「はー……。疲れたね」
「……ですね」
 苦笑を浮かべた純也さんとともに乗った、エレベーター。
 扉が閉まると同時に、思わずため息が漏れる。
 今日は、帰り際になって大量の仕事を押し付けられた。
 ……いいか?
 『任された』んじゃない。
 アレはもう、完全に『押し付けられた』ものだった。
 しかも、だぞ?
 しっかりと帰り支度を整えて、鞄まで手にしたというのに。
 ……なのに、そんなときになって『あ、ごめん。コレ頼まれてくれる?』なんて、おかしいとしか言いようがないだろう。
「ま、今日の疲れは今日のうちに」
「ですね」
 開いたドアから身体を滑らせて、ひと気のないマンションの廊下を進む。
 今日は、純也さんがメシをご馳走してくれると言うので、お言葉に甘えて彼の家までやってきた。
 独り身には、この手の誘いが非常にありがたい。
 ……なんせ、今日はまだ普通の日で。
 金曜日という華のある日は、まだ遠いから。
「あ、そういや今日の昼メシうまかったなー」
「なんでも、風邪で寝込んでたオヤジさんが復帰したとか言ってましたよ」
「……あー、なるほど。やっぱ、年季が違うよな。あの店のオッサン」
「確かに」
 ガチャガチャとこちらを向いたまま鍵を開け、ドアノブに手を置く。
 ――……が。
「っ……なんだよ……」
 ガッチャンとひときわ大きな音とともに、開くはずのドアがつかえた。
「……ンだよ。こんな日に限って、ロックしやがって」
「まぁ、最近物騒ですしね」
「……アイツに会ったら、泥棒の方が災難だ」
「いやいや、それはないでしょ」
 肩をすくめてチャイムを鳴らした彼に、苦笑を浮かべる。
 ……でも、もしそんなことがあっても……彼女は本気で打ち負かしていそうなイメージしか湧いてこないんだが、それはどうしてだろうか。
 …………。
 強いもんな、絵里ちゃん。
 ふと、あまりにも凶悪なイメージが湧いてしまい、自然に首を振っていた。
「ったく。なんだよ、珍し――……」

「おかえりなさいませ、御主人さまっ」

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 このとき初めて、俺は『時間が止まる』という現象を目の当たりにした。

 パタン

「…………」
「…………」
「見た?」
「……見ました」
「…………」
「…………」
「……何かいたよな」
「…………いましたね。明らかに」
「………………」
「………………」
「……アレ……なんだった?」
「いや、なんか……あまりにも……想像しがたいと言うか……」
 ――……などと、ぼそぼそ会議を開き始めた途端。
「こらぁ!! なんで閉めるのよ!! もっと喜びなさい、馬鹿!!」
「うを!?」
 ガチャッという音とともに、ものすごい形相の女の子が出てきた。
「っわ!?」
「馬鹿かお前は!! つーか、廊下に出てくるな!!」
「ちょっと! 何するのよ!!」
「それはこっちのセリフだ! お前なんだその格好は!!」
「いいじゃない、別に! 今流行ってるのよ!」
「ンな流行に便乗するな、馬鹿!!」
「ッ……るさいわね……!! 人を馬鹿馬鹿ってアンタは!!!」
「ぐぇ!?」
「いーから、とっとと入りなさい! っていうか、むしろ『萌えろ』!!」
「は……ぁ!?」
 顔を覗かせた絵里ちゃんを、玄関へ押し込めた純也さん。
 だけど、なんか……違和感ありまくりというか……不自然極まりないというか……。
 ……いや、だってさ。
 やっぱ、おかしいだろ。
「…………」
 なんだ? この風景。
 ていうか、彼女の……この格好。
 …………。
 ……そういやさっき、なんだか恐ろしいことを口走ってたよな。

 『おかえりなさいませ、御主人さまっ』

 ありえないほどの笑顔で、まるで語尾に『きゃぴっ』とでも付いていそうな口調で。
 ……あんなの、初めて見た。
 愛想とか、そういうのとはレベルが違う。
 本当に、雲泥の差というか……恐怖の前兆というか……。
「……それじゃ俺……この辺で」
「ちょっと待ったぁ!!」
「うわ!?」
 純也さんがネクタイをぎりぎりと締められて捕まっている間に、逃亡を図ろうした途端。
 まるで俺のその行動を見透かしていたかのように、彼女が俺の背広を掴んだ。
「ダメよ、祐恭センセイは帰っちゃあー」
「なっ……んでだよ……! だってほら、俺関係ないし!」
「とんでもございませーん!! めちゃめちゃ関係ありまくりです。逃げたらダメ。……むしろ、おいしい思いできないわよ?」
「いや、いらない」
「即答しないでよ!!」
 くふ、と何かを企んでいるように笑った彼女へ、真顔のまま首を振る。
 だが、やっぱり彼女は俺を解放してくれるという様子がなかった。
 ……嫌だ。
 絶対何か危険なことが待ち受けているに違いない。
「御主人様の、おかえりでーす」
 にっこり笑って俺たちを玄関へ押した、彼女の猫撫で声。
 それがまるで、死刑執行の始まりを告げるかのようで、思わず純也さんと顔を見合わせる。
「……勘弁してくれ……」
「なんだこれ……」
 振り返った先にいた、にこにこと笑ったままの絵里ちゃん。
 ――……いや。
 今、俺たちの目の前にいるのは絵里ちゃんではなく――……俺たちの知らない『メイド』に違いなかった。


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