「ほんっと、ココの牛乳っておいしいのよねー」
「みたいだね。たーくんも、よく言ってたよ」
「あ、やっぱり? んもー、さすがはたっきゅん。話わかるわー」
 ごはんを食べたあと、絵里がいつものように牛乳を買いに向かったのは、学食のすぐ裏手にある農学部の購買。
 そこには、ここで作られた本当に手作りの牛乳やヨーグルト、チーズなんかが売られている。
 ……ソフトクリーム、おいしいんだよね。
 天気がいいから外で食べようという話になって買いに来たんだけど……相変わらず、結構混んでるらしい。
 行列もできていて、背中や頭が幾つも見えた。
「……ん? どうしたの?」
 いい天気だし、みんなやっぱり考えるのは同じようなことなのかな。
 なんてことを考えながらふたりのあとを付いて行ったんだけど……なぜか、急に足を止めてしまった。
 ちょうど、目の前に立たれているのと、その先に幾人も連なっているということもあって、先に何があるのかわからない。
「行きましょ」
「え? どうしたの?」
「売り切れなんだって。今日は。牛乳が」
「……えぇ? なぁに? 急に」
 目線をまったく合わせてくれずに、回れ右した絵里が私の肩を掴んだ。
 しかも、その顔。
 それは、あまり『残念』という感じじゃなくて……むしろ、ちょっとした焦りというか、怒りというか……とにかく、今の今まで笑っていた彼女とは思えない表情。
 不機嫌そうなことだけは、確か。
「ねぇ、なぁに? どうしたの?」
「だから、売りきれなのよ! ほら、むこう行ってアイス食べましょ!」
「あ、えっ……! で、でも、ほら! あそこで買うのが――」
「いいのよ!」
 珍しく強引に手を引き、ずんずんそちらへと歩いていこうとする絵里。
 葉月も葉月で、そんな絵里に何も言わず、ただまっすぐ前を向いて歩いていた。
 ……ただ、ひとつ。
 その表情は、どこか絵里と同じで厳しいようなものがあったけれど。
「……もぅ。いったい何が――……っ」
 まるで、子ども。
 手を引かれて、そちらを見たまま足を動かす。
 ……だけどね。
 私は、もう、そんな小さな子じゃないから。
「っ……羽織!」
 唇が開くと同時に、足が重たくなった。
 それに気付いたんだと思う。
 手を引いてくれていた絵里が、慌てたように私を呼んだ。
 さわさわと風に揺られる木々が音を立てる、本当に心地いい場所。
 ここは、学生にとっての安らぎの場でもあった。
 私はまだ入ったばかりだし、そこまで大学のことを詳しく知っているわけでもない。
 ……でもね……?
 でも、それでも……なんていうのかな。
 フィーリングとでもいうのか……やっぱり、気持ちいい場所って人それぞれあるじゃない?
 ここも、そのひとつなんだよね。
 私にとっては、すごくすごく癒される場所だった。
「………………」
 学食の裏手にあるここは、小さな池がある。
 ……小さいって言っても、それなりに大きいんだよ?
 直径だと、だいたい4mくらいかな?
 湧き水でできている、きれいな池。
 そこには、ぐるりと円をかたどるようにベンチが置かれている。
 ……そして、木。
 そんなに大きくはないけれど、でも、いつもきれいに手入れをされている木々が、木陰を造ってくれていた。
 気持ちいい、場所。
 私も、ここに来るのは大好きだった。
 そして――……彼も。
 いつだったか、話してくれたんだよね。
 学食の裏手にこういう場所があって、そしてよくそこで、休んだって。
 たまに昼寝したり、授業を自主休講したり……なんて。
 彼らしくないなぁなんて思いながら、笑って一緒に話したことがある。
 ……だから、特別だった。
 大学に入ったら、まずここに来ようって。
 そう決めて、彼と一緒にここでごはんを食べる約束もした。
 ……した、の。
 彼と一緒に。
 ここで、一緒に……過ごそう、って。
「………………」
 ざぁっと一陣の風が吹いて、木々が大きな音を立てた。
 髪がなびき、頬に当たる。
 ……だけど。
 まるでその風が払ってくれたかのように、目の前が開けた。
 さっきまでは、あんなに沢山の人がいたのに。
 それなのに――……今は何も遮ることなく、ハッキリと姿が見えている。
「……私……」
「え……?」
「大丈夫、だったんだけどな……」
 ぽつりと呟くと同時に、情けなくも苦笑が浮かんだ。
 まさか、こんな場所でこんなシーンを見ちゃうなんて。
 ……なんだか、試されてる以上の試練を与えられた気分だ。

 これでもまだ、彼が振り向いてくれると思ってるの?

 ……と。
 運命の神様に、嘲笑されているような気分。
「………………」
 目の前に彼がいる。
 ここから、ちょうど池を挟んだ向こう側に。
 ……でもね。
 ひとりじゃないの。
 その隣には――……まさに女子大生という雰囲気の、きれいめの格好をしている人。
 一緒の学部なのかな。
 ……それとも、違う学部……?
 ぐるぐるといろいろなことが巡るけれど、でも……そこじゃないの。
 目に入ったとき、少しだけ苦しくなった理由は。
「………………」
 日が、差している。
 木陰の間を縫うように、白い光が。
 ……そして。
 それが、彼女に当たっていた。
 その、髪。
 その、肩。
 そして……その、顔に。
 隣に立っている彼は、真面目な顔をして彼女が持っている本をときおり指差しながら何か話していた。
 ……でも。
 気付いた、の。
 そうだよね。
 だって彼は……優しい人だから。

 眩しそうにした彼女に、手にしていたファイルをかざしてあげた。

 本当に、スマートに。
 なんの躊躇もなく。
 途端、彼女はすごく意外そうな顔をしてから……だけど、すごくすごく嬉しそうに微笑んだ。
 ……嬉しい、よね。
 そうだよね。
 ましてや――……少しでも、好意を抱いている相手だったりしたら、絶対に。
「っ……」
 ぎゅ、と鞄を握り締めたとき、ポケットに入れていた携帯が地面に落ちた。
 幸いここはコンクリートではなく、土が剥き出しの場所。
 小さく1度弾んだそれは、特に目立った傷ができたわけでもなく、そこに横たわった。
「…………っ」
 拾おうとかがんだとき、自分が唇を噛んでいたのに気付いた。
 ……泣かないように、かな。
 それとも、悔しがったりしちゃダメだってこと……?
 ゆっくり指先で触れてから拾い上げ、付いた土を払う。


 ――……もちろんだけど。
 ほかのどんな子より特別なのは、羽織ちゃんだけだよ?


 いつだったか……彼が言ってくれた言葉だ。
 いつだって自信がなくて、不安で、たまらなくて……。
 ……それでも彼は、私に笑ってそう言ってくれた。


 ――……1番かわいくて、特別で。
 沢山の生徒にとっての“先生”だけど、羽織ちゃんだけの“先生”がいいかな。
 俺が担任だったら大変だね。贔屓しまくり。


 彼に言ってもらえるのが、何より特別で。
 どんなものよりも、1番に効いた。
 ……安心できる。
 誇らしくなる。
 彼に認めてもらえたことが、何よりもの自分のステータス。
 存在価値があるんだって、そう……思えた、から。


 ――……羽織ちゃんにしか、しない。
 当たり前だろ?
 俺にとっての特別は、羽織ちゃんだけなんだから。

「っ……!」
 ぎゅ、と携帯を握り締めると同時に、そこから足早に去る。
 逃げるようでもあったはず。
 ……だって、怖かったから。
 彼に見られるのが。
 そんな彼と目が合ってしまうのが。
 そして――……彼が、どんな反応をするのか、が。
「羽織!!」
 絵里が大きく名前を呼んだ。
 ……いいの。
 呼んでくれなくていい。
 今だけは、何も言わず見送ってくれていい。
 ……ほうっておいてくれても、いいんだよ……?
 だって私、今、すごく嫌な子になってるんだから。


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