「おはよー、羽織」
「おはよ。……あれ、珍しいね。今日はお弁当なの?」
「そ」
と言っても、購買のヤツだけどね。
苦笑を浮かべた絵里の前に腰かけると、お茶をトレイに載せた葉月も戻って来た。
「はい、どうぞ」
「わー、ありがと」
「ありがとう」
それぞれひとつずつ目の前に置かれる、湯飲み。
濃い目のお茶は、学食でのセルフだから無料。
……ちょっと、嬉しい。
なんだか最近、前よりもずっと自分がケチになってきたような気がして、ちょっとおかしかった。
「……にしても」
「え?」
「羽織、ここんトコ元気よね」
両手で湯飲みを持ったまま肘をついた絵里が、少しだけ瞳を細めた。
それはやっぱり、『何かあったんでしょ』と言わんばかりで。
「……んー……まぁ、ね」
ふわふわと視線を宙へ飛ばしてからゆっくり戻すと、自然に頬が緩んだ。
記憶にはまだ浅い、先日のあのこと。
……我ながら、すごく大胆なことをしたなぁとは思う。
というよりは、よくあんなことできたなぁって思うけれど。
「私、がんばるって決めたから」
両手で湯飲みを包み込んでから笑うと、絵里の顔が優しくなった。
どこかほっとしたような。
そして……そっか、と言ってくれそうな。
「そうね。……アンタらしくなったわ」
「だね。いい顔するようになったよ? 羽織」
頬杖をついたままの絵里が、葉月と目を合わせてからにっこり笑った。
向けられる、ふたつの笑顔。
ちょっぴり照れくさいけれど……でも、すごく嬉しい。
「ありがと」
きゅ、と唇を軽く噛んでからうなずき、湯飲みに口づける。
……今日は。
今日はまた、彼に会えるだろうか。
「…………」
無意識に彼を探しているのがわかって、なんだかそれが嬉しい。
まだ、始まったばかり。
まさに、これから。
……でも……だからこそ、前を向いて歩いて行きたいって思うようになったことがやっぱり嬉しかったし、自信でもあった。
昼食で一気に賑わった空気を切るように学食の前を通りすぎ、事務棟である本館の教学課を目指す。
本来なら、俺が直接足を運ぶような場所ではない。
しかし今は、こうしてやはり向かっている。
……理由はもちろん、用事があるから。
そして、それは当然――……私事ではなく、宮代先生の代理というヤツでだが。
「すみません。いつものお願いします」
「あ、はーい。……いつも大変ね、瀬尋先生も」
「……いえ」
苦笑を浮かべた事務の女性に首を振り、手にしていた書類を束で渡す。
枚数を数え、それからハンコを手に1枚1枚チェックしてもらう。
毎度のことながら、若干申し訳なさは立つ。
……なぜあの人は、人に頼むくせにコレほど溜め込んでから渡すことしかしないのか。
もっとその都度くれれば、俺も職員も忙しくはないのに。
どうせ俺に頼むんだから、頻度が増したところでそう仕事量に差は出ないというのに。
…………まぁもっとも、それが彼の心遣いでないことは間違いないが。
単に、逐一出すのが面倒。
ただそれだけなんだから。
「……祐恭……?」
「……?」
不意に呼ばれた名前。
だが、ほとんど聞き覚えのない声のせいか、そちらを向くもののやはり誰かはわからなかった。
「久しぶりね」
カールした長い髪に、赤い唇。
瞳を細めてひどく懐かしげに言われるが、やはり眉は寄ったまま。
誰かなど、まるで――……。
「っ……理恵……?」
「そうよ。……ひどいわね、私のこと忘れてるなんて。許してあげないんだから」
クスクス笑った彼女が、唇と同じ真っ赤なヒールの高い靴でこちらへと歩み寄って来た。
昔……そう。
付き合ってほしいと言われたあのときとは、まったく違う姿。
面影など微塵もなく、名前こそ同じもののまるで赤の他人のような。
そんな気がして、まったく懐かしさなどは浮かびもしなかった。
「大学に戻ったのね。おめでとう」
「……ああ」
ちらりと見られた、IDカード。
反射的にそれを外し、ポケットへしまう。
すると、そんな様子を見ていた彼女が、清楚だったあのころとはまったく違う妖艶な唇をわずかに上げた。
「相変わらずね」
「……何がだ」
「そういう、他人を明らかに寄せ付けようとしないところ。……昔と何も変わってないわ」
目の前で足を揃えた彼女が、俺に向かって手を伸ばした。
「……違う」
「え?」
「俺は変わった。……間違いなく、昔とは違う」
1歩後ろに足を引き、かわすように身体をそむける。
見つめる先にいるのは、付き合った当初とは大きくかけ離れた昔の彼女。
……まさか、こうも変わるとはな。
女が男で変わるというのは、こういうことかと改めてうなずけるようだ。
「……第一、呼び捨てされるとは思わなかったな」
「な……何よ。それがどうかしたの?」
「いつでも、『瀬尋君』としか呼ばなかったのに」
最初に感じた違和感。
その正体がようやくわかって、短く笑いが漏れた。
「……なに? 急に他人みたいな素振りして。今さらでしょ? ……別に、知らない仲でもないんだし」
少し焦りでもしたのか、まばたきの回数を増やした彼女がひと息ついてから笑みを繕った。
だが、あくまでも繕いは繕い。
自然さなど微塵も感じられない、取り繕った感じしか漂ってはいなかった。
「本当にそう思ってるのか?」
「……え?」
もしかしたら、嘲笑だったかもしれない。
瞳がわずかに細まるのが、ハッキリと感じられた。
「俺たちは、あのころから知らない仲だった」
「……っ」
「俺もお前も、互いを利用していただけだろう?」
揺らぐことなく、まっすぐに見つめる。
……そう。
これが、俺たちの関係の真の部分。
今だからハッキリ言える、決して純粋な思いの上に成り立っていたワケじゃない間柄の真相だ。
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