「先生……?」
「……え?」
「もー。ちゃんと聞いてくれてました?」
「あ……いや。悪い」
 彼女の声で我に返るも、呆れたような不服そうな、そんな表情を向けられた。
 ――……今は、昼休み。
 久しぶりに晴れ間を覗かせた、天気のいい午後の始まりだ。
 今日は、ずっとこんな調子。
 朝からずっと、ぼうっとした時間が続いていた。
 ……頭が起きていない。
 だからこそ、気分も上がらない。
 なんとも具合の悪いこの気持ちは、果たしていつまで続くのだろう。
「………………」
 理由は、わかってる。
 それはやはり――……朝方に見た、あの、夢のせい。
 ハッキリし過ぎている、やけにリアルなモノで。
 一瞬、起きたときに現実と混同しかけたほど。
 なんだったんだろうか、アレは。
 そう考えてはみるものの、答えなど当然出るはずもない。
 ……ただ、ひとつ。
 間違いなくアレは、俺自身が見た夢だということ。
 それがまるで何かを暗示しているような気がして、ひどく落ち着かなかった。
 笑みを浮かべ、彼女に手を伸ばす。
 ……しかも、なんの躊躇もなく。
 あんなふうに笑うのか。
 あんなふうに言えるのか。
 夢の中をひとり歩きする自分自身を第三者の目で見ながら、そう自問していた。
 ……そう。
 俺は、決してあの夢の主人公じゃなかった。
 アレは、『俺』で。
 自分はずっと、目の前で起きている物事を傍観するかのようにどこか違う場所に立っていた。
 眺めていたんだ、ずっと。
 一連の様子を、端から……まるで観客のように。
 ……結婚式。
 しかも、彼女の。
 なぜ、今から7年後なのか。
 そして……なぜ、式でなければならないのか。
 そのあたりの疑問は、夢だからこそ誰に問おうと答えなど出るはずもない。
 それはわかっている。
 しかし――……。
「………………」
 この時間、普段なら彼女はまだ学食にいるだろう。
 あの子自身は、何も知らない。
 ただ、俺が勝手に見た夢の話だから。
 ……それでも、なぜか。
 なぜか今だけは、彼女に合わせる顔がなかった。

『もう……やめてもらえませんか……?』

 精一杯、泣くまいと堪えながら俺を見たあの子の顔が、今もまだ鮮明に浮かんでくる。
 ……俺のせい。
 それは間違いないのだが……しかし。
「…………」
 俺はどうしたかったんだろう。
 何をしたかったんだろう。
 ただ、彼女を傷つけるような言葉しか言えず、挙句の果てには逃げるように避けているだけで。

「…………」
 ぼうっとした時間が続いていた。
 ……それは……もう、昨日のあのとき。
 久しぶりに入ることができた、彼の家に行ったときから……だ。
 何もかもが変わっていなくて。
 本当に、懐かしくて。
 ……もう……そう思っちゃうほど、来てなかったんだな、って。
 入った瞬間、泣きそうになった。
 匂いも、物の位置も、何もかもが一緒。
 何も変わっていない、彼の家。
 ……ただ、あの日から……私があそこを出たあの日から、また、彼だけが過ごす家になったというだけで。
 突然の雨に打たれ濡れてしまったとき、正直すごく心細かった。
 お兄ちゃんは仕事中だし、葉月や絵里は違う授業があるし……。
 傘を3号館に置き忘れてきたことをすっかり忘れていて、慌てて辿り着いたのが学食前。
 ハンカチで拭った程度じゃどうにもならないのはわかっていたけれど、でも、あのままびしょ濡れでいるのが嫌だった。
 なんともいえないほど、切なくて。
 ひとりきりであんな状況になっているといたせいか、余計にしんどく感じた。
 ……でも。

『ほっとけないんだ』

 そんなとき、彼が私にくれた言葉。
 ……まさか、って思った。
 だって、相手は彼で。
 これまでそんなふうに言ってくれたことはもちろんなかったし、それに……。
「…………」
 そっと左手に触れる。
 ……彼が、触れてくれた場所。
 力強くて、大きくて。
 何も変わってない、彼だった。
 あんな表情見たの、久しぶりかもしれない。
 ……そして、あの言葉も。

 なんか、ほっとけないんだよな。
 俺がなんとかしてやらなきゃ、って。……俺がいなきゃダメなんだなって、心底思う。

 ほんの少し前、彼が私に言ってくれた言葉。
 微笑んで、そして……いたずらっぽい顔をしたあのときの彼と、ダブって見えた。
 ……泣きそうになったの、見られちゃったかな。
 まっすぐに私を見てくれた彼が、大きくて、温かくて……しっかりしていて。
 なんだか、一瞬彼があのころに戻ってくれたような気がして、すごくすごく琴線が震えそうになった。
「…………」
 ――……7月。
 今年もまた、この季節が巡ってきた。
 滲んでしまいそうになる涙をこらえるように上を向くと、相変わらずきれいに晴れている空が目に入る。

『俺には、これくらいしかできないから』

 あの言葉は……きっと、私が思ってるようなことじゃないって、わかってる。
 ……でも、少しだけつらかった。
 もしかしたら……なんて勝手にとはいえ、私は彼に期待したから。
 だから……あの言葉はまるで、『これ以上のことは何もしない』と言われているように思えて泣きそうになった。
 ……もう、好きになってもらうことはできないのかな。
 さすがに聞くことはできず、慌てて逃げるように家をあとにしていた。
 だって、あそこで泣いちゃったりしたら……絶対、彼が困るから。
 それだけは、したくなかった。
 困らせて……まるでワガママな駄々っ子みたいに、話を聞いてもらうなんてことだけは、絶対に避けたいと思った。
「………………」
 両手で教科書の入ったバッグを抱えながら空をもう1度見上げると、やっぱり目に痛いほどの明るい色が満ちていた。
 夏がくる。
 今年もまた、去年と同じ…………“始まり”の夏が。


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