彼曰く、『驚かせようと思ったから』らしい。
……でも、そんなこと言われても、正直まだ受け止められない。
だって、彼も田代先生と一緒で、すでに冬女での離任式を終えて……晴れ晴れとした顔でここに立ってるなんて言うんだから。
「…………」
離任式があったのは、春休みに入る終業式のあとだったそうだけど……それならそうで、せめてひとこと教えてくれればよかったのに。
だって、そうすれば私だって……お花のひとつやふたつ、持って駆けつけたのに。
……うぅ。
なんだか、すごく今になって後悔する。
そういえば、ここ1週間まったく高校の話が出ないな、なんて思ってたんだよね。
出てくるのは、すべて大学の話だけで。
携帯で話しているときも、これまでの雰囲気とはまったく違っていたし。
……もっと早く気付けばよかった。
でも、そう思うからこそやっぱり後悔する。
だって、どう考えても……まるで夢の延長のような話。
いまいちどころか、まったく現実味が湧かなくて、眉間の寄りは少しまだ取れない。
「……はぁ」
結局、宮代先生と一緒になったあと、彼は彼で違う席に着かなきゃいけないということから、式典の最中は葉月を探し出して一緒に座ることになった。
彼女は彼女で、朝お兄ちゃんが送って来てくれたらしいんだけど、さすがに一緒に出席することはしなかったらしい。
……まぁ、彼らしいと言えばそうなんだけど。
「…………」
そんなワケで、現在。
私は、彼を待つべく建物の外に出てぶらぶらと手持ち無沙汰な状況。
葉月は、さっきお兄ちゃんが迎えに来て一緒に帰って行っちゃったし。
……とほほ。
なんだか、すごく切ない。
着慣れないスーツに袖を通しているからっていうせいもあるんだろうけれど、妙に心細くて。
大学名入りの分厚い封筒を抱えたまま、冷たいコンクリートの建物を見上げながら壁へ寄り添うように立っているしかできなかった。
結局、式典の最中も実はあまり真剣に話を聞けてなくて。
学長さんや諸先輩方のお話があったのは覚えてるんだけど、どうにもこうにも、頭の中が別のことでいっぱいで入らなかったんだよね。
……だからこそ正直言えば、不安。
だって、明日からはすぐ大学のオリエンテーションが始まって、その次の週からはいきなり授業が始まってしまう。
どこに何号館があるのかもわからないのに、さらに細かい何号室なんて部屋の場所はもっとわからない。
多少はお兄ちゃんが教えてくれるだろうけれど、それでも……やっぱり、不安には変わりなくて。
そこへきて、実は祐恭さんも大学での勤務になるってことを知った今、いろんな意味でパニックだ。
でも……そうなると当然今よりもずっと忙しくなるんだろうな……。
少しだけ寂しい気もする。
…………なんて、これまでに比べれば遥かに贅沢な悩みなんだけれど。
「……あ」
「お待たせ。……ごめん、遅くなったな」
手持ち無沙汰から、封筒の中身を取り出し始めたとき、ふいに肩を叩かれた。
「どうだった? 感想は」
「え? っと……んー……。がんばり、ます」
「ほぅ。実直な感想だね。よろしい」
まるで、『先生』さながら。
腕を組んでニヤっと笑った彼を見たら、こちらまでついおかしくなった。
「それじゃ、買出しでもして帰ろうか」
「あ、はい」
……買出し。
その言葉を彼が楽しげに囁いてくれたのが、やっぱり嬉しかった。
今までとは、言うまでもなく全然違う。
……実感したのは、あの日。
彼と正式に、こうして一緒に住めるようになった、数日前の午後。
「一緒に、買い物行けるね」
差し伸べられた手を握ると、とても温かくて。
穏やかな表情から、彼自身も喜んでくれていることが十分伝わって来た。
……あのときはてっきり私が卒業したことで『教師と生徒』じゃなくなったから、だと思ってた。
でも、違ったんだなぁ。
だって、今じゃもう彼自身も冬女に関わってないんだもん。
ある意味、『放免』でもあったんだ。
「……あ……」
「こうして歩くの、楽しみにしてたんじゃないの?」
右手を取って歩き出した彼が、こちらを向いていたずらっぽく笑った。
だけど、それは……仰るとおりで。
「……えへへ」
繋いだ手を見てから顔を上げると、自然に笑みが漏れる。
「これはこれは、准教授。おはようございます」
「っ……!」
いきなり背後からかかった、声。
当然まったく意識してなかったというのもあって、彼ともどもびっくりして足が止まった。
……でも……実際は振り返ってからそれ以上の驚きがそこには待っていたんだけれど。
「っ……あれ!?」
「いやぁ、初日だというのに随分と見せ付けてくれますねー。同伴出勤、ですか? ほほぉ、それはまた結構な御身分ですな」
「……っえ……!」
「それにしても、ナンだと思いません? 准教授。ここまでしてこの待遇と来たらもう……正直笑うしかないですよね」
そこまで一気にまくしたてた彼は、ハハハと乾いた笑い声をあげながらも表情はまったく動かさずにいた。
口元には微かに笑みこそあったものの、目だけはまったくと言っていいほど笑っていない。
……だけど。
そんなこと以上に、私たちが思いきり反応を示した理由。
それは間違いなく――……彼という人の存在だった。
「純也さん……ッ!?」
「田代先生……!?」
呼称こそ違えど、示す人はただひとり。
言うまでもなく絵里の彼氏さんであり、そして私が卒業した高校で祐恭さんと同じ化学の担当教師でもあった……田代純也先生、その人。
ダブルのスーツと、普段はここまで固められていない髪形だという違いこそあったものの、間違いなく、彼だ。
「なっ……どうしてここに……!?」
「ははは……はー……」
まるで、棒読みの如く。
口元をひきつらせて、疲れた顔の彼がため息をついた。
それはあたかも『いろいろあったんだよ……っていうか、かなりだいぶ』と言っているようで。
「…………」
「…………」
うなだれた彼を見ながら、私と祐恭さんとで思わず顔を見合わせたのは言うまでもない。
「それじゃ祐恭君。あとは頼んだよ」
ひどくきらびやかな笑顔とともに、純也は祐恭へきっぱり告げた。
時は、卒業式のあとに開かれた、謝恩会。
駅前のレストランで開かれたそこには、PTAやほかの教師も集まっていた。
受験を背負っていた第3学年を卒業させたとあって、担任だった教師陣の表情はどこか晴れやかで。
無論、羽織と絵里の担任であった伊藤と日永の両教諭も、無礼講とばかりにワインをがぷがぷ飲んでいるのが見えた。
「……え、あとっていうのは……?」
そんな中、車で来たこともあってか、ふたりはグラスこそ違えど中身は同じウーロン茶。
ときに『そんなもの飲んでちゃダメでしょ』なんて酔っ払いの声もあったが、今もなおそこだけは死守していた。
「……やっと……」
「純也さん……?」
「やっとなんだよ、やっと!! あーもー、俺、すげー気が楽になったー」
俯き加減にぐぐっとグラスを握り締めた彼が、ばっと顔を上げた。
その瞬間、祐恭は思わず瞳を丸くする。
……ここまで、晴れやかで伸び伸びとした表情の彼を見たことがあっただろうか。
ごくりと喉を動かしたとき、素直にそう思ったほど。
だからこそ、彼がいったい何を自分に任せようとしているのかが心配でもある。
「俺、春からは大学に戻るから」
「え? ……ええ、ですよね。おめでとうございます」
まばたきをしてから、しっかとこちらを見据えた彼に微笑む。
それは、彼がずっと望んでいたこと。
自分も研究馬鹿だとは思うが、恐らく彼もそうだろう。
以前、学会へ一緒に行ったときに見た熱心な態度で確信していた。
「だから――……絵里のこと、よろしく頼むな」
「え」
「いやー、結構しんどかったんだよなー。なんつってもほら、やっぱさ、家の中ならばまだしも、学校もだろ? アイツのことだから、学校内でも何かとんでもないことをしでかすんじゃ……なんて、結構気苦労があってさ」
……晴れ晴れした表情の裏は、それか……!
思わず、祐恭はひしひしと彼が伝えてくる『今後の苦労像』を我が身に置き換え、ごくりと喉を鳴らした。
「――……というわけだから、先生。ひとつよろしく頼むよ」
「いや、でもその……俺は……」
「いやいやいや。とんでもない。なんつってもほら、アイツ……もらっちゃったしな」
「……何をですか?」
聞いてはいけなかったのだろうか。
一瞬、そう考えてしまうほどに、彼の瞳がきらりと光ったのを見た。
間違いない。
今のは、『よくぞ聞いた』的な光り方だった。
「もちろん、理学部への入学案内だよ」
そのとき、純也は少しだけ表情を変えた。
それは、確かに今までと同じ晴れ晴れとした笑顔ではあるのだが――……心なしか、その瞳が潤んでいるように見えて。
遠巻きに、『俺と同じ苦労をせいぜい味わってくれ』とでも言わんばかりだったように見えた。
「…………」
それなのに。
……なぜ、今、目の前に彼が居るんだろうか。
無言というよりは、ただただ言うべき言葉が見つからない祐恭は、ひどく落ち込みを見せている……というより、諦めというかなんというか。
とにかく、いろいろな負のオーラを目一杯漂わせている彼を見たまま眉が寄った。
「……くぅっ……」
今、目の前で嘆いている彼は、果たして本当に彼なんだろうか。
数日前までは、それこそ大手を振って万歳三唱だったのに。
……なのに今では、すっかり打ちひしがれて、さも明日の灯りすら見えないかのように。
気が楽になった。
安心して研究だけできる。
少しでも離れられれば、家に帰ったとき少しは笑顔が増えるよ。
にこやかに、穏やかに。
彼は――……間違いなく自分にそう言った。
……だが、今は違う。
かつての明るさはなく、よろよろとした足取りは重たすぎてコンクリートですら沈んでしまいそう。
「…………」
「…………」
思わず、羽織と顔を見合わせながらも、やはり戸惑いは拭えなかった。
果たして、訊ねてもいいのだろうか。
……なぜ、これほどまでに彼が落ち込んでいるのかを。
「あの……純也さ――」
「……こえーよな……」
「え?」
勇気を振り絞って声をかけた瞬間、ぼそりと低い反応があった。
ぎぎぎ、と鈍い音が聞こえて来そうな、首の動き。
比例するかのように暗い表情の彼と目が合い、また、ごくりと喉を鳴らす。
「講師やってた、『平澤』って先生知ってる?」
「え? ……ええ……。まぁ」
一瞬、なんのことかわからなかった。
だが、すぐに思い当たる節があったため、首は縦に動く。
「……実はさ」
「はい」
「なんでも……無理矢理、出向させられたって話なんだよ」
「え」
無理矢理。
……しかも、出向。
その言葉を聞いて、思わず自分じゃないような声が出たのに戸惑った。
「…………」
「…………」
「……?」
――……ただひとり。
ひきつったふたりの間でそれぞれの顔を見比べている羽織以外は、それが何を意味するのか当然察知したわけで。
「……絵里ちゃん……ですか? もしかして」
「正確に言うと、おばあさまだけどな」
「……そんなに……そんな、人なんですか? おばあさまって」
「おばあさまはな、理事長とも県知事ともひじょーーーに親しい間柄の方なんだそうだよ? 瀬尋先生」
「っ…………そ……なんすか?」
「……そう」
ひきつった顔のまま、ひきつるような会話をしているふたり。
言葉に鋭く大きなトゲがあるのは、わかる。
……おばあさま。
その方はある意味、『無限大』を表す、権力という名の様々なものを手にしていると聞いた。
無論――……お孫さまである、絵里本人の口から。
「……っ……せっかく……!」
「え? 純也さん……?」
「せっかく……! せっっっかく、絵里から離れられると思ったのに……ッ……!」
これじゃ、逆に針のムシロじゃねーか……!
そんな彼の心の叫びが、痛いほど祐恭の胸に突き刺さったのであった。
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