あれは、今日のお昼休み。
 絵里ちゃんと羽織と一緒にお昼を食べてから、いつものように掲示板に貼られていたお知らせを眺めていたときだった。
「……え?」
 ふいに聞こえた曲で、そちらへと弾かれるように顔が向いた。

   Take Me Out To the Ball Game

 視線の先にいた人を見て、やっぱり、とうなずくしかなかった。
 私にとって、この曲はある人をストレートに連想させるもの。
 でも、ここは日本。
 だからいるはずはない――けれど、どうやら彼が目の前の人に与えた影響は、とても深くて大きいらしい。
 ちょっとだけ羨ましくて、でも……やっぱり嬉しい。
 だって、目の前の彼がどうしてこの曲を設定しているか、私は容易に想像つくから。
「…………」
 でも、彼はいつもと同じじゃなかった。
 肩と頬とで携帯を挟んで話しながら、足早に職場である図書館へと向かう。
 もしかしたら、たくさんの人が今の彼を見て『いつもと違う』と感じていたのかもしれない。
 だって、普段ならたくさんの人に声をかけられている彼が、今日は誰からもされていなかったから。
 いつもと同じように話してはいるけれど、表情が違う。
 いつもよりずっと必死で……苦しそうで。
 ……ううん。
 あれは、きっと我慢してる顔。
 嫌なことがあっても、理不尽だと思っても、それでも文句を言わずに堪えている顔だ。
 『ふざけんな! 馬鹿か!』と、彼は仕事で言ったりしない。
 あれを言うのは、素のときだけ。
 それこそきっと、家族や友達の前でだけ見せる顔。
 だから……今の彼は、とてもがんばっている。
 堪えて、こらえて、精一杯理解して……飲み込もうとしている。
「…………」

 がんばってるよ。

 そうひとこと言ってもらえるだけで、救われることがある。
 だから私は、彼にとってのそんな存在でありたいと思った。

「ふふ」
「……ンだよ」
「ううん。なんでもないよ」
 いいことなんてなかった、と今日のたーくんは言うかもしれない。
 でも、私にはいい日……だったのかな。
 だって、たーくんが一生懸命お仕事してる姿を見ることができたんだから。
「今日のメシ、うまかったぞ」
「よかった」
 本当? なんて聞き返したりしない。
 だって、たーくんが言ってくれる言葉はどれも本当で本物だから。
 元気づけたい、なんて大それたことは言わないけれど、せめて少しでも笑ってもらえたら嬉しいから、今夜の夕飯は彼の好きなものを並べることにした。
 本当は、ひとつだけだったんだけど……作り始めたら、たーくんが好きなものばかりになっちゃったんだよね。
 もしかしたら、伯母さんにはすべて見透かされていたかもしれない。
 『あの子、ホント幸せモノね』なんて笑っていたから。
「……ふふ」
 少しでも元気が出たらいいな、って思ってしたことだけど……どうやら成功したのかな。
 頭を撫でてくれる手が止まって、まじまじ顔を見つめたたーくんが小さく笑う。

「サンキュ」

「っ……」
 目を合わせたままのひとことで、思わず目を見張る。
 こんなふうに感謝されるだなんて、思いもしなかった。
 ……どうしよう……すごく嬉しい。
 だけど、もう泣いてしまわないように小さく首を振る。
「どういたしまして」
 私らしい笑みを浮かべて、いつだって彼がこんなふうに笑ってくれるように“私”を保ち続けたい。
 彼にとって、少しでも力になることのできる存在でいられますように。
 顎に触れた手が後頭部へ回り、引き寄せられるように唇が近づいた。


2012/09/19


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