朝から降っていた雨は、窓を打ちつけるまでになっていた。
外は、薄暗い。
どんよりとした、重たい鉛色の雲から落ちる粒の大きな雨。
まだまだ気持ちよく晴れそうには、ない。
「…………」
シトシトという雨の音とはまた違う水の音が、しばらく続いていた。
――……ここは、自宅のリビング。
テレビを付けていないせいか、小さな音ですらやけに大きく聞こえてくる。
……もちろん、音の源はわかっている。
ここから1本の廊下の先にある、バスルーム。
そこ以外に、ない。
「…………」
あのあと。
彼女を半ば強く説得するようにして車にまで連れてくると、そのまま渋る彼女を自宅へ連れ帰っていた。
恐らく……いや、かなり躊躇したであろうことは、顔を見ればわかる。
『なぜ?』
ただそれだけが、強く彼女の表情に表れていた。
……当然だ。
行動を起こした俺でさえ、少し戸惑っているのだから。
なぜ、彼女を見すごせなかったのか。
雨に打たれ、ひどく寂しげな顔をしている彼女。
その顔が、まるで救いでも求めているように見えたのだろうか。
それとも――……我侭な偽善?
同情?
理由がハッキリしてない以上、自分でもよくわからない。
ただ、ひとつ。
もしかしたら俺は、また無意識の自分にヤられたのかもしれない。
なんとなく、腑に落ちなかった。
許せなかった。
彼女が、あんな姿でいるのをほかの男に見られるのが、イヤだった。
もしかしたら――……そんな理由かもしれない。
「っ……」
ガラ、という引き戸の開く音で、ソファにもたれていた身体が起き上がった。
途端に、香ってくる特有の湿った匂い。
普段、自分じゃない誰かが入った匂いをこうして嗅ぐことがないせいか、やけに落ち着かない気分だ。
「あの……お借りしました」
ちょうどキッチンの入り口にあたる場所へ立った彼女は、両手で服を持っていた。
少し前までは、彼女もともに暮らしていた部屋。
勝手知らないワケがない。
「いいよ。気にしないで。……冷蔵庫、何かしら入ってるから」
ぎこちなくなるのがわかって、少し情けない。
……ここまで、ある意味大胆なことをしているだけに、余計。
「…………」
普段は見ることのない、Tシャツにショートパンツといういでたち。
それと風呂上がりということが意識のどこかでミックスされていて、なぜだかそんな彼女を直視することができなかった。
「……これ……」
「え?」
「あ……ごめんなさい。ええと……なんだか、懐かしくて」
ほんのりと笑みを浮かべて戻ってきた彼女は、その手に黄色い何かを持っていた。
「……ああ、それか」
「先生、普段飲まないのに……もしかして、ずっと入ってたんですか?」
「うん、まぁ……口も開いてないし」
彼女の手にあったのは、俺が知る限りでは家の冷蔵庫にずっと入っていた、レモンティーのペットボトル。
彼女の言うとおり、普段はまず口にしたりすることのないものだけに、不思議ではあった。
まさか、自分が急に甘党になるはずもないだろう、と。
……だが、こうして懐かしげに口付けている彼女を見て、ようやく合点が行く。
俺のためでなく、彼女のため。
そのために、これはずっとここで彼女を待っていたんだと。
「…………」
「…………」
シトシトと降り続いている雨。
その音だけが部屋に響き、いつしか互いに無言になってしまっていたのに気付いた。
確かに、困るだろう。
これまでは、むしろ避けて通るかのような素振りしかしなかった俺が、それこそ急に180度違う態度を見せたんだから。
「……っ……あの」
「え?」
もしかしたら、気遣ってくれたのかもしれない。
何を話そうかと視線を逸らしたとき、彼女が口を開いた。
「本当に、ありがとうございました」
「いや、そんなことは……」
ぺこっと頭を下げられ、瞳が丸くなる。
そこまで感謝されるようなことでは、決してない。
ただ、俺にできることをしただけ。
……ただ、それだけだから。
「すごく……嬉しかったです」
軽く唇を噛んだ彼女が、少しだけはにかむような笑顔を浮かべた。
……嬉しい、か。
そんなふうに言ってもらえるような立場では、決してないんだがな。
相変わらず、いい子だと思う。
温かくて、安らかで。
『俺』が彼女を欲したのも、少しわかるような気がした。
「……ありがとう、は俺のほうだよ」
「え?」
「俺には、コレくらいしかできないから」
ぽつりと呟いたつもりの言葉だったのに、なぜかやけに大きく聞こえた。
「本当なら、誰に遠慮もなくここに入れるはずなのに……それが、俺のせいで」
彼女に返された鍵は、もちろん今でも俺の手元にある。
返された当初は、いつか近いうちに彼女へ返そうと思っていた。
それなのに、未だに実行できていない。
……それは、俺の弱さでもありズルさだ。
果たして、俺にもこんな部分があることを彼女は知っているのだろうか。
そして――……『俺』は彼女にそんな部分までさらけ出していたのだろうか。
「もう……やめてもらえませんか……?」
「……え?」
静かな声だった。
反射的にそちらを向き――……そして、瞳が丸くなる。
まるで、思いつめているかのような。
はたまた、決意しているかのような。
そんな、静かながらも芯のある強い瞳が俺をまっすぐに見つめていた。
「……誰のせいでもないんです。先生は、悪くないんですよ……?」
「でも、それは……」
「怪我が治った今、だからこそこれからを見てほしいから……っ……だから、私……! 私、この前先生に……っ!」
まるで、泣いているかのように見えた。
――……実際には、泣いてなどいない。
それは事実だ。
しかし……なぜ、だろう。
間違いなく今、俺は彼女を――……傷つけた。
それがわかった。
頭で。
そして、身体で、雰囲気で。
何気ないひとことだったにもかかわらず、彼女がツラそうな顔をしている今。
……なぜ、かがわからない。
こんなつもりはまるでなかったのに。
なのに……結果は、コレ。
眉を寄せ、俺を見つめている彼女は、寂しげに……そして切なげに、ただただ俺を見つめていた。
「こうして家に上げてもらえたのは……すごくすごく、嬉しかったです。……だけど……」
ゆっくり立ち上がった彼女が、畳んだ服を抱いて立ち上がった。
……そんな顔させるつもりはなかった。
できることならば俺はただ――……もう少しでも、彼女の気持ちに応えられればと思っていただけなのに。
「……その言葉は……謝罪じゃないですよね?」
「っ……!」
涙が見えた気がして。
微かに唇が震えていたようにも見えて。
「っ……! 羽織ちゃん!」
失礼します、と小さく口にしてから頭を下げた彼女を追うも、俺より先に玄関へと行ってしまっていた。
「違う……んだ。その……そんなつもりじゃ……!」
靴を履き、背を向けたままの彼女。
だが、やはり彼女がまたあの笑顔を見せてくれるようなことはなかった。
「……ありがとうございました」
顔を見ることなく、背中越しに告げられた言葉。
「っ……」
静かにドアが閉まり、言いようのないもどかしさと、いたたまれなさが身体に満ちる。
……泣かせた。
もう二度と、そうするつもりはなかったのに。
考えも――……しなかったのに。
願っていたのはただ、彼女が俺のせいで泣くことなく、穏やかに和やかに笑ってすごしてくれることだけだったのに。
「……ッ……!」
言いようのない感情に、思わず壁を叩いていた。
びりびりと拳に遅れて走る痛み。
そうじゃないだろう。
――……まるで、警告。
その言葉は、内なる自分からのメッセージのように思えた。
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