あのころ俺は『特定の彼女がいる』というある種の免罪符のようなモノで、余計な火の粉を払っていた。
 面倒じゃなくて済む。
 ただそれだけの自己のために、『彼女』という肩書きを必要としていた。
「お前もそうだろう?」
 俺と付き合いだしてすぐ、先輩に自ら声をかけ、関係を持った。
 それも、ひとりやふたりじゃない。
 ……だから、周りにはよく言われたものだった。

『なんで付き合ってるんだ?』

 と、ただそればかりを。
 だが、してることは俺も同じ。
 面倒なことに巻き込まれたくない。
 ただそれだけのために、彼女と形だけの関係を結んでいたんだから。
「…………」
 何も言わず、視線も合わせず。
 そんな彼女の様子を見ていれば、何を聞かずともわかること。
 ……コレが真相。
 これまでの間続けてきた、かりそめの利害関係の。
「今の俺も昔の俺も、お前は何も知らない」
 敢えて教えるつもりもなかったし、そうすることもなかった。
 ……そんなことする必要がどこにある?
 俺たちが必要としていたのは、そんな温かいモノじゃなかったのに。

「今、彼女と一緒に暮らしてるんだ」

 言いきった途端、顔色が一瞬で変わった。
「……まさか、か?」
 静かに呟き、小さく息を吐く。
 ……まぁ当然だろうな。
 俺だって、そんなふうに思える相手ができるとは思ってなかったんだから。
 淡々と呟いた俺に対する彼女は、表情も仕草も、何もかもが驚愕そのもので。
 ……お前も驚くことがあるんだな。
 学生時代見たこともなかっただけに、不思議な感じがした。
「どうして……!?」
 第一声がそれ。
 瞳を丸くして、心底から信じられないとでも言わんばかりの驚愕の表情を浮かべている。
「嘘でしょ!? だって……っ……だって、私ですら家に上げてくれなかったのに!」
 1歩踏み込まれ、自然とこちらは後ろへ下がった。
 こんなこと言うとは思ってなかったんだろう。
 恐らくは、自分の今の大層な境遇とやらを俺に自慢するのだけが目的だったんだろうから。
「いつでも精一杯自分を隠そうとしていたヤツを、わざわざ家に上げてやるほど馬鹿じゃない」
「っ……!」
「隠しごとひとつ、うまくできない相手だから迎え入れたんだ。……お前じゃない、大切な子をな」
 ……そうだろう?
 対するのは、彼女ではない。
 自分の奥底にいるであろう、無意識と化している『俺』。
 ……違わないよな、きっと。
 確かに俺は、あの子のことを詳しくは知らない。
 『俺』が彼女とどんな関係を築いていたのかは、欠片ほどもわからない。
 ……だが、それでも。
 それでも、俺が許した相手なんだ。
 相当の何かがなければ、したりしない。
 自分をさらけ出し、すべて知られてしまいかねない家へ上げ、なおかつともに生活するなど。
「……まさか……っ」
 わなわなと少しだけ唇を震わせた彼女が、1歩そこから離れた。
 これが――……ケジメ。
 すべてを断ち切り、本当の意味で新たに『これから』を歩むための。
「……だから言ったろ?」
 眉を寄せたまま俺を見た彼女に向けるのは、彼女からすれば『俺らしい』モノで。
 そして、あの子にすれば――……『俺らしくない』、冷めた眼差しだった。
「お互い、何も知らない仲だって」
 小さく呟くと、表情が一瞬悔しそうに歪んだのがわかった。

「…………」
 咄嗟だった。
 考えるまでもなく、口をついて出た言葉。
 ……だからもちろん、嘘のつもりもなかった。
 それだけに、今になって驚きはする。
 なぜあんなことを言ったのか。
 しかも――……これまで、自分でも半ば受け入れができていなかったようなことにもかかわらず。

 一緒に住んでいる、彼女。

 そんなことを言うつもりもなければ、何かしらの返答をするつもりもなかったのに。
 なのに――……まるで、誇示するかのようだった。
 表情といい、口調といい。
 『どうだ?』と。
 理恵に対して、見せ付けてやるかのように。
 一瞬、自分らしからぬ感情がよぎったのは確か。
 それがどういう理由からなのかわからないからこそ、今もまだ、腑に落ちない点が多い。
 別に、あんなことをわざわざ言ってやる必要はなかったのに。
 ……それなのに、なぜ……?
「……ん?」
 遅めの昼食を摂り終えたあと、戻ってきた理学棟。
 その外にある非常階段に珍しい組み合わせのふたりが見えて、つい足が止まった。


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