始まる。
何もかもが、変わる。
「…………」
いつもと……うん。
昨日とまったく同じように起きて、まったく同じように立ったこの場所。
だけど、すべてが今日から変わるのは明らかだった。
目に見えて、わかる。
手に取るように、すべてが。
……だからこそ、ワクワクしてたまらない。
ドキドキして、少し苦しい。
でも。
「………………」
どうしたって、浮かぶのは笑み。
間違いなく、喜んでる。
だって、嬉しいから。
すごくすごく、楽しくて仕方ないから。
『子ども』だって言われるかもしれない。
だけど、それでも私は満足だった。
「ここ、使っていいから」
彼がそう言ってくれたのは、今から1週間ほど前だった。
なのに、まるで昨日のことのように思えるのは、これまでの日々が充実して嬉しいことの連続だったからに違いない。
「……あ、でもっ……!」
「いいんだよ。……一緒に住むんだから」
「っ……」
これまでは、沢山ではないものの、彼の物が入っていた寝室のクロゼット。
だけど、両扉が開かれた中にはがらんとした空間しか広がってなかった。
数日前までは、確かに彼のバッグや弓道関係の物が入っていたのに。
……私の、ため……?
まるで『当然だろ?』と言わんばかりに笑った彼を見て、瞳が丸くなった。
「今日からは、ここは『先生の家』じゃない。『俺たちの家』なんだよ?」
「……それは……」
「だから。それに、実際はいくつも使わないんだよ。もともと、大して荷物があるワケでもないし」
そう言うと、彼はその隣にあったクロゼットを開けた。
……確かに。
見ると、そこには変わらず彼の荷物が。
スーツやネクタイはもちろん、あの、弓道関係の道具まで。
確かに、決して狭そうではないものの、やはりそれなりに詰まっている感があって。
だからこそ、先に申し訳なさが浮かぶ。
「……言っとくけど」
「え?」
「俺がここに荷物しまったのは、単に面倒臭いからだよ?」
「……面倒……?」
「そ。正直、イチイチどこに何をしまって……とかやるの、苦手なんだよな。忘れっぽいし」
「……そうですか?」
「そうだよ? だから、自分が普段開けそうな場所に荷物置いてるんじゃないか」
まるで私の考えを先読みしたかのように、彼が壁にもたれた。
……なるほど。
確かに、言われてみれば彼の荷物は、この部屋とせいぜいリビングぐらいにしか置かれていない。
ほかにも幾つか部屋が空いてるにもかかわらず、だ。
…………。
……そういえば、こう見えて結構……めんどくさがりさんだった気が……。
「……何?」
「え!?」
「いや、今なんかよからぬことを考えたような気が……」
「ち、違いますよ!」
すっと細まった瞳を見て、慌てて両手を振る。
だけど、そんなことをしたところで『そう?』なんて彼が素直に信じてくれるはずもなく。
……というか、確かにその……ま、間違ってはないというか……。
「ねぇ、羽織」
「っ……う……!」
「……どうした?」
「や……あの、なんか……その……。……ど……どきどきして」
「……なんで?」
「え! だ、だって……! そんな……急に、名前呼ばれると……」
高校を卒業して、まだひと月しか経っていない。
だけど、冬女の制服を着てる子を見ると、なんだか『懐かしい』とさえ思っている自分もいて。
早くも、『私もそうだったな』なんて過去を見ているような自分が、少しおかしかった。
――……卒業式のあの日。
彼が私に宣言したように、その日からがらりと雰囲気が変わった。
もっとも大きな原因は――……呼び方。
『羽織』
ことあるごとに、彼が私の名前を呼んでくれる。
最初は、どうしてもやっぱり慣れなくて。
わたわたと情けなくも顔が赤くなることが多かったんだけれど、そのたびに彼は、ひどく楽しげに続けて呼んだ。
……でも、違うってわかったのはいつだったかな。
どんなときでも、彼が私の名前を口にするときは、柔らかい眼差しが一緒だったって気付いたのは。
……愛しげに、口ずさむように、呼ばれる名前。
彼にもらえる『自分だけ』の特別。
それはやっぱり、何度体験しても嬉しくてたまらなくて。
気恥ずかしさも伴って、やっぱり……今も少しだけ照れちゃうんだよね。
「で?」
「わっ!?」
にまにまとひとりで楽しんでいたら、いきなり彼の顔が目の前にあった。
なぜだか知らないけれど、真顔。
……こ……怖いくらい、真剣。
思わずぴったりと壁に背をつけると、当然のように彼が顔のすぐ横へ手のひらをついた。
「……俺のことは?」
「ふぇ!?」
「……ひどいな……。せっかく俺は名前呼べるように敢えて機会を作ってるってのに。……どっかの誰かさんは、むしろ逆に呼ばないで済むようなやり取りしてるんだもんな」
「えぇ!? ち、ちがっ……!」
「それじゃ、呼んで?」
「……ぅ」
首を振った途端間髪入れずに笑みを向けられ、また口が閉じた。
……なんで、そんなに楽しそうな顔をするんだろう。
ああもう。
なんだか、やっぱり『してやられた』って感じがしないでもない。
……だけど、確かに……言われてみれば、事実私はあんまり名前で呼んでなくて。
ついつい、前と同じ『先生』って単語が口から出てしまいそうになるから、それが少し厄介だった。
だって、少しでも彼を見ながら『せ』なんて言いかけたが最後、ものすごく瞳を細めて、ものすごく不機嫌そうになるんだもん。
……うぅ。
わ、わかってるんだよ? 頭では、確かにはっきりと!
だけど、長年のクセといか、なんというか……。
うー……。
ついつい、言い訳じみちゃうのが難点だ。
「……う……」
「何? 呻き?」
「っ……違います」
「名前はどうした?」
「もぅ……」
こういうときの彼は、まるで『拗ねてる男の子』さながら。
こちらの出方を伺っているかのように、まじまじと瞳を見つめる。
そこには、やっぱり『なんでそうなんだよ』と言っているような色があった。
「祐恭さん」
「何」
「……もぅ。なんで怒ってるんですか?」
「別に怒ってない」
「で――……っ……!」
「……怒ってないよ? 俺は」
「っ……」
吐息交じりに囁かれ、思わず喉が鳴った。
数センチの距離。
唇が触れるか触れないかのわずかな距離を残して、彼が私の肩を掴んだ。
後ろには、壁。
元々逃げるつもりなんてまったくなかったんだけれど、それでも……こうなるとは、思わなかった。
……なんて、それはもしかしたら、自分の嘘なのかもしれない。
本当は、いつだってこうしてほしいって思っていたんだから。
だって、やっと一緒になれたんだもん。
ずっと……別々で、ワザとでも違うことを示さなければならなかったんだから。
恋人じゃない、ただの『教師と生徒』。
見ぬフリをして、声をかけてしまいそうになる自分を必死に押さえたこともあった。
学校では、まるで他人のように。
なんでもない関係を偽って。
だからこそ、悔しくてつらい思いもした。
……だけど。
だけど、今は違う。
手を伸ばせば彼がそこにいて、すべて何もかもが手に入る。
……自惚れだと、傲慢だと怒られても、仕方がない。
だけど、それでも。
今、ここにあるのはすべてが真実だから。
だから、ずっと――……普通の恋人同士ができるようなことを、私も……したいと思っていたから。
準備や自室の整理などもあって結局こうして一緒に住み始めたのは、卒業式から随分経ってからだけど……でも、そんなの関係ない。
だって、今は確かにともにあるから。
彼が家へあいさつへ来てくれたのは、もう1ヶ月ほど前になる卒業式の夜だった。
両親を前にして、きちんとした正装と態度でしてくれた真剣な話。
その隣に、彼と同じように床へ膝を付いて座り、ふたりを真正面から見る。
……あんな雰囲気は、初めてだと思う。
お兄ちゃんと葉月は、ダイニングへと移動してからそこでエールをくれたっけ。
「……えへへ」
思い出すだけでも、やっぱりまだ笑みが浮かぶ。
ううん、きっとこれからもずっと一生この思いは消えないんだろうな。
だって、あんなに想われてるって実感できて幸せじゃない人なんかいないもん。
……私、本当に幸せものだと思う。
罰が当たってしまいそうな程に。
「……何?」
「え?」
「かわいい顔してる」
「……そんなこと……」
「俺が言うんだから、そうなんだよ」
髪を耳にかけてくれた彼が、囁くように微笑んだ。
未だにやっぱり慣れないこと。
それでも、ものすごく嬉しくて、とけてしまいそうなほど自分が心湧き立つのも事実。
「……羽織」
ひどく愛しげに名前を呼ばれて、まっすぐ目を見れない。
だけど、それじゃダメ。
これは、与えてもらえた特別な時間だから。
……だから……大切にするの。
彼と一緒にいることができるようになったあのとき、私はそう決めた。
誓った、と言ってもいい。
毎日を大切にしよう。
どんな些細なことでも、時間でも、沢山喜ぼう。
沢山、幸せを感じよう。
……そう、決めたから。
「祐恭さん」
彼を見たまま名前を口にすると、自然に笑みが浮かんだ。
それを見て、彼も嬉しそうにしてくれる。
これが、幸せ。
私にとって、何に代えることもできない。
「……コレは?」
「え?」
彼の視線が、私から彼自身の手元へ移ったのを見て、自然にそちらへと顔が向く。
ポケットから何かを取り出した、大きくて私とは違う彼の手。
それが目の前までゆっくりと上がり、すくいあげた私の左手の薬指へと長い指が絡む。
「……あ……!」
彼が意図したことがわかり、慌てて片手を出していた。
輪が見えるように指先で持たれていたのは、紛れもなく私の――……指輪。
さっき、食器を片付けるときに外したのを彼が先に見つけたみたいだ。
「っ……!」
「これは、俺の仕事」
受け取ろうと、手のひらを上に向けた途端、緩く首を振った彼と目が合った。
柔らかな眼差し。
だけど、どこか鋭さもあって。
「……ん」
拒むなんてもちろん考えてなかったけれど、うなずいたとき、やっぱり頬が熱くなるのがわかった。
ずっとずっと、こうなる日を夢見ていた。
心の底から、願っていた。
……あの日。
この指輪を見るたび思い出すのは、あの、誓いの言葉を貰った光の満ちた教会。
いつか。
いつかきっと、そう遠くない未来に。
チェーンに通して首から下げるんじゃなくて、ちゃんと……本来の意味通りに身につけることができますように。
それだけを願って、夢見て、ずっと肌身離さず身につけていた。
……でも、それはあの日で変わった。
卒業式のあと、ふたりきりで過ごした化学室でしてくれた今と同じような儀式。
あのときのことは、雰囲気も何もかもすべて霞がかることなく鮮明に覚えている。
「…………」
彼の温かい手のひらが、左手を包むようにすくいあげた。
左の薬指へと、銀の輪がゆっくり通る。
プラチナ特有の、しっかりとした重さを感じる……コレ。
いったい何度、この薬指にはめることを思い描いてきただろう。
右の薬指は、大切な彼に贈られたときに。
そして左の薬指は――……結婚、するときに。
幼いころからずっと知っていた、特別なこと。
それがいつしか、自分も身に染みて感じることになるなんて。
……大人になったんだな、なんて我ながら少しおかしかった。
「お揃い」
「……あ……」
彼の指が離れた途端、すぐ目の前で微笑んだ彼が左手を見せてくれた。
「やっと、揃った」
心なしか安堵が交じっているような。
そんな……落ち着いた、しっとりした声。
「嬉しい……っ」
心底から漏れた言葉というのは、表情にすべて出る。
少なくとも、私はそう思う。
……だって、こんなに自然に笑みが漏れるのは、やっぱり彼が1番だから。
特別な人だと思う。
私の、すべて。
「……ん……」
ゆっくりと重ねられた唇は、今日だけで5度目の口づけ。
……ううん。
もしかしたら、もっとかもしれない。
ことあるごとに、彼は私のそばにいてくれる。
理由がなくても、触れていてくれる。
……キスを……くれる。
だから、一層離れられなくなるんだよね。
もちろん、離れるつもりなんて私はまったくないけれど。
それでも――……『幸せ慣れ』だけは、絶対にしたくない。
『幸せ』が当たり前になったら、いけない。
だから、どんなことにも感謝して、どんなことにも幸せを覚える。
それはすべてにおいての法則だと、以前誰かに聞いた気がしたから。
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