……何度か、どころかこれまでに何十回と足を運んだ瀬那家。
 コアタイムを2時間ほどオーバーして仕事をこなしてから訪ねると、すでに日は暮れ、真っ暗な街灯が夜道を白く照らしていた。
 こんな時間に訪ねたことは、これまでなかった。
 それどころか、今訪ねれば間違いなく彼女本人が自宅に居るであろう時間。
 ……彼女だけじゃない。
 彼女の両親である、瀬那先生夫妻も無論自宅にいるはずだ。
 身に覚えがないという言葉ほど、汚いものはない。
 だが今の俺には――……申し訳ないがまさにソレ。
 教師と生徒という禁忌そのものの関係である彼女との付き合いは、当然彼女の両親も知っているはずだ。
 恩師である、瀬那先生。
 その人の大事な娘である彼女と関係を持つということは――……そういうこと。
 果たして、当時の俺はそこまで深くきちんと考えていたんだろうか。
 それすらも、今ではあやふやでひどく申し訳ない。
「…………」
 本来なら、こんな時間に訪れる予定じゃなかった。
 もっと早い時間――……それこそ、時間内に直接図書館へ出向いて、孝之本人へ返してしまえばそれでよかったのに。
 ……なのに、それをしなかった。
 いや、もちろん何か他意があってこんな時間まで仕事をしていたワケではない。
 キリのいいところまでと考えたら、こうなってしまっただけ。
 ……とはいえ、無意識下では正直どちらともいうことはできない。
 意図的か、はたまたそうでないのか。
 だが、前回訪れた際、彼女へ直接謝罪できなかったというのが、どこにも引っかかってなかったといえば嘘になるが。
「…………」
 家の前にある、石段。
 それを上がってドアの前まで来たのは、なんだかひどく久しぶりのように感じる。
 ……そんなはずないのにな。
 ついこの間も、俺はここに立ったんだから。
「………………」
 ゆっくりとチャイムを押し、応答を待つ。
 ……そうか。
 今、こんなにも緊張している理由。
 それがやっとわかった。
 前回――……俺がこの家を訪ねたとき。
 あのときは、外にいた葉月ちゃんに誘われて入ったから……そういえばチャイムは鳴らさなかったんだな。
 今さらになってそんなことを思い出し、少しだけ視線が落ちた。

 ガチャリ

「っ……」
 一瞬足元を見たとき、重たい音を立てていつもより少しだけ勢いよくドアが開いた。
 普段なら、まずない。
 俺を迎えてくれるのは、いつだって――……いつ……だって……?
 ふと妙なことを考えた自分に、一瞬思考が止まる。
 ……なぜ、そんなふうに思った?
 我ながら、説明のつかないことだけに、少し眉が寄る。
 ――……だが。
 次の瞬間、より一層不可解なことが身に降りかかることになった。
「なんだね、君は」
「……え……?」
 目の前に立っていた人物。
 それは、孝之でも瀬那先生でもなければ……まったく見知らぬ男性で。
 俺より背の高いこともあってか、灯りがほぼ遮られる。
 別に、逆光だから顔が見えないとか、そういう意味じゃない。
 ……本当に、知らないんだ。
 恐らく、見たことも会ったこともないはず。
 だからこそ、無意識に背が伸びる。
「こんな時間にすみません。自分は、孝之の――」
「そういうことを言ってるんじゃない。なんの用かと聞いてるんだ」
「……は……?」
 ひどく高圧的で、まったく歓迎されていない感じがびりびりと肌を伝わって来て、眉が寄る。
 ……誰なんだ、この人は。
 ひどく不機嫌そうで、ひどく威圧的で。
 …………また、コレだ。
 この感じ。
 俺は知らないのに、相手は俺を知っている。
 そんな感じがありありと伝わってきて、内心ため息をつく。
 ……またか。
 勘弁してくれ。
 俺がいったい何をしたというんだ?
 罵られ、なじられ。
 そのたびに、そう思ったのは2度3度じゃない。
 つくづく、不公平だと思う。
 俺は何もしていないし、そして過去何があったのかもわからないというのに。
「……失礼ですが。人違いじゃありませんか?」
「ッ何……!?」
 背を正したまま、睨むまではいかないものの、それなりの態度を見せてやる。
 ここまで歓迎されてないなら、上等。
 別に、好かれようなどとはまったく思いもしない。
「貴様……! 相変わらず、口の利き方が――」
「っ……お父さん!!」
 思いきり眉を寄せて睨まれた瞬間、彼の後方から鋭い声が聞こえた。
 それは……俺も聞き覚えのある人のモノで。
「葉月! お前は向こうへ行ってなさい!」
「……もう。瀬尋先生はお父さんに御用じゃないでしょう?」
「そうは言ってもだな……!」
 身体をずらして彼がそちらを振り返った途端、やはり思った通りの子が困った顔をしていた。
 サンダルを履いて下に降り、そしてすぐ彼の隣に並ぶ。
「……すみません、瀬尋先生」
「いや、俺は別に……」
 申し訳なさそうに謝られてしまい、慌てて首を振る。
 だが、隣の男性は相変わらず偏屈そうな態度を崩さなかった。
「正直言って、君のことは大嫌いなんだ」
「お父さん!」
「仕方ないだろう? 嘘を言ってもどうしようもない」
 腕を組んだ彼が、まっすぐ俺を見てストレートに告げた。
 ……そういや、さっきからずっと葉月ちゃんが『お父さん』と呼んでいるが……もしかして、この人が本当に父親なんだろうか。
 となると、彼女は孝之の従妹。
 だから……孝之にとっての、叔父にあたる人なワケだが……。
「面と向かってそんな宣言されたのは、初めてです」
 だからと言って、正直、この人に媚びへつらうつもりはない。
 当然だ。
 先に仕掛けられたのに、どうしてかわす必要がある?
 ……たとえ、相手が彼女の叔父だとしても。
「…………」
「…………」
 黙ったままの、睨み合い。
 ……別に、敢えてそうしていたワケじゃない。
 そうじゃないが……やはり、どうしてもな。
 つい、こんなふうに彼を睨みつけていた。
 彼もまた、然り。
 だからこそ、ある意味当然の沈黙だ。
「……がっかりしたよ」
「は……?」
 どれほど、そうしていただろうか。
 しばらく経ったときになって、彼がふと視線を逸らした。
 そのまま背中を向け、玄関へと上がる。
「君のことは、孝之から聞いている」
「っ……」
 ならば、なぜ。
 そう口を開きかけたものの――……上がった彼はまた、顔だけで俺を振り返った。
 相変わらず、許すなどという気は毛頭ないような顔で。
「変わったな、君は」
「……どういう意味ですか」
「どうもこうも……そのままの意味だ」
 ぎり、と握った拳に力が篭る。
 爪が少しだけ食い込んで、鈍く痛みもした。
 ……だが、それ以前に。
 彼がいったい何を言おうとしていて、何を俺にわからせようとしているのか。
 それがまったくわからないからこそ、何を言うこともできなかった。
「初めて君と会ったときはな、それこそ見ず知らずの俺を今にも掴みかかりそうな勢いだったんだよ」
 ――……初めて会ったとき。
 それは、少なくとも俺の記憶にはないこと。
 ……やはり、彼は俺を知っていた。
 それがわかって、少しだけ苦い何かが頭にこびりつく。

「しかし、だからこそ君から無理矢理に羽織を取りあげようとはしなかったんだ」

「……え……?」
「これほどのヤツなら、何があっても羽織を守るだろうと思ったからな」
 相変わらず、向けられているのは冷たい視線に違いない。
 ……だが、なぜだ。
 いったい、なぜそんなことを俺に言う……?
 しかも彼は、俺のことを知っている。
 以前と、そして今の俺どちらも。
 …………何を考えているんだ……?
 何を意図しているんだ?
 表情や声色からまったく量れないだけに、眉間の皺が深くなる。
「……だが、今は違う」
「っ……」
 そこで初めて、俺へ最初に見せた嫌悪をぶつけて来た。
 まるで、吐き捨てるかのように呟き、首をわずかに傾ける。
 ――……見下されてる。
 そう取って間違いないような、あからさまな態度だ。
「今の君が羽織のそばにいたら、あの子は駄目になる」
「…………」
「悪いが、大事な姪にむざむざ苦難の道を歩ませるつもりはない」
 ハキハキとした、大きな声だった。
 ……まったく反論の余地もないような……まさに正論。
 だからこそ、先ほどまで浮かんでいた感情が、徐々に徐々に薄れゆくのを感じた。
 …………なぜだろうな。
 まるで、第三者へ向けられている言葉のように感じて仕方がない。

「返してもらうよ」

 ある意味、決定的な言葉だった。
 それでも……落胆や衝撃などといった感情が芽生えなかったのは、やはり……今の俺は俺だからだろう。
 前までの俺がどんな反応を取ったのかはわからない。
 そして、彼が期待している態度もわからない。
 ……だが、今の俺は別段何か表情が変わるでもなく、脈が変化するでもなく……ただただ、淡々とした気分で言葉を受け止めていた。
 あくまでも、すんなりと。
 なぜなら――……当然のことだと自覚しているから。
「仰る通りだと思います」
「ほう。反論はなしかね」
「そう仰るのも、仕方ありませんから」
 声に震えはなかった。
 背を曲げることなく、あくまでも凛とした対応を取る。
 ……いや、正確には『できた』と言ってもいいだろう。
 諦めや、妥協。
 そんな感情が浮かぶことすらなく、淡々と言葉が出る。
 表情には――……なんの感情も、浮かばないまま。
 コレが大人になるということなのか。
 はたまた……単なる、強がりなのか。
 少なくとも俺には、そのどちらでもないような気がする。
「失礼します」
 本来の目的は、まだ忘れていない。
 とはいえ、こんな状況下で誰に渡すことができる?
 心配そうな顔をしている、葉月ちゃんか?
 ……そんなことして何になる。
 言うことは言ったし、彼もまた俺に言いたいことは言っただろう。
 ならばもう、そこに用はない。
 やはり俺は、歓迎などされるような身ではないから。

「……それが嫌だと思えるなら、大丈夫だと思ったんだがな」

 背を向けて階段に向かったとき、ため息混じりの大きな声が聞こえた。
 ワザとらしいソレ。
 ……だが、今の俺には何も意味をなさない。
「君ならば、どんな者の言葉にも耳を貸さず、羽織だけを想って突き進むと思ったんだがな」
 ――……苦難を、苦難と受け取ったか。
 そんな言葉が聞こえるものの、当然振り返りなどしない。
 別に、みっともないなんていう、レベルの低い自尊心のせいではなく。
 今の俺にとっては、彼の期待に応えられるワケでもなければ、嘘を吐くことなども考えていない。
 ありのままが、今の俺。
 飾るつもりもなければ、虚勢を張るでもないから。
「……今の君には、覇気がないな」
「っ……」
 これまでの語勢とは打って変わって、本当のため息だった。
 囁くような、呟くような。
 そんな、大人特有の技法。
 ……俺にどうしろと言うんだ。
 ワケがわからず、納得もできず。
 ただただ、照明が照らす幾つもの石段を無言で眺めるしかできない。

「残念だよ、青年」

 最後に聞こえた、ハッキリとした声。
 背中へ圧しかかるようにして降って来たその言葉が、ほんの少しだけこれまでの彼とは雰囲気がまた異なって聞こえた。


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