「お前さ、最近笑ったか?」
ドアにもたれるような形で俺を見た孝之は、最初にそう切り出してから俺をまっすぐに見つめた。
……こんな顔、久しぶりだな。
珍しく、『コイツらしくない』という気になる。
「……何?」
「笑えてるか、って聞いてんだよ」
思わず、寄った眉。
だが、孝之は平然とした態度をまったく崩そうとしない。
……本気で聞いてるのか、はたまた何かの比喩なのか。
正直どっちとも取れる態度だけに、答えようがない。
「アイツは笑ったぞ。……お前の昔の姿見て、『どうして』って言いながらでもな」
「っ……」
コイツが彼女の兄貴だというのは、当然の事実。
だが、なぜかひどく動揺したのがわかった。
コイツの言葉に対してなのか、それとも、コイツが言ったからなのか。
なんともいえない感情が、じわじわと身体に広がり始める。
「いいか? こっからは、独り言だからな」
「……何?」
「黙って聞けよ」
コイツらしくない態度とセリフに思わず聞き返したが、大して態度を変えるでもなく、ただただ当たり前のようにさらりと返事をした。
……本気……なのか?
今の孝之が、どこか計り知れなく感じる。
「アイツ、泣いてばっかだったあのころと違って、もうだいぶ笑えるようになったぞ」
あのころ。
それは、言うまでもなく……あのときのこと。
彼女にとっては、ある意味絶望的な時期だっただろう。
絶対的な信頼を寄せていた俺本人に、惨い仕打ちをされたんだから。
「……1ヶ月だろ? もう、あれから1ヶ月以上経つんだ」
「…………」
「いいかげん、いつまでも事故のせいにして引きずるのはよせ」
「……っ……」
それまでまったく俺を見ていなかった孝之が、まっすぐに俺を見て放った言葉。
間違いなく、それは俺に向けられていて。
……何が独り言だ。
相変わらず、読めなくて思わず眉が寄る。
「別に俺は……」
「――……って、言ってやったんだよ。羽織に」
「っ……」
「なんだ? お前も心当たりあんのか?」
ハメられた……ッ。
そんな歯がゆさと悔しさで、思いきり睨みつけてやる。
だが、そんなことまったく気にもしていない様子で、おかしそうに喉から笑った。
「仕事を放ろうとするヤツは不適格だ」
「……それがどうした」
「お前、いつも言ってるだろ?」
ひとしきり笑い飛ばしたあとで、その表情のままドアに改めてもたれた。
先ほどまでとは、表情も雰囲気も何もかもが違う。
……明らかに、ノセられた。
それがわかるから、惨めで悔しくもある。
「それと同じだぞ?」
だが――……そこでまた、表情を変えた。
緩んでいた頬を戻し、スッと瞳を細くする。
『わかってんだろ?』
コイツらしい、特有の眼差しに。
「てめーの人生だろ? 途中で放ンなよ」
「……別に、俺は……」
「テキトーなことヌかして、あしらうこともすんなよ?」
いったい、いつからこうしてコイツは人にモノを言うようになったんだろう。
少なくとも、高校のときまではそこまで顕著じゃなかったのに。
……いや。
もしかしたら、授業中俺たちを見下した教師に対してから……かもしれない。
コイツが、こんなふうにいかにも『お前に喋ってんだぞ』とばかりに、人差し指を突きつけるようになったのは。
「………………」
言いたいことは、わかったつもりだ。
だが、だからといって俺にどうしろと?
期待されたところで、応えられなければ裏切りになる。
不満ばかりを募られても、俺にはどうすることもできない。
今の自分で、精一杯。
彼女には申し訳ないと思うが、それでも、俺自身どうしていいのかわからない。
「……彼女を幸せにする権利はあっても、潰す権利は俺にない」
確かに、幸せになってほしいとは思う。
少なくとも――……俺のせいで人生が狂ったんだから。
……そう。
だから、あのときあんなことを言ったんだ。
俺を忘れることで幸せになるなら、そうしてほしくて。
もう……泣いたり、悩んだり、苦しんだり。
俺のせいで、そんなつらい思いをしてほしくなかったから。
「……あのな」
だが、暫く沈黙を守ったままだった孝之が、がしがしと頭を掻いてから面倒くさそうにこちらを見た。
その瞳。
それはまるで、『相変わらずだな』とでも言わんばかりのモノだった。
「そもそもずっと引っかかってたんだけどよ……権利、権利って、お前は何様なんだ?」
大げさにため息をついた孝之が、ドアにもたれたまま腕を組んだ。
相変わらず、面倒くさそうな眼差しで。
「ほんっと、わかってねーな」
「っ……俺は……!」
「いい加減、素直になれよ。お前」
「……!」
まるで、すべてを見透かしたかのような自信ありげな口調。
瞳が丸くなると同時に、多少呆れもする。
……どこから出てくるんだ? この自信は。
相変わらず、計り知れない。
「ホントはわかってんだろ? アイツの気持ち」
「…………それは……。でも、当然だろ? 彼女はずっと俺の……そばにいたんだ。だからこそ、今でも――」
「……は。おめでてーヤツだな、お前は」
「っ……」
「そーじゃねーだろ? ……ったく、わかんねーヤツだな」
違う、とばかりに強く首を振り、そしてまた頭を掻く。
さも面倒くさそうな、この態度。
こんな態度を見るのももちろん久しぶりではあるが――……こんなふうにコイツとふたりきりで話をするとはな。
なんだか、不自然があまりにも多くて少し疲れる。
……いや。
恐らく、その原因はもっと別の……俺自身の中にあったはずなのに。
「別にアイツはもう、元のお前に戻ってもらいたいワケじゃねーんだぞ?」
「……な……」
衝撃的な言葉だった。
まっすぐ見つめられ、そして放たれた言葉。
……そんなモノは、知らない。
丸くなった瞳と一緒に、情けなく口も開いた。
「お前はお前だろ? だったら、そのまま今のお前としてアイツを見りゃいいじゃねーか。何に遠慮するでもなく、イチ個人として」
「………………」
「単純な話だろ? 何を悩むんだ? いったい」
「……それは……」
「だいたい、アイツが今悩んでんのはな、お前がお前として自分を見てくれないから悩んでんだぞ?」
「っ……」
確かに――……何も気付いてなかったワケじゃない。
ただ、わかろうとしなかっただけ。
……不安で、どこか……怖くて。
このままでいいはずがない、と。
なぜならば、彼女が求めているのはこの俺じゃないから、と。
いくらでも否定するための要素も言い訳も考え付くのに、反対のことは何ひとつできなくて。
……当然だ。
それが許されるはず、これっぽっちもないんだから。
「どうやって接したらいいのか、って。どうしたらお前が自分を見てくれるのか、って。……アイツ、ずっと悩んでんだぞ」
「…………」
「いらねーモンは、全部取っ払って捨てちまえ。……前の自分なら、とか。アイツが欲しがってる自分は、とか。そういうの全部、くだらねぇしがらみと一緒だろ?」
「……っ……」
「ホントは、お前に対するアイツの気持ち……とっくに気付いてたんじゃねーのか?」
誰でもない、お前自身。
これまでアイツの彼氏だったとかそういうの全部抜きにした今でも、お前を想ってる馬鹿正直な気持ち。
……わかんねぇはず、ねーよな?
誰だってわかるぜ?
あんな、いかにも『好きです』垂れ流しでお前のこと見てりゃよ。
「………………」
言いたいことが、わかる。
その、俺を責めるでも否定するでもない、モノ言いたげな目を見ていれば。
……それが、少しおかしい。
コイツにも、昔と変わってない部分が見えて。
「……相変わらず」
「……? なんだよ」
「世話焼きだな、お前」
そう言ってヤツを見つめた顔は、少しだけ情けなくも笑っていて。
「馬鹿か。お前がお前らしくねーからだろ? ……ったく、手間かけさせやがって」
一瞬、驚いたように瞳を丸くした孝之も、おかしそうに表情を緩めて笑っていた。
……いつ以来、だろうな。
こんなふうに、コイツと話したのは。
しかも今回は――……対象が、彼女のことなんて。
これまで、コイツからこんなふうに助言されたことなんて一度もなかったのに。
……どうやら、ここに来るまでの間、よっぽどコイツの目には俺が情けない男に映るようになっていたらしい。
それこそ、自分の何ひとつ自分で落とし前つけられないヤツに。
……ホント、情けないよな。
心底自分が嫌だった、みっともない男になってたってのに――……気付くことすらできてなかったとは。
「感謝しろよ? 俺に」
「……なんだそれ」
「何じゃねーだろ。俺のお陰で、やっと今お前も笑えてんじゃねーか」
「は。馬鹿言うな」
ニヤニヤと性格の悪そうな笑みを浮かべつつ、ドアノブを回した孝之。
そんなヤツにそうは言い返しながらも――……小さく噴いたのは確か。
……確かにな。
ようやく、俺も俺らしく笑えたようだ。
認めたくはないが、コイツのお陰でってのは……うなずくしかない。
それでもまぁ……百歩譲って、認めてやってもいいだろう。
たとえこんなヤツでも、コイツが彼女の兄貴だというのは曲げられない事実だから。
「……サンキュ」
「おー」
受け取ったディスクを持った手を軽く上げて見せると、どこか満足そうに笑ってうなずいてから、こちらに背を向けて部屋をあとにした。
残ったのは、受け取った――……このディスクだけ。
バックアップ。
都合よくできるのは、データだけの許されたモノなんだよな。
「………………」
ケースを開いてディスクを取り出しながら、なんともいえない気分になった。
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