今日は、いつもより目が早く覚めた。
 いつもより、ごはんを少しだけ多く食べた。
 そして……いつもはお兄ちゃんと葉月の3人で大学に行くんだけど、今日は違った。
 久しぶりに、ひとりでバスを使って大学まで来た。
 ……なんだか、本当に久しぶり。
 だって、去年はずっと――……大学へは彼の車でばかり行っていたから。
 バスの窓から外を眺めると、夏の制服に着替えた冬女の子たちが学校方向へのバスを待つために、何人か停留所で話しているのが見えた。
 手にあるのは、懐かしい参考書。
 ……化学。
 そういえば私も、ああやって眺めてたんだよね。
 同じモノを使って、だけど――……彼女たちとは違う、特別な先生に教わって。
「…………」
 窓に少しだけもたれると、瞳が閉じた。
 そういえば今、彼女たちはどの先生に教わっているんだろう。
 毎日がドキドキして、見ているだけでも嬉しくなっちゃうような……そんな先生に教わっているのかな。
 ……私はそうだったの。
 1年前の私は、ちょうどこの時期――……毎日がすごくキラキラしてた。
 好きな人の声を聞けて。
 好きな人に名前を呼ばれて。
 遠くからでしかなかったけれど、好きな人の書く字を一生懸命追いながら、授業をわかろうと必死だった。
 少しでもいい。
 彼の特別になれなくてもいい。
 でもせめて、今日も話ができますように。
 ……そう。
 私は、特別だった。
 だって、彼とは無条件で話ができる立場にあったんだもん。
 教科の連絡係って、すごくすごく特別。
 笑いかけてもらえて、普段の授業で見る姿とはまた違う部分を見ることができるんだもん。
「…………」
 閉じていた瞳が、ゆっくりと開く。
 ……あぁ、そうか。
 そういえば、去年の今ごろは……私も彼女たちと本当に同じように、朝から教科書と睨めっこしてたんだっけ。
 1学期の期末テスト。
 私にとっては思い入れの深すぎたあのテスト期間は、どんなイベントよりもずっと特別に感じられる、本当に大切なものだった。

「…………」
 お昼の学食は今日もやっぱりいつもと同じように混んでいて、いつもと同じようなメニューを食べている人たちが見える。
 そして、絵里もそう。
 やっぱり、この前と同じような日替わりBランチを食べていた。
「ねぇ、羽織」
「ん?」
「アンタ……まさか、お昼ごはんそれだけなんて言わないわよね?」
 スプーンをコーンスープの入っていたマグに入れた絵里が、怪訝そうに私を見つめた。
 ……それ。
 一瞬落ちた彼女の視線は、私の手元にあるドーナツに注がれたんだけど……。
「……ダメ……かな?」
「ダメに決まってんでしょ」
「……ぅ。で、でも……」
「でも、じゃないの! ……ったく。アンタ、今朝もロクに食べなかったんだって?」
「……それは……」
 ため息をついた彼女に理由を問うまでもなく、わかってること。
 ……わかっては、いるんだよ?
 私だって、ちゃんと食べなきゃいけないっていうのは。
 だけど、何を食べたらいいのかよくわからないんだもん。
「………………」
 食べかけのドーナツを袋に置くと、ため息が漏れる。
 ……おなか空いてないんだもん。
 なんて言ったら、ふたりは絶対私を叱ってくれるよね。
「ねぇ、羽織。もう少し、たんぱく質摂らないと……身体、もたないよ?」
「……うん」
「それに、次の時間は実習なんでしょう?」
「それは…………うん……」
 そう。
 次の時間は、ようやく行える心理学の実習。
 実習といっても、きっと何か特別なことをするってわけじゃないんだろうけれど……でも、すごく楽しみだった。
 やっと、話を聞くだけじゃない授業がある。
 そのことがわかった先月から、もうずっと楽しみで葉月には話してたんだよね。
「…………」
 わかっては、いるの。
 でも、どうしたらいいのか……よくわからなくて。
 ……どうしても頭から離れてくれない、あのときの光景。
 彼は優しい人。
 それは、きっと私が誰よりも1番よく知っている。
 ……でも、だからこそやっぱり、つらかった。
 私だけが知ってる部分だと信じきっていたから。
 そんな勝手な自惚れと勝手な自己満足のせいで、勝手に傷ついてるだけなのに。
 …………彼は何も悪くないのに。
 勝手に落ち込んで、勝手に不安になって、そして勝手に……また傷ついたみたいに思ってる。
 ずるいのに。
 そんなに心配なら、勝手に思い込んでないでちゃんと彼に聞きに行けばいいのに。
 そして――……ちゃんと、答えを貰えばいいのに。
 YesでもNoでもいいから、彼のちゃんとした答えを。
「………………」
 そんなふうに、頭では思っていた。
 だけど……実際は、全然違う。
 Noという、返事。
 それを彼が向けてくるであろう姿ばかりが容易に想像できてしまって、だからこそつらかった。
 ……Noって言われたら、私……そのとき……どうなるんだろう。
 怖い。
 彼が離れていくのが。
 彼が……私を見てくれなくなるのが。
 私じゃない、ほかの誰か。
 その人に笑いかけて、抱きしめて……キス、をして。
 彼の“特別”が自分じゃなくなってしまうのを認められなくて、信じられなくて、うなずけなくて。
 自分勝手な私は、そうされるのが怖くてただ逃げている。
 ……彼にとっては、はた迷惑以外の何物でもないってわかってるのに。
 ずるいの。私は。
 だって、自分が傷つくのが怖くて、彼を傷つけてばかりいるから。
 ……本当は、こんなことになる前にもっと何か方法があったはずなのに。
 なのに、思いつかなかった。
 考えられなかった。
 もう1度、好きになってもらう。
 簡単なようで、それは全然簡単でも単純でもない、計算なんかじゃ絶対に弾き出せないようなことだから。


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