車好きが集まる、個人の運営するサイト。
その掲示板へ、“ユウ”という名の人間が投稿するたび、必ずと言っていいほど管理者ではない人間がレスを付けていた。
名前は、『アオイ』
その名前の持ち主は、書き込みの内容からも女性であろうことが伺える。
ユウが書き込む内容は、主に車のことであったり、遠出したときのことだったり。
だが、どんな内容にもかかわらず、何かしら彼女がレスを付けていた。
……そして、それに対してユウがさらにレスを付けることもあった。
「………………」
孝之から受け取った、CD−R。
そこには、掲示板のログが保存されていた。
無論、その掲示板は孝之が運営しているサイトのもの。
見覚えは――……ある。
『ユウ』というハンドルネームは、ヤツが学生時代に立ち上げたときから俺が使っている名前だから。
……それじゃあ……『アオイ』は……?
「…………」
まったく身に覚えのないが、確かに自分が書いたとされる内容。
そして、それに対する丁寧なレス。
……少なくともこれは、好意を抱いている人間。
それが『俺』になのか『ユウ』になのかはわからないが、文章からはそんな感情が伝わってきた。
保存されているログの期間は、今から1年前の4月から今年の4月まで。
約1年とはいえ、1日の書き込み数がそれなりにあるからか、ひとつひとつ確認するように読んでいくのはひどく時間がかかった。
――……結局、1番最新である4月のログに辿り付いたのは、受け取ってから4日後。
すでに6月をとうにすぎた、金曜のことだった。
「………………」
俺が書いたとされる『ユウ』の1番新しい書き込みは、4月の末。
奇しくもそれは、ちょうど記憶をなくす数日前で。
……なぜ、孝之がこれを俺に見せようとしたのか。
その理由は簡単に想像が付くし、わかりもする。
正直いえば、何かしらの期待を俺もしてはいた。
もしかしたら、何か得られるんじゃないか。
ひょっとして、欠片でも何か思い出せるんじゃないか。
俺自身に、反応が起きるんじゃないか。
――……そんな非現実的ななんの根拠もない淡い期待を、抱いていた。
……勝手に抱いておいて、それが叶わなかったからと不満を言うべきじゃないんだがな。
それでも、抱いていたモノが大きかったからこそ、落胆は大きい。
正直、気持ちの上ではもう少し何か得られると思っていたのに。
「…………」
ひと息ついてからディスクを取り出し、パソコンの電源を落とす。
時はすでに、16時半を回ったところ。
日も徐々にかたむき始め、学生らの声も幾分浮き足立っているように思える。
『少しは、何かわかるかもな』
受け取ったその日に、孝之からひとことだけメールが来た。
確かに、その点については否定しない。
少なくとも、まったく記憶にない『俺自身』の確かな記録であることに間違いはないから。
情報としては、受け入れられる。
それは、確かだ。
……だが、やはり拭えないのは違和感。
本当に俺が書いたのだろうか、と疑えばキリのないほどの違和感が多く出てくる。
言葉遣いにしても、アオイという人間に対しても。
『行った』と書いている、場所。
そこに対しての記憶はなく、果たして事実なのかどうかも自分ではわからない。
だが――……『買った』と言っている、物。
それに関しては、今でも確認できるよう残っているモノに関しては、否定できない。
書き込みを見ながら、走り書きのように羅列したモノの名前。
読んでいるだけではピンと来ないようなモノばかりだったが、実際にひとつひとつ探して確認してみると、多くのモノは実際に今でも残っていた。
家であり、車であり、そして携帯や眼鏡といった身に付けているものであったり。
……眼鏡、か。
そういえば、コレも彼女と一緒に行って買ったと言っていたな。
聞いたのは、孝之から。
彼女とはまだ――……確認するような話をできていない。
……怖い、のだろう。
彼女は俺のことすべてを知っている。
だから、信じがたいことを言われてしまうと、認めざるを得ない。
本当かどうか。
無論、彼女が嘘を言うような子でないことくらい、俺だってわかるし、そう信じたい。
だが、まだやはり踏ん切りがつかなかった。
そして何よりもまだ……そんなふうに突っ込んだ話をすることはできない関係でもあるから。
「…………」
アオイ。
頻繁に出てくるこの名前は、どこかで聞いたことがあったような気がしないでもない。
だが、少なくとも身内にはいないし、そんな名前の知り合いもいない。
……それでも、なぜか気になる名前。
引っかかるような、もどかしい……感じ。
少なくとも、以前の俺ならば悩むことなどなくすぐに出てきた名前だろう。
知っている人間かもしれない。
もしかしたら、実際に会ったことがあるのかもしれない。
……実際、親密な雰囲気が掲示板の文字には表れていた。
「…………アオイ」
机に頬杖をついたまま、ほぼ無意識の内に呟いていた。
……アオイ。
繰り返すように、自身の中でも復唱しながら。
出てきそうで出てこない、そんなひどくもどかしい感じ。
喉元までは出ているのに、口に出てこない。
……頭ではわかっているはずなのに、な。
人間は、生まれてから今までの記憶すべてを持ち合わせているとも言う。
ただ、それを引き出せないだけ。
『忘れた』というのは、情報を引き出せない状態なだけ。
実際には、何もかも失ってなどいないのに。
「………………」
俺も、そうなんだろうか。
本当は何も失っていないのに、ただ出てこないだけ。
引出しが、硬く閉じてしまっているだけ。
……そういえば、そんなこと言ってたよな。
忘れたんじゃない。ただ、思い出せないだけだ、と。
「…………」
思い出せないだけ、か。
昔なら、どんなことでもすぐに口をついて出たのにな。
それがどうだ。
今じゃ、絶対に忘れないであろう自分自身の記憶ですら、あやふやなまま。
情けないモンだ。……本当に、ひどく。
何もかもが手探り。
日常も、そして仕事の面でも。
昔から、ほとんどメモになど残すことをしてこなかった。
それは、自分自身の記憶力というモノを、心底あてにしていたから。
『信じられるのは、自分だけ』
そう思っていたのに、な。
……それがどうだ。
今じゃ、自分自身が1番信じられないなんて。
「…………は」
自嘲めいた笑いが漏れ、ひどく自分が滑稽に思えた。
情けない。
今じゃ、何モノにも振りまわされっぱなしの愚かな人間じゃないか。
右にも左にもすぐ、簡単に揺さぶられてしまう。
そんな、不安定極まりない人間。
「………………」
置いたままだったディスクをケースにしまい、持って立ち上がる。
今日、自分に課した課題。
それを、明日という未来の自分に託して、進めておく。
明日もまた、俺は俺でいられるんだろうか。
……情けないことに、そんな不安が最近ふと頭をよぎることも多くなっていた。
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