いつしか、時はすっかりこの月特有の色を見せ始めた。
毎日のように降り始める雨。
……とはいえ、自分は行きも帰りも車を使っているので、苦ではない。
傘を使う距離なども、ごくわずか。
学生のころを考えれば、まったくと言っていいほどになっていた。
「…………」
――……結局。
彼女との関係も、そこまで変化を見せるでもなく過ぎていた。
あいさつはごく普通に交わす。
だが、特に何か目立ったことをするでもなく。
学食で会うといっても、あいさつや雑談程度。
ともに昼食をとることはない。
……あの日。
彼女が俺に向けた言葉は恐らく……いや、考えるまでもなく真実であろう。
しかし、だからといってそれ以上の何かを求めるでもなければ、行動に移すでもなく。
……宣誓か。
まさに、その通りだな。
むしろ自分のほうが、よっぽどあの言葉を引きずっている。
惜しげもなく笑顔を向けられれば、ガラにもなくどきりとし、そんな笑顔が見れることで、ほっとしてもいる。
……だが、逆に彼女の笑顔が見れないとなると、ひどく落ち着かず、内心焦ってすらいて。
なぜかはわからない。
いや、ただ単にわかろうとしていないだけかもしれないが。
「…………」
そういえば俺は、彼女のことをそう簡単に呼んでないんだよな。
以前は『羽織ちゃん』そして少し前までは――……『羽織』。
正直、迷うんだ。
……俺が呼んでいいものなのか、と。
軽々しく、口にしていいものなのか……と。
彼女は、俺を呼んでくれるようになった。
だが、反対に口にできない自分。
そんな俺は、彼女にいったいどう映っているのだろうか。
それが、不安というか気がかりというかでもある。
……変わった、よな。
明らかに自分で感じる変化。
それこそ、先月の今ごろはまだ毎日戸惑ってばかりで、『現在』を否定的だったのに。
それが今ではどうだ。
まるで、すべてを受け入れてすらいるかのようじゃないか。
……ヘンなヤツ。
もしかしたら、1番困ったヤツは俺なのかもしれない。
「……ん?」
3限が終わり、この天気のせいかすでにあたりが薄暗くなり始めた現在。
借りた本を返すべく図書館への渡り廊下を通っていたのだが……ふと、足が止まった。
目線の先には、学食の入り口。
……いや。
正確にはその少し右だ。
「…………」
そこに、彼女がいた。
――……ただし、普段とはまるで雰囲気が違う。
そう。
明らかに、困っているのがわかる。
身を寄せるにはほとんど屋根などない場所。
そのせいで、雨どいを流れる水が滴となって落ちてもいる。
……そういえば。
今なら目に付いて当然のモノが、見当たらない。
それどころか、まるで最初からそれを手にしてすらいなかったような……。
「…………」
傘、だ。
あるはずだろう?
今朝からずっと、この雨は降り続いているんだから。
……それなのに、なぜ?
どうして持っていない?
それどころか、遠目からでもよくわかる……その姿。
肩を雨で濡らしているせいか、ブラウスが透け、わずかながら肌が見えているようにも伺える。
困っているのは当然だ。
傘を持たず、ほぼ全身がびしょ濡れ。
ハンカチであちこちを拭った程度では、とてもじゃないが乾くはずない。
「……っ」
なぜ、だ。
そんな姿を見ていたら、いつしか本来の目的だった方向とはまるで違うほうへと駆けていた。
切なげに空を見上げているのが、目に入ったからかもしれない。
確かに、それもひとつの要因ではあるが……違うことはわかっている。
……そんなのが理由じゃない。
ただ、自分でもどうしようもないのだが……このまま見過ごすわけにはいかなかった。
なぜ、と聞かれても答えなど出ない。
…………ただ、なぜか。
考えるよりも先に、足が動き出すのが先だっただけ。
「っ……あ……」
ぽつぽつと雨粒が肩に当たり、そこから冷たさが滲む。
こうして近くまで来て一層、彼女の置かれている状況のひどさがわかった。
驚いたように俺を見上げるその瞳。
だが、髪先からはぽたぽたと滴が落ち、さらに服を濡らしていた。
決して、無事とはいえない表情。
心なしか、唇も青ざめて見える。
「……先生……」
「家に……」
「え……?」
「家に、来ない?」
少し戸惑っている彼女の言葉を遮るようにして、口にしていた。
間違いなく、彼女自身戸惑っているはずだ。
……これまであいさつ程度しかせず、それ以外の余計な口出しなど一切しなかった俺が、まさに突然言い出したんだから。
「え……っあ、でも……」
どう答えていいのか。
はたまた、俺のその言葉がどんな意味を含んでいるのか。
それをまるで見極めるかのように、彼女が指先を顎に当てた。
――……本来なら、そこで『仕方ないことだ』と諦めがつくか、はたまた自分で何を言い出したのかと我に返ってもおかしくない。
……だが、違った。
俺には、そんなことをするだけのもしかしたら余裕というモノが、すでに失われていたのかもしれない。
「っ……!」
「ほっとけないんだ……!」
まっすぐ見つめるのは、明らかに俺を見て驚いている彼女。
瞳を丸くし、薄っすらとその唇を開いている。
……当然、かもしれない。
なぜなら彼女は、こんな俺を知らないだろうから。
「君を見ていると……放っておけないんだ」
彼女の腕を掴んだ手に力を込め、できるだけこの気持ちが伝わるようにとガラにもなく願いすらする。
こんなふうにあとのことをまったく考えずに、行動した今。
果たしてこんな馬鹿で浅はかなことを――……今まで俺は、したことがあっただろうか。
「……いい……んですか……?」
しばらくして口を開いた彼女を見ながら、そこでようやく自分が報われたような……そんな不思議な安らぎが、身体に広がっていたのに気付いた。
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