「夕飯、何がいいですか?」
「……んー……そうだな。お任せ、が1番いいんだけど」
 所変わって、ここはショッピングモールの生鮮食品売り場。
 こうしてふたりで並んでの、大っぴらな買い物。
 ……これは、やっぱり嬉しい。
「しかし、純也さん……相当落ち込んでたな」
「……ですね」
 まるで、魂がどこかへ飛んでいってしまったかのような、カサカサした表情の田代先生。
 結局あの場で別れたものの、心配といえばもちろん心配で。
 たくさんの言葉をかけてはみたんだけれど、やっぱり彼の表情が晴れることはなかった。
 とりあえず、『准教授じゃない』ことも何度か祐恭さんが説明したけれど、それもきちんと伝わっているのかどうか……。
 ちなみに、田代先生は祐恭さんとは違い、有機合成化学の研究室への就任が決まっているそうだ。
 ……難しくてよくわからないけれど、簡単に言うと、仕事をする部門が別とのこと。
 うーん。
 私も、それぞれ自分の研究室を決める、なんてときになったら少しはわかるようになれるかもしれない。
「宮代先生の印象って……私、少し違ってました」
「そう?」
 ふと思い出した、宮代先生のこと。
 ほんの少ししか喋れなかったけれど、でも、祐恭さんに話を聞いて作り上げていた人物像とはかなり違っていて。
「……なんていうか、こう……紳士っていうか……」
「紳士ぃ……?」
「え? ……あ、でも。ほら、あんなふうにスーツを着て……」
 思い出すように喋りだすと、途端に彼が嫌そうな声を出した。
 と同時に、ものすごく眉を寄せて『それは違う』とばかりに首を振る。
「あんな格好、普段からしてるワケないだろ?」
「え? そうなんですか?」
「もちろん」
 なぜか、力説。
 うんうん、と力強くうなずいた彼は、手を組んで少しだけため息をついた。
「あの先生、実験してるクセに平気でびらびらのアロハとか着てるんだぞ?」
「え!? そ……うなんですか?」
「そう。しかも、研究室なんて無造作に劇薬劇物置きまくりだっつーのに、それ触った手でも平気で物を食いだすし」
「えぇー!?」
「……ほんっと、見てるこっちがヒヤヒヤする」
 あの人のせいで、何年寿命が縮まったか。
 そう言って大きなため息をついた彼は、何か嫌なことでも思い出したんだろう。
 一層顔をしかめて、深く息をついた。
「……まぁ、研究者ってのは根本的にズレてるからな。一般の常識なんてモンは通用しないし。……ある意味、箱入り娘みたいなモンか」
「……そ……うなんですか?」
「似たり寄ったり、かな」
 ある意味、と再び付け加えた彼はしばらく遠い目をしていたものの、ぱっと私を見てから頭を撫でた。
「……ま、そのへんの話は置いといて。とりあえず今は――…」
「っ……あ……」
「買い物が先」
 カートを押していた私の手を取って、彼がそこに手を置いた。
 もちろん、片手は……私の右手へ。
 ……相変わらず、祐恭さんって器用なんだなぁ……なんて、ちょっと思った。
「で?」
「え?」
「今日の夕飯は?」
 くすくす笑いながら彼の隣を歩き出したら、おかしそうに笑った彼が顔を覗き込んできた。
 ……最近、特に実感する。
 彼が……すごく優しい顔をしてくれるようになったことを。
 もちろん、これまでだって何度もこんなふうに買い物をしたことはあった。
 だけど、どこかで内心ヒヤヒヤしてて。
 仲良くお出かけ、なんてことは……ほとんどなかったように思う。
 ……でも、今は違う。
 こうして肩を並べて、寄り添うように歩くことだってできる。
 それこそ、手を繋いだままお店に入ることだって。
「…………」
 そう思うと……やっぱり、今の自分が本当に恵まれていて、幸せにどっぷり浸かっているんだなぁって改めて思う。
 ……しあわせ。
 口に出すまでもなく、思うだけで頬が緩む。
「う!」
「……すごい反応するね」
「だ、だだだだって! だ、だって、今っ……!」
 思わずふんにゃりと頬を緩めていたら、いきなり吐息がかかったんだもん!
 ……果たして今のは、本当に吐息だけだっただろうか……。
 心なしか、もっと温かくて、こう……なんていうか、こう……その……か、感触があったっていうか……。
「っ……祐恭さん……!」
「いいだろ? 別に。誰に見られて困るワケじゃなし」
「でも……っ」
「それとも何か? ……見られて困るヤツでもいるの?」
 撫でられたのか、な……舐められたのか、微妙に判断がつかないことをされた頬を撫で、彼を見つめる。
 だけどその瞬間、きらりと彼の瞳が光って見えた。
 ……しかも、ものすごく睨まれてるようなそんな気もする。
「そうじゃないですけれど……」
「けど?」
「ぅ……そ、その……だって……恥ずかしぃ……し」
「ならいいじゃない」
「よくないですよっ!」
 まるで、『なんだ』とでも言わんばかりの彼の言葉に、慌てて首を振る。
 でも、すでにそっぽを向いてしまった彼は、目線をこちらにすら向けてくれなかった。
 ……うぅ。
 絶対、元からやるつもりだったんだ……!
 そうなんだ! そうに違いないんだ!
 すぐそこの棚から卵のパックを取りながらも、やるせない気持ちが湧いてきた。
「もぉ……祐恭さんっ!」
「何?」
「な……何、じゃなくて。ええと……その……ですか――……あ」
 眉を寄せて、たまにはきちんと真正面から言ってみたほうがいいのかな、と思った瞬間。
 精肉売り場にて、3割引のシールが張られた生姜焼用の豚肉パックが目に入り、思わず視線がそちらへ向いた。
「……えへ」
 ゲット完了。
 日付は確かに今日までだけど、加工日は昨日。
 ……オイシイ。
 元のお値段を見つつ、笑みが漏れる。
「……何?」
「黒豚がこんな時間に安くなるなんて……今夜はこれですね」
「そうなの?」
「そうですよー! 豚肉には、疲れを取ってくれるビタミンB1が入ってるんで、これからの時期には大切なんです」
 にこにことパックをかごに入れながらうなずくと、『ふーん』と言いながら……ん?
「……え?」
 彼が、カートに両腕を乗せたまま、ニヤニヤと私を見ているのに気付いた。
「な……なんですか……?」
 う。しまった……。
 そういえば、さっきまで私……祐恭さんにちゃんと言いたいことは言わなきゃって思ってたんだっけ。
 ……つまりは、そういうこと。
 怒ってた、ってことでもある。
「……甲斐甲斐しい、幼な妻発見」
「うぇっ……!?」
 小さな声ではあった。
 だけど、元からはっきりと聞こえる彼の声。
 内容が内容なだけに、思いっきり口を押さえてしまった。
「ほぅ。自覚アリかね」
「ち、ちがっ……! そそそそういうんじゃなくてですねっ!」
「いや、いいんだよ? ……まぁ、何? 事実上は、内縁の……ってヤツに含まれなくもないんだし」
「っ……!!」
 顎を撫でながら口角を上げた彼は、やっぱり私を見てはおらず、少し上を眺めていた。
 ……うぅう。
 なんかもう、さ……先が思いやられる……。
 きっと、ことあるごとに彼はこうして私にいろいろ言うんだろうなぁ。
「っ……」
 なんて、ため息を小さく付いた瞬間。
 そんな彼が、

「ふ」

 と、一瞬笑ったように見えたのは、何かの間違いだったような違ったような……。
 とにもかくにも、なんだか見てはいけないような微笑だったのは間違いない。


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