大丈夫です。
 私、もう……本当に大丈夫ですから。
 確かに、記憶が戻るのがいつかはわかりません。
 ……明日かもしれないし、明後日かもしれないし……1週間後、ひと月後、1年後……いつになるのかは、わかりません。
 だけど、絶対に戻らないわけじゃないから。
 ……だから……私はもう、ちゃんと決めたんです。

 一生戻らないかもしれません。

 あのとき、あの部屋で言われた担当医の先生の言葉を続けることはできなかった。
 ……嘘をついたことになるのかな。
 でも、違う。
 だって、きっとそうなるから。
 絶対に戻らないわけじゃない。
 きっと彼は、すべて取り戻すに違いないはず。
 ……そう私は信じてるし、願ってる。
 ずっと思ってたこと。
 考えてたこと。
 それを今日、ようやく口にすることができた。
 それも……ちゃんとした笑顔で。
 これまでずっと『言いたい』とは思っていたけれど、でも、なかなか言い出せなくて。
 顔を合わせると、どうしても彼がつらそうな表情を浮かべるから……申し訳なさもあって。
 ……でも、今。
 彼を前にして、ちゃんと言いたいことが言えた。
 だから……できることならば、彼にもまた、ここから改めてスタートしてほしかった。
 前を向いてほしかった。
 私は、ちゃんと歩き出せる準備ができたから。
 そうしようって決めて、前への大きな1歩だって……ちゃんと踏めたから。
 だから今度は、彼の番だって思ったの。
 いつまでも気遣ってほしくない。
 ヘンな遠慮はしてほしくない。
 精一杯考えて出した結論。
 それが――……いかにしてこれからの私を見てもらうか。
 それ以外には、考えられなかった。

 もう1度、振り向かせればイイだけの話だろ。

 お兄ちゃんが言った言葉が、今ならちゃんとわかる。
 実行できると思う。
 そして――……宮代先生の、言葉も。
 そうなの。
 本当は、ずっとわかってたのに。
 答えが出てるのは、悩みじゃないって。
 ただ、自信がないから不安なだけなんだって。
 ……でも、もう大丈夫。
 自分を支えていくって決めた。
 彼を好きでいることに、誇りを持つ。
 そして、その誇りを持っている私を、好きになってもらう。
 大それたことだな、って自分でも思う。
 でも、やっぱり諦められないから。
 だから……もう1度、好きになってもらうの。
 だって私は――……私は……。

「……好きなんです」

「…………え……」
「先生のことが……すごく」
 ぎゅうっと抱きしめたままの教科書。
 まっすぐ目を見てこんなに強く自分の気持ちを言うなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
 恥ずかしくて、苦しいくらい鼓動が強く打ちつけて。
 ……だけど、なんだろう。
 どきどきするのと一緒に、なんだかすごく嬉しい。
「……でも私……ずるい、から」
 視線が落ちる。
 だって、まっすぐなんて彼を見てられない。
 でも――……最後まで言うって決めたの。
 そのために、絵里や葉月に断って、独りでここに立ったんだから。
「返事がほしいなんて言いません。ただ……知っててほしかったんです」
 ずるいですよね、と小さく苦笑が漏れた。
 ……困ったような、びっくりしたような顔。
 そんな彼が目に入って、ちょっとだけ申し訳なくなる。
 こんなこと言われるなんて、きっと思ってなかったに違いない。
 だって、私も……ここで彼を見かけなければ、今こんなふうに言おうとなんて考えなかったんだもん。
「私を見てください」
「……っ……」
「今の、先生の目の前にいる私を」
 教科書を抱いたままだった手を、そっと胸元に当てる。
 どうか、伝わりますように。
 真剣な想いが、少しずつでもいいから。
「これまでのことは関係なく、今の、私自身を見てください」
「……………」
「……いつかまた好きになってもらえるように……たくさんたくさん、努力しますから……!」
 本気なんです。
 嘘なんかでも、迷ってるわけでもない。
 本当に、ホント。
 精一杯どうしたらいいのか考えて、そして出した答えなんです。
 ……これしかないって思ったから。
 もう1度私をありのまま見てもらうには、もう1度自分の素直な気持ちを伝えるのが、絶対だって思ったから。
「それじゃあ……失礼します」
 ぺこっと頭を下げてから、教科書を抱いたままで1号館へと向かう。
 自然と、小走りで駆けるように。
 ……でも、なんでだろう。
 瞳を丸くしたまま、薄っすらと唇を開いている彼を見ながら、自然に笑みが浮かんだのは。
 ……やり遂げた、っていうある種の達成感みたいなものが身体に満ちる。
 どうしよう。
 なんだか、すごく嬉しい。
 そして何よりも、ちゃんと笑顔で言いきれたというのが、とっても大きな自信になった。
 答えが欲しいわけじゃない。
 ただ、知っていてほしいだけ。
 今の私は――……やっぱり祐恭さんのことが、好きだという事実を。
 彼に背を向けてその場を離れながら、心の中で『やった』とガッツポーズを作っていた。

「…………」
 ざわついている、中庭。
 ……そのはずなのに。
 なぜか、先ほどまでこの場所には、俺と彼女しかいないかのような錯覚に陥っていた。
 だからこそ、彼女が去り、この場の雰囲気が解けた今。
 急激なスピードで時間を取り戻していくような気がして、一瞬眩暈がする。
 ……正直に、言えば。
 若干ながらも、戸惑っている自分がいる。
 確かに、これまでも彼女と付き合っていたという話は聞いていたから、彼女が俺を想っているであろうことが当たり前のように考えていた部分がどこかにあった。
 だからこそ、あんなふうに……面と向かって想いを告げられるなど、予想外。
 だから、本当に驚いた。
「…………」
 口元に手を当てたまま、手近にあったベンチに腰を下ろす。
 なんとも言いようのない感情。
 それらがぐるぐると渦巻き、頭から身体へと徐々に浸透し始める。

 強い子だ。

 素直に、そう思った自分がいた。
 ……あの眼差し。
 声。
 そして……表情。
 どれもこれもが目に付いて、瞼を閉じれば今でも鮮やかに蘇る。
 彼女は、真剣だった。
 本気だった。
「…………」
 ――……さぁ、どうする。
 彼女がぶつけて来たのは、本音。
 だからこそ、こちらも本音を出さなければならない。
 ただ……それでも、まだ。
 今すぐ出さなくてはいけない問いを課せられたワケではないというのが、唯一気持ちの余裕でもある。
 ……そこを、残してくれたこと。
 少なくともそれは、彼女に感謝しなければいけないのかもしれない。


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