「……あーあ」
 いったい、何度目のため息だろう。
 せっかく天気のいい、この日。
 朝から、冷たくない爽やかな風と穏やかな天気に恵まれたというのに、彼は相変わらずハンドルに手を置いたまま呟いた。
「……せっっっ……かく、今日着ようと思ったのに」
 『せっかく』の『っ』部分を妙に伸ばしたかと思いきや、ちくりと痛い視線が飛んできた。
「……ご、ごめんなさい……」
 ……うぅ。
 これも、いったい何度目だろう。
 こんなふうに、しょんぼりと頭を下げたまま謝罪するのは。
「ったく。せっかくのハレの日なのに、これじゃダメだろ?」
「そんなことは……。……それに、あの……いいんですか?」
「何が?」
「だからっ! その……会場まで、送ってもらっちゃって」
 信号で停まったとき、そこにあった看板に目が行った。
 白い布が張られた板には、きれいな黒と赤の文字が並んでいる。
 なんか……大々的、だよね。
 お兄ちゃんのときも思ったけれど、自分のときともなると当然想いが違う。
 というか――……まさか、自分が主役になる日がくるなんて。
 スーツを着込んだ幾人もの人々がそちらを目指していくのが見えるけれど、なんだか、未だに実感が湧かない。

 『県立七ヶ瀬大学 入学式会場』

 そんな案内があちこちに立てられている道を、沿うように進んでいく車。
 ……もちろん、コレは彼の車だ。
 赤くて、いかにもって感じの雰囲気があって。
 当然のように、何人もの人々が振り返ったりしていた。
 実は――……卒業したあと、彼はこの車を1度整備に出した。
 ……というよりも、まぁ……正確には、『出された』と言うのが正しいかもしれないけれど。
 その甲斐があって、今では以前と少し様相が違っている。
 さすがにマフラー関係はほとんど弄られてないんだけど……見た目が、ね。
 彼の知り合いの整備士さんから、『お祝い』と称して施されたあと戻ってきたこの車。
 それを見たときの彼の表情は、正直――……今もまだ忘れられそうにない。
 ……でも、実はなんだかんだ言って、満足してるのは知ってる。
 だって、昨日も嬉しそうに洗車へ連れてってくれたから。
「……何?」
「え! ……あ、やっ……な、なにも」
 ちらっと見ていただけのつもりだったのに、どうやらいつの間にかまじまじと見つめてしまっていたらしい。
 瞳を細めて顔を近づけられて、ようやく気付いた。
 ……すでに、車が駐車されていたことに。
「っ……まぶし……」
 ドアから出た途端、眩しい日差しに瞳が細まる。
 広い駐車場が備えられている、冬瀬市の文化会館。
 まだ新しい建物は、いかにもという雰囲気があった。
 今日は、ここの大ホールで入学式が行われる。
 学生数が多いこともあって、毎年恒例らしい。
「……せ――」
「…………」
「っ……う……祐恭さん、のときもここだったんですか?」
「なんで、そこでドモるかな」
「ぅ。……気のせい……です」
 危うく、というかなんというか。
 ついつい、1ヶ月経った今でもたまに口に出てしまいそうになる。
 きちんとした、黒に近いグレーのダブルスーツ。
 そして、ワインレッドのネクタイ。
 ……そしてそして、真新しい白のワイシャツ。
 本当は、先日買ったばかりのシャツを着るはずだったんだけれど……昨日のお洗濯で、濡れた物と一緒に置いてしまったのが原因で、色が移ってしまったのだ。
 ……うぅ。
 散々言われたけれど、でも、結局買い直したんだよね。
 あの、薄ピンク色になったワイシャツは、今後……どうしようかな、って少し思いはするけれど、今は考えないことにする。
「もちろん、俺だってここでやったよ」
「……そうなんですか?」
「うん。大学からバスが出てね。……学部が違うのに、孝之と一緒に座った」
 レンガ調の石が敷き詰められている、建物の敷地内。
 そこは、私と同じようにリクルートスーツを着慣れていない新入生たちで、いっぱいだった。
 正装しているお母さんが一緒だったり、友達と一緒だったり。
 中には、腕章を付けてそんな新入生を案内している、先輩らしき人の姿も見えた。
「アレ、心理の先生だよ」
「え! どこですか?」
「ほら、あそこ。呑気に煙草ふかしてるオジさんの、隣にいる人」
 ひときわ大きな案内看板から入り口へ曲がったとき、不意に彼が肩を叩いた。
 顎と視線で示されたほうを見ると――……確かに。
 煙草を吸っている白髪の男性の横には、薄いベージュのスーツを着込んだ女性の姿があった。
「……先生、よく知ってますね」
「心理学基礎論、孝之の必修だったからね」
「そうなんですか?」
「うん。よく呼び出し食らってたから、覚えてる」
 ……なるほど。
 おかしそうに笑いながらうなずいた姿を見ていると、当時のお兄ちゃんの姿が目に浮かんだ。
 きっと、レポートの再提出とか、授業中寝てるとか……そんななんだろうな。
 どうして彼は、あんなにも国語以外の科目へは意欲が湧かないんだろう。
 心底不思議でたまらない。
 ……って、それを言ったら私も理数系は……と言われそうで怖いけれど。
「ていうか。今、『先生』つったろ」
「…………え」
「……無意識ってのはもっとも罪だね」
「っ……すみ、ません」
 『先生』って呼んだことすら気づかなかった。
 鋭く見られ、思わず口をつむぐしかできない。
 ……すみません。
 頭を下げると、小さくため息が聞こえた。
「そういや、今日は絵里ちゃん来てないの?」
「あ。絵里は午後からなんです」
「……あー……そうか。理学部、ね」
「はい」
 絵里とは学部が異なったため、入学式が行われる時間も違う。
 私と葉月が在籍する教育学部は、先に行われる。
 ――……ちなみに、田代先生はもう冬女に勤務してはいない。
 去年の段階ですでに決まっていたんだけれど、今年から大学へ戻ることになっていたらしいのだ。
 彼の大学はもちろん、神奈川学園大学。
 ここからは、車で10分程度の場所にある。
 そこで今年からは講師として教鞭を取るという話になっている。
「……え?」
 もう、すぐそこが入り口であり受付という場所まで来たとき。
 不意に、先を歩いていた彼が立ち止まってゆっくりと振り返った。
 ……その顔。
 それは何やら意味ありげな……だけど、優しい笑み。

「ご入学、おめでとうございます」

「っ……」
 低い、響きのある言葉。
 真正面から改めて言われ、瞳が丸くなると同時に喉が鳴った。
「というよりは……アレかな」
「え?」
「ようこそ。当大学へ」
「……え……?」
 丸くなった瞳が、さらに丸くなった。
 だけど、彼はただただ笑っているだけで、何も言ってくれない。
 ……『当』大学……?
 なんだか、それはまるで――……。

「ほぉ。初日から随分とまぁ大層なご身分ですな、センセイ」

「っ……!」
「こんなにお若いお嬢さんとご一緒とは。先生も隅に置けませんな。……いや。むしろ処分でしょう? 処分」
 驚いたように彼が振り返った先には、両手を後ろで組んでいる男性が立っていた。
 にこやかな表情と、白のスーツ。
 それがとても印象的で、だからこそ祐恭さんのバツが悪そうな顔が不思議なほどだった。
「え?」
「……こちらは……俺の先生でもある、理学部の宮代(みやしろ)教授」
 ひと息ついてから振り返った彼は、手のひらを上に向けたまま彼をそう紹介してくれた。
 彼にとっての、先生。
 ということは、もちろん……普段から何かと大学へ足を運ぶ先になっている、すごい人のこと。
「で、彼女は――」
「っ……初めまして。教育学部の瀬那羽織と申します」
 背を正してから慌てて頭を下げ、改めてにっこりと笑みを浮かべる。
 緊張からかなんだか情けない笑顔になったのは言うまでもないけれど、そんな私を見ても、彼は『よろしく』と微笑んでくれた。
「……しかし、珍しい」
「…………何がですか?」
「君が私をそんなふうに紹介するとは」
 『教授』なんて、ワザとらしくね。
 そう言ってから、彼は苦笑を浮かべた祐恭さんを見ておかしそうに笑った。
 当然、ソレに対して彼はまたバツが悪そうに眉を寄せる。
 『苦手なんだよな……』
 なんて、表情は明らかに物語っていた。
「しかし……よくもまぁ初日から堂々と彼女を同伴できますな」
「っ……それは、まぁ……」
「……ま。妬まれることは承知の上なんだろうけれど?」
「それはもちろんです。……というよりもまぁ、彼女は『学生』になったワケですしね」
 腕を組んでニヤニヤと楽しそうに笑う、宮代先生。
 顎にある白混じりの短いヒゲを撫でながら、くっくと楽しそうに口角を上げる。
 ……うん。
 なぜかよくはわからないけれど、どうしてか祐恭さんとカブってしまう部分が見える。
 一緒にいるからなのか、彼の目指す人だからなのかはわからないけれど……でも、不思議な感じだ。
「…………」
 でもそれ以上に不思議なのは――……当然、このふたりの会話で。
 ここまで、確かに祐恭さんに送ってもらった。
 だけど、それは彼が前々からそうしたいと言ってくれたから実現したわけであって、別に……他意はない、はずなんだけれど。
 …………でも。
 なんだろう、この妙な雰囲気は。
 まるで、私だけが取り残されてしまった気分でいっぱいになる。
「……おや、どうかされたかな?」
「え?」
 聞き耳を立てていたわけじゃないんだけれど、講義とか研究室とかって意味のわかる言葉もあれば、まったくわからないものもあって、いつしか眉を寄せてしまっていたんだろう。
 そんな私を見てゆっくりと身体ごと向き直ってくれた宮代先生が、1度だけ祐恭さんを見てから、にっこり微笑む。
「それとも……お気を害されてしまったかな」
「っ……そんなことは……!」
「いや、いいんだよ。そりゃあそうだ。いくら、彼がウチの専任講師になったとはいえ、あなたにとって特別な変化をもたらしたわけでもないんだ」
 すまないね、と首と手を一緒に振った宮代先生が、祐恭さんの肩を叩いた。
 それに対して彼はというと、困ったように笑いながらも……うなずくだけ。
「……え……講師……?」
 聴きなれない言葉がつい口から漏れた。
 そんな私を見て、宮代先生はどうやら違う意味で取ったらしい。
 苦笑を浮かべて、ゆっくりと首を横に振った。
「彼がこれまで発表してきた論文とその掲載数から考えれば、准教授であるのが妥当なんだけれどもね。……まぁ、今年1年は我慢していただこうかな」
 残念ながら。
 最後にそう付け足した宮代先生が、再度祐恭さんを見てから『ホントにすまないな』と小さく囁いた。
 ……ちょ……っと、待って?
 ええと、それって……その。
 果たしていったい、私が今思っている、抱いているこの大きすぎる疑問は――……どうすれば。
「……え?」
 なんて、眉を寄せた瞬間。
 ようやく宮代先生から身体ごと私へ向き直ってくれた祐恭さんが、背を軽く正して、息を整えてから口を開いた。
 ……どんな言葉が出てくるのか。
 正直それが怖かったんだけれど、思いに反して、貰えたのはさっぱりしたひとことだけ。

「俺も、大学に戻れたんだよ」

 そう言った彼の顔は、どこか照れくさそうで……だけど、心底誇らしげで。
「…………」
「…………まぁ……」
「…………」
「……そういうことなんだけど」
 情けなく丸くなったままの、瞳と口。
 そんな私がようやくまともなアクションを取れたのは、彼が苦笑を浮かべて数秒経ってからだった。
「ッえぇえええ……!?」
 周りの状況など微塵も気にすることができず、思いきり叫んでしまったのは言うまでもない。


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