「先生、恋も化学反応だってホントですか?」
 3時限目の講義が、終わってすぐ。
 数人の学生が教壇に集まって、楽しそうな顔を見せた。
 ……その中に、若干1名見知った顔があったことを付け加える。
「恋愛っていうのは、化学反応だーってこの前テレビでやってたんですけど」
 このテの話が好きなのは、やはり女性のほうが圧倒的に多い。
 ……それとも、男子学生は気になりつつも聞けないというのが、本音なのかもしれないな。
 ふと周りを見ると、珍しく学生らがすぐに教室をあとにせず、そこへたむろしているのが見えた。
「……そんな簡単なモノじゃないだろう?」
「え、そうなんですか? でも、テレビで――」
「確かに、テレビはそういう話もあるという意味で番組を作ったんだとは思うが……必ずしも、テレビが絶対じゃないのはわかるね?」
 情報を信じる信じないは、すべて自分。
 新聞に書いてあったから。
 テレビで言ってたから。
 ラジオで、ネットで、雑誌で。
 それらすべては、『友人から聞いた』という噂話となんら信憑性は変わりないというのに。
「確かに、人間も生物である以上は何かしらの反応が起きていると言われてるが……」
 そこで周りを見ると、『ほらやっぱり!』などと嬉しそうに胸を張った姿が見えた。
 が、しかし。
 その1歩後ろでは、まったく興味なさそうに……それどころか、俺を仇そのものの目で見ている子もいて。
 ……まだまだ、ってことか。
 まぁ、仕方ないとは思っているが。
「でも、誰かを好きになったり、愛したり、その人のためにしてやりたいと思うことすべてが“化学反応”で片付けられたら寂しすぎるだろ?」
 さらり、と出てきた言葉。単語。
 我ながら驚くようなことを言っているのも、十分わかっている。
 ……なのに、なぜだろう。
 こんなことが、つかえずスラスラと口をついて出てくるとは。
 ほんの少しだけ、自分が自分じゃないような気がして、不思議な感覚があった。
「いろいろな説を唱える学者は多いけど、俺は違うと思いたいね。……じゃなきゃ、そんなのつまらない」
 普段なら、ざわざわとうるさいほど音が溢れる教室。
 なのに今は、休み時間に入っているとはいえ、珍しくほとんど音が聞こえなかった。
 ……が。
 少しだけ驚いたように瞳を丸くした彼女らが目に入って、そこでようやく我に返る。
 我ながら――……クソ真面目な顔をして何言ってるんだ。
 ……しかも、これまで考えたこともなかったようなことばかり、まるで昔から思っていたかのような自信めいた口調で。
「…………まぁ、ほかの先生に聞いてごらん」
 しん、としてしまった室内が何よりも居心地悪くて、軽く咳払いしてからそう付け加える。
 すると、何やら先ほど聞いてきたときよりもずっと楽しそうな顔をしながら、彼女たちが短く礼を言って去っていた。
 ――……ただのひとりを除いて。
「……それって、本音?」
 さも当然とばかりに、彼女が首をかしげた。
 浮かべているのは、不敵な笑み。
 相変わらず、彼女らしいといえばらしいと思える。
 ……まだ、そんなに彼女と接した機会はないんだけどな。
 もしかすると、感覚としてこれまでの彼女のことが染み付いているのかもしれない。
「…………さあ」
 我ながら、なんともいえない曖昧な返事。
 だが、それ以外にこれといった言葉が出てこないのも本音。
「正直……俺にもよくわからない」
 だから、素直にそう断っておくことにした。
 確かに、アレは俺が言った言葉。
 しかしながら、考えるまでもなくさらりと出たあたり……なんとも、俺らしくない。
 だいたい、あんな言い方俺ならばまずしないはずなのに。
「あくまで俺個人の考えにすぎない。……だから、別にどう思われようと構わないけどね」
 なぜそこで、あえてそんなことを付け足したのか。
 それもまた、俺にはわからなかった。
 ……別に、どう思われようと関係ないはずなのに。
 それでも――……無意識の内に、彼女に話したことがあの子へ伝わるであろうことが絶対だと思いこんでのことかもしれないが。
「……ふうん」
 それじゃ、と断ってから荷物を持ってドアに向かう。
 そのとき、ふと見えた彼女の顔がやけに楽しそうに見えたのは……気のせいじゃなかったと思う。
「…………」
 ザワつく教室を離れ、ひとり、長い廊下を歩く。
 徐々に離れていく、喧騒。
 薄れていく、気配。
 角を曲がった先にあった階段を降りながら、独りでにため息が漏れた。
 ……まだ、言うべきじゃないだろう。
 恋愛云々の話をし終えた際、不意にあの子の顔が浮かんだということは。
 …………資格は、ないから。
 少なくとも今の俺には、間違いなく。
「………………」
 浮かんだ笑顔は、とても柔らかくて、愛しげで、ひどく胸が詰まるようなものだった。
 だが、あんなにも嬉しそうで心底誰かを想っているような笑顔を見たことなど、俺は、ない。
 ……ならば、なぜ?
 どうして、思い浮かんだ?
 彼女の、あんな顔が。
 それは――……俺の持つ記憶の欠片だったんだろうか。
 どちらにせよ、なんともいえず独りでに口元が緩んだのは、気のせいじゃなかった。

 研究室がある理学1号館まで戻り、エレベーターで3階へ上がる。
 するとそこで、予想してなかった人物がドアの前に立っていた。
「あ」
 まさに、ちょうど来たばかりだったんだろう。
 手に幾つかの本や荷物を持ったままノックしようとしていたところで、俺を見たから。
「……なんでお前が」
「なんでって……お前に用があンからに決まってんだろ」
 咄嗟に出た言葉で、相変わらず訝しげな顔を見せた。
 いると思ってなかった人物がいると、内心かなり焦るモノなんだな。
 ドアに近づき、鍵を開ける。
 普段、孝之が滅多に足など運ばないであろう場所。
 むしろ、少なくとも俺の記憶にある中で、コイツがここに来たことはなかった。
 ……珍しい、よりも不自然。
 つい、ドアを開けて中に通しながら眉が寄る。
「ほらよ」
「……なんだコレ」
「そーゆーな。お前が探してたんだからよ」
 入ってすぐにある、テーブル。
 そこへ腰かけた孝之が、分厚い冊子を取り出した。
 ある種、装丁のシンプルな本だと言ってもいい厚さ。
 いかにも紙束という分厚いそれを一瞥してから彼を見ると、小さくため息をついて口を開いた。
「宮代先生の論文。研究室にねぇっつって、4月に探してたんだよ。だから、一応やる」
「…………そうか」
 4月。
 それは、今の俺には記憶にない時期。
 ……だが、俺の周りでは何ひとつ変わることなく流れていた時間。
 当然だ。
 変わったのは、俺だけなんだから。
 冊子をめくって見ると、確かにコレは宮代先生のモノだった。
 以前、学生のときに一度だけ読んだことがあるこれが、必要だった。
 今となっては理由がわからないが、読んでみたら……もしかして思い出せるかもしれない。
「………………」
 と思いながらも、当然そんなモノは非現実的で。
 なんの根拠もないおとぎ話と同じレベル。
 ……我ながら、随分浅はかに物事を考えるようになったな。
 そんな程度で思い出せるならば、これまでにだっていくらでも思い出していい機会はあったのに。
「あと、本。借りてるヤツ、そろそろ返せ」
「……俺が? 何か借りてたのか?」
「そーゆーこと」
 論文を机に置いてから振り返ると、腕組みしたまま孝之が面倒くさそうな顔をした。
 ……本。
 もちろん、ここ最近図書館になど足を運んでいないし、何よりも、借りた覚えはない。
 ――……が。
「……4月の話、か」
「そーゆーこった」
 まるで、俺だけずっと続いてるような気分だ。
 4月限定の、化かし合い。
 本当は今が嘘だったら――……果たして俺は、救われるんだろうか。
 正直、微妙なラインだ。
「……たく、どこにあんだよ」
 こちらに歩いてきた孝之が、何かを探すように机の上のモノをひっくり返し始めた。
 お世辞にもきれいとは言えない、机。
 モノが山積みになっていて、少しでもバランスが崩れれば一気に崩壊しそうな気配すらある。
「……っと、あった。これこれ」
 器用に目的のものを掘り出した彼は、両手に2冊の本を持っていた。
 案の定、どちらも記憶にはないもの。
 それでも、どこかで見たことがあるような感覚には陥る。
「んじゃあな」
「……ああ。悪いな」
「っ……おま……」
「? なんだよ」
 記憶にはないこと。
 それでも、一応謝罪はしておく。
 …………が。
 途端に孝之は怪訝そうな顔で振り返った。
 確かに、こんなことでイチイチ口にするのはおかしいだろう。
 言った本人が思ったんだから、絶対だ。
 ……とはいえ、そこまで露骨に嫌そうな顔を見せなくてもいいんじゃないか?
「ほらよ。お前にやる」
「……何?」
 などと思っていたら、どこから取り出したのか、1枚の薄いCDケースを取り出してこちらに突きつけた。
 どこにでもあるような、普通のディスク。
 中にはCD−Rが入っていて、バックアップという文字も見える。
「……これは?」
 ひっくり返しても中身が見えないことなど百も承知だが、ついついクセで弄んでいた。
 1度ディスクに落とした視線を、再び彼に上げる。
 すると、ひと息ついてから、何やらヤツらしくない顔を見せた。


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