「……あー……ねみー……」
この時間にはふさわしくない、ガチャンという大きな音とともに玄関が開き、続いて……どさっという音が響いた。
時計を見ると、23時半を少し回った所。
……今日はまだ早いほうかな。
なんて思っている自分が、少しだけおかしい。
「お帰りなさい」
「……あ? ……なんだ、まだ起きてたのか?」
「うん」
いつもと同じ、毎回繰り返される会話。
果たして、彼は覚えているだろうか。
………。
……いないと思う。
「お水、飲む?」
「氷」
「ん。入れるね」
相変わらず、豪快にその場へ寝転がったままの彼を覗き込むようにすると、案の定な返事が来た。
キッチンへ回ってからグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを注ぐ。
まるっきり、いつもと同じ行動。
ふと見ると、だるそうにしながらも、やっぱり彼はいつもと同じダイニングの椅子へ座っていた。
「今日は、誰に送ってもらったの?」
「あー……和泉」
「……和泉さん?」
「そ。俺と違って、デキのイイかわいい妹が居ンだよ」
「羽織だって、かわいいよ?」
「デキはよかねーだろ」
「……もう」
彼の前に座り、グラスを差し出す。
すると、案の定まず1杯それを飲み干した。
「今日は、瀬尋先生も一緒だったんだよね?」
一緒に持ってきたペットボトルから新しく水を注いで、彼を見る。
――……と。
「……え?」
飲もうと掴んだグラスをそのままに、たーくんが私を睨んでいた。
「……たーくん……?」
「なんで、そこにアイツが出てくんだよ」
「だってそれは――」
「あのな。俺は別に、アイツと好きでツルんでるワケじゃねーんだぞ?」
……うーん。
たーくん、今日はいつもより回るのが早いなぁ。
完全に目が据わってるのが、その証拠。
いつもは、こうして話をしだして……30分を少し過ぎたころかな?
そのあたりで、機嫌悪くなるのに。
……そういえば、今日は新しくできたカラオケに行くって言ってたっけ。
もしかしたら、そこでまた飲みすぎたのかもしれない。
「……っはー……たくよー…。どいつもこいつも、祐恭祐恭って……アイツはそんなに偉くねーっつの」
「……またそんなふうに……」
「いーか? アイツはな、基本的に馬鹿なんだよ。馬鹿」
「もう……」
グラスの水を半分まで飲み干してから、カラカラと揺らして音を立てる。
半分椅子に腰かけてるだけだから、ちょっと不安定。
……引っくり返ったりしないでね……?
椅子の上に片膝を立ててあぐらを掻いている彼に、苦笑が浮かぶ。
「……ンだよ」
「ん?」
「さてはアレか。お前までアイツがイイとか言い出すのか?」
「……え?」
「あーもー、マジで勘弁してくれよなー。……なんで、俺ばっかり……」
ぶちぶちと、グラスを見つめながら彼が独り言めいたことを口にした。
……うーん。
今日は、いつにも増して愚痴が入ってるような……。
シラフのときはこんなこと言う人じゃないから、ついつい聞いちゃうんだよね。
たーくん、人がいいんだよね……ホントに。
なんだかんだ言っても、ちゃんとその人のことを考えていて。
どんなときであろうと、困ってるなんて電話が来たら、駆け付けてあげるタイプだし。
……ちょっと前も、夜中だっていうのに知り合いの人が車をぶつけたって電話が来たとき、すぐに行ってあげたんだよね。
ここから少し時間のかかる、山の上だって話だったのに。
たーくんは、優しい。
瀬尋先生や羽織にだって……そうだし。
「なんだよ」
「たーくん、瀬尋先生のこと好き?」
「……は?」
机に両肘をついて顎を乗せると、自然に笑みが漏れた。
毎回、決まって問うこと。
……だから、やっぱり答えも毎回変わらない。
「馬鹿言ってんじゃねーよ。……なんで俺が」
け、と悪態ついてそっぽ向いた彼に、小さく笑いが出た。
どうして、いつもまったく同じなのかなぁ。
……なんて、覚えてないからっていうのが1番の理由なんだろうけど。
「じゃあ、羽織は?」
「別に。うるせぇ妹」
「でも、かわいいでしょ?」
「かわいかねーよ」
ああ言えば、こう言う。
まさに典型。
酔っているときの彼は、普段とあまり変わらないようでいて、かなり違う。
本人はそこまでわかってないみたいだけど、だからこそ私にはそれが不思議だった。
普段から、饒舌ではある。
だけど、こんなふうになんでもかんでも、包み隠さずぺらぺら喋るようなことはない。
でも――……だから、楽しい。
……なんて言ったら、きっとたーくん怒るだろうけれど。
「それじゃあ……私は?」
にこにこと微笑んだまま、今までとまったく同じトーンで聞いてみる。
すると、大抵何をしていても動きを止めて、私を目だけで見てくるんだ。
……ほら。
今だって、そう。
グラスに口付けて飲もうとしてたのに、ぴたっと止めて、私の反応を伺っている。
…………ずるい、って言われるかもしれない。
だけど、私はこの質問……結構好きなんだよね。
だって、普段とはまったく違う、たーくんらしい反応見せてくれるんだもん。
「…………」
「……ん?」
グラスをテーブルに置いた彼が、頬杖をついて私を見つめた。
その眼差しは、心なしか潤んでるようにも見える。
「葉月は、俺のことどう思ってる?」
「っ……え……」
思ってもなかった反応。
……ううん。
だって、これまではいつだってこんなふうに切り返したりしなかったのに。
困ったように眉を寄せて、『別に……普通』とか、そんなふうに言葉を返されるだけだったのに。
……なのに、こんな。
ニヤっと意地悪く笑いながら見返されるなんて、初めて。
「……えっと……。……わ、たしは……」
たじたじ。
情けなくも、頬が赤くなる。
……うー。
これまでは余裕がちゃんとあったのに、ここに来て急に消えちゃったみたい。
心細いとかいうよりも、ずっとずっと……気恥ずかしくて、どきどきする。
……何を期待してる、んだろう……。
ううん。
それはむしろ、私のほうなんだと思うけれど。
「……好きだよ?」
どう言おうか迷ったものの、結局はストレートに飾らない言葉が出てきた。
だけど、彼はそれを聞いてただ『ふーん』と言うだけ。
……まだ、何か考えているようにも見える。
「んじゃ、どンくらい好き?」
「え」
「俺のこと。好きならモノにたとえてみ」
「……えぇ……?」
こんなふうに続けられたのも、初めて。
というか、まともに好きなんて言うのも……なんだか久しぶりだ。
…………。
……うぅ。
そんなふうに、ニヤニヤしながら見ないでほしいなぁ、もー。
すごくすごく、居心地が悪い。
「……どれくらい、って……」
また、随分と曖昧で困る質問をされたものだ。
……いつもだったら、私が言う番なのに。
まぁもっとも、酔っているたーくんに面と向かって好きとかどうのとかって言われたことは、一度たりともないんだけどね。
「……んー……」
「早くしろって」
「うー……。……んー……そうだなぁ……」
とんとんと指で机を叩いていた彼が、少しだけ面倒くさそうに眉を寄せた。
……この質問って、結構難しいんだね。
答える立場になって初めて、わかった気がする。
「……私の人生を表すくらい、かな」
適当な言葉が見つからなくて、なんだかヘンテコな答えになった。
でも、実は言ってみてこれが1番しっくり来ているような。
ある意味、心地がいい。
「……人生?」
「うん。私がたーくんを好きな気持ちっていうのは、たとえるならば……『もの』じゃないの。どんなものにも収まる大きさでも形でもないから、いつだって形や大きさを変化していく、そういうもののほうがぴったり来るかな、って……思ったんだけど」
……ヘンかな?
まじまじと私を見つめたまま話を聞いてくれている彼に首をかしげると、思わず苦笑が浮かんだ。
……なんだか、私らしくない感じ。
こんなふうに、ぺらぺらと喋ったりするなんて。
――……でも。
「……そっか」
「っ……」
「大層大事に思われてんだな」
途端、柔らかく微笑まれると同時に大きくうなずかれて、瞳が丸くなった。
それを見て、なぜかわからないけれど、涙腺が緩む。
……わ。
なんか……泣きそう。
嬉しいっていうのはもちろんあるけれど、それ以上の気持ち。
すべて丸ごと受け入れてもらえたっていうか、なんていうか……。
とにかく、幸せでいっぱいになる。
「……よし」
「え?」
「んじゃ、納得できたから俺の話も聞かせてやる」
「……ホント?」
「おー」
ぐいっとグラスの水を飲み干した彼が、音を立ててテーブルに置いた。
途端に浮かべる、なんともいえない自信に溢れた笑み。
いかにも彼らしいそれが、つい笑みを誘う。
「全部許せる相手。……それがお前だ」
「っ……」
いきなり、雰囲気が一変した。
ぞくっと鳥肌が立って、彼の表情も変わる。
……なんて色っぽい顔をする人なんだろう。
色香というか、男っぽさというか。
なんとも形容しがたい独特の雰囲気に、一瞬呑まれそうになった。
「好きとか嫌いとかそーゆー問題じゃねーんだよ。……いいか? イイことも悪いことも、好きなこともヤなことも、何もかも全部。どんなことされてもなお……って思える相手が、葉月。お前なんだよ」
言葉の端々に感じる、温かさ。
それは、決して比喩なんかじゃなくて。
「いっぺんしか言わねーからな。……ちゃんと覚えとけよ」
「……ん」
グラスの底に残っていた水を飲み干した彼を見つめたままでいたら、心も、手も、頬も……何もかもが、身体の奥底からじんわりと温かくなっていたのに気づいた。
「…………」
彼がくれた言葉に、丸ごと引き込まれた。
……チカラ。
まさに、言葉のチカラというものを、実感する。
そして――……彼の、私に対する大きくて優しい思いも。
私のすべてを、まるごと肯定してくれる人。
小さいころからずっと彼に抱いてきたものは、やっぱり間違いなかった。
「……俺だって、これでもがんばってんだぞ?」
滲んだ涙を指先でぬぐったとき、不意に彼が声のトーンを落とした。
「仕事でも、しょっちゅうパシられんし」
「……そうなの?」
「そーなんだって。……つーか、館長はホントに自分で動かなすぎなんだよ。俺ばっか、教務課とか本館とかに行かせてよー……。そりゃ、俺が1番若いし男だってのもあんだろーけど」
話は飛んで、仕事の方面に方向を変えた。
雰囲気やこれまでの内容すべてがぱっと変わるのが、酔っているときの彼の特徴。
……実は、話の内容は結構飛び飛びで、支離滅裂な部分もある。
「でも、間違いなくアレ課長が怖いからなんだよなー。まぁ、気持ちはわかんだけどよ。俺だって苦手だし」
あのオバちゃん、話し出すと止まんねーんだもん。
新しく注いだ水に口付けながら、大げさにため息を漏らす。
……なんか、苦手な先生のところに当番で行かなきゃいけない男の子みたい。
髪型や服装が大分緩くなっているせいか、ふいに幼く見えた。
「……あ?」
机に伏せるようにして姿勢を崩していた彼の、頭。
ほんの少し腕を伸ばしてみると、やっぱり手が届いた。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
「たーくんが、がんばってるの……ちゃんと知ってるから」
よしよし、とまるで小さな子を誉めてあげるときのように。
手のひらいっぱいを使って頭を撫でてあげると、ちょっとだけ不満そうな顔を見せた。
……でも、それは一瞬。
すぐに、照れくさそうな笑みを浮かべる。
「……そっか」
本当に小さなひとこと。
だけど、私にとってそのひとことは、限りなく大きい。
……たーくんって、かわいいんだよね。
だから、ついついいろいろ聞きたくなっちゃうんだけど。
それに――……だから、こんなふうにどきどきさせられるんだ。
自覚してないから、余計に罪深いと思うけれど……どうだろう。
「……優人のヤツが、さ」
「え?」
「イチイチ俺に、昨日はどーだったとか、週末はどーだとかって予定を吹き込んで来るんだよ」
「菊池先生が?」
「そ」
話はくるくると変わって、今度は菊池先生のことへ。
今日はまだ木曜日なんだけど、夕飯を食べるついでに一緒に飲む約束をしたらしくて。
聞いていたのは、菊池先生と瀬尋先生と……あとふたりのお友達。
その内のひとりはさっき出てきた和泉さんって人だけど、もうひとりは……今日のところは、もう出てこないかもしれない。
「アイツさ、ホントに好きなんだよな。……自分ひけらかすのが」
「そうなの?」
「そーだぞ。びっくりするっつーの。今日だって、昨日はコレを食ったから勢いが違ったとか、あのラブホにはアレがあって面白かったとか。そーゆー情報はいらねーっつの」
ぴたり。
つい、いつもと同じ調子でうなずいていただけに、一瞬何を言われたのかわからなかった。
……えっと……。
そ、その手の話っていうのは……その………や、やっぱり、ソッチ系なのかな。
一瞬口元が引きつるのがわかって、返事が遅れた。
――……途端。
「あ? ……なんだよ。聞きたいのか?」
「え!?」
彼はどうやら、私がそこに疑問を抱いたと思ったらしい。
ふいに顔を上げたかと思いきや、顎に手を当てて何かを考えるような仕草を見せた。
「まぁ、お前が聞きてーなら、別に話してやらなくもねぇけど」
「え、い……いいよそんな。気にしないで」
「……ふぅん?」
がしっ
「っ……!!」
「なんだ。やっぱお前、このテの話好きなんだなー。んじゃ、来い。……俺がきっちり教えてやるから」
「いっ……いいったら! ねぇ、たーくん! い、いらなっ……!!」
「んじゃ、3次会は俺の部屋だな。……あ。別にお前の部屋でもいーけど?」
「えぇ……!?」
にやっと、それはそれはいたずらっぽく笑ったかと思った途端。
急に手首を掴まれて、そのまま引っ張られるように連れて行かれる羽目になった。
……ちょ……ちょっと待って……!
どうして今日はこんなに行動的なの?
普段と同じはずが、普段とはまるで正反対。
だって今日は、なんだかすごく精力的で、まだまだ寝てしまいそうにないんだもん。
……うー……。
いつもなら、ダメだって言ってもソファに横になっちゃうのに。
…………。
……もしかしたら、今日に限っては私のほうが先に寝てしまうかもしれない。
たーくん、話すのうまいんだけど……でも、どれくらいの時間になるかわからないのが、タマにキズなんだよね……。
「ほら、行くぞ」
「っ……もう」
引っ張られるまま階段を上がるものの、正直、まだ台所の片づけがあって……。
そしてそして、電気も付けっぱなしだし。
――……だけど。
「早く来いって」
「……うー……」
ものすごく楽しそうに私を見るたーくんを見ていたら、何も反論はできなかった。
……こんなに楽しそうな顔、普段はあんまりしないんだよね。
そのギャップが、少しおかしくもあり……そして、やっぱり嬉しくもあるんだけど。
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