「…………」
 ……どう、答えたらいいかな。
 なんて一瞬考えたけれど……でも、書くべき答えは最初から決まっていたんだと思う。
『ちょっとだけ』
 ほんの少し戸惑ってからそう書くと、彼が小さく笑った。
『素直だね』
 ……彼らしい字で、たったひとこと。
 だけど、見つめたまま笑ってしまいそうになったら、続けざまに彼はペンを走らせた。

『ほかのどんな子より特別なのは、羽織だけだよ』

「っ……え……」
 ノートの1番最後のページをめくった彼が、斜めに走り書きをした。
 そのあとで『もちろんだけど』と続けてくれる。

『ほかの子にとっても俺は“先生”だけど、羽織だけの先生でいい』

『でも、俺が担任だったら大変だな。贔屓(ひいき)しまくり確実』

『そしたら、1発で付き合ってることバレるな』

 頬杖をついたまま、さらさらと増えていく彼の文字。
 ……そして、彼の言葉。
「…………あはは」
 ここにあるのは、すべて『字』で表された言葉でしかない。
 だけど、どれもこれも彼の声で聞こえてきた。
 ……不思議。
 そして、すごく嬉しい。
 ……でも……ちょっとだけ、照れちゃう、かな。
「笑うところじゃないだろ」
「あ。……すみません」
 ぼそっと呟いた彼に慌てて首を振るものの、やっぱり笑いは止まらなかった。
 ……先生、優しい。
 私が不安になってるのをひと目でわかっただけじゃなくて、こんなふうに言ってくれるなんて。
「え……?」
 しばらくこちらを見ていた彼が、不意にシャーペンを再び動かした。
『誰よりかわいくて、特別』
「っ……な……」
 さらりと書かれた、そんな言葉。
 ……確かに、彼に言ってもらえて嬉しくないはずがない。
 でも、だけど……やっぱり、もったいないっていうか……。
 ううん。
 特別って言葉は、すごく嬉しいんだけど……ね?
「……え?」
 彼が書いてくれた言葉に、矢印を引っ張ってコメントを付けようとした、そのとき。
 私よりも先に、彼がイコールの記号を大きく付け足した。
「……っ……」
 その……記号の先にあったもの。
 それが――……。

『瀬那 羽織』

 これまでもこれからも、ずっとあり続ける、私の名前だった。
 見慣れてるし、当然自分のものだからある意味で愛着もある。
 ……でも、これほどまでに嬉しくなったのは、多分初めてだろう。
 彼が書いてくれた私の名前が、まるで魔法の言葉みたいに『特別』なものに見えた。
『今夜、家に来るよね?』
『……行きたい』
『了解。待ってる』
『嬉しいです』
『それはよかった』
 無言で続けられる、内緒話。
 お互いに視線は落としながらも、顔にはしっかりと笑みが浮かんでいる。
 ……特別。
 それは最初からわかっているのに、ちょっとしたことで私はすぐに不安になる。
 ……それって、先生にしてみれば鬱陶しい……のかな。
 さっきみたいな『先生なんだから当然』ということにも、いちいち反応してしまう自分が情けなく思う。
 そして、そこまで心の狭い人間なのかな……って、ちょっと悲しくなる。
 ……先生に対して申し訳なくなる。
 そんなふうに思ってるなんて知ったら、どんな顔されるだろう。
 どんなことを言われるだろう。
 でも――……。

『大好き』

 彼が視線を逸らしたときに、小さく小さくノートの隅へ書いてみる。
 それだけで、すごく嬉しくなって、そして同時にちょっと恥ずかしくなった。
 ……学校でこんなやり取りができるなんて、思わなかったなぁ。
「っ……!」
 独りで、にまにまと笑いそうになって顔を上げ――……る、と。
 頬杖を付いてものすごくいたずらっぽい顔をしている彼が、私をまっすぐに見ていた。
 ……み……見られてた……?
 もしかしたら、一部始終を。
「――……っ」
「あ」
 彼が手を伸ばす前にノートを閉じると、当然のように彼の動きが止まった。
「あのっ、ありがとうございました……!」
「何。もういいの?」
「大丈夫です」
「……そう? 遠慮しなくてもいいのに」
「っ……し……してません」
「……ふぅん」
「なんですか……?」
「別に?」
 大げさに肩をすくめた彼を上目遣いに見るものの、わざとらしい表情を浮かべるだけで、これといって何か言うようなことはなかった。
 ノートを畳んで筆記用具をしまい、立ち上がって椅子を直す。
 ……ほ。
 どうやら、今日はこれで無事に終わりになる……みたい。
「ありがとうございました」
「いいえ」
 ともに部屋の外へ出て、彼に改めて頭を下げる。
「また何かあったら、言ってね」
「え」
「……何か?」
「あ。いえ、あの……お願いします」
「いつでもどうぞ」
 おずおずと視線を上げて彼を見ると、やっぱり……そのときの彼はいたずらっぽい顔をしていて。
 ……うぅ。
 きっと、今回みたいなことになるだろうから――……学校で相談はしない、かもしれない。
 ……なんて思ったことを、彼は知らないだろうけれど。
 言えないよね、やっぱり。
「それじゃ」
「……あ。ありがとうございました!」
「いいえ」
 ひらひらと手を振ってくれた彼に慌てて頭を下げ、背中に声をかける。
 ……んー……。
 いろいろあったけれど、でも、やっぱり楽しかった。
 どきどきも、緊張も、そして――……ほんのちょっとの悔しさも。
 短い時間の間に沢山のことを経験したけれど、でも、これはこれで……いい……よね? たまには。
「…………」
 白衣を翻して歩いていく彼を見ながら、ふっと顔がほころぶ。
 ……私と先生だけが知ってること。
 それが、このノートにしっかりと残っている――……言葉。
 …………えへへ。
 そんな、ふたりだけの内緒話を抱えて、次の授業へ向かうことにした。


2005/11/8


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