「…………あのね、羽織」
「……え……?」
「見せたいものがあるの」
どれくらい、沈黙が漂ってからだろう。
テーブルの上で手を組んでいた葉月が、静かに言葉を呟いた。
「……?」
見せたいもの。
それがいったい何なのかは、わからない。
だって、今朝だって葉月はいつもと何ひとつ変わらなかったから。
いつものようにごはんを作ってくれて、いつものように『おはよう』って笑ってくれて。
「え……?」
だから、彼女がバッグから取り出した『見せたいもの』を目にしても、正直それが何なのかよくわからなかった。
小さなノート……のように見える、これ。
そっと手にしてから彼女を見ると、笑みというには穏やかすぎる表情があった。
「それね、今朝ポストに入ってたのよ」
「……ポストって……うちの?」
意外な言葉だった。
どこからどう見てもノートでしかない、これ。
確かに、もしかしたら封筒なんかに包まれていたのかもしれない。
……でも、なんだかそんな感じはあまりしなくて。
むしろ、これだけがそのまま投函されていたような……そんな気がしてくる。
「見てみて」
「……いいの?」
「ん。羽織にとって、大切なことだから」
葉月を見ると、小さくうなずいてからノートに視線を落とした。
始終変わらぬ、静かな声。
……それが、なんだか不思議。
まるでカウンセリングでも受けているかのような、不思議と穏やかな気持ちになってくる。
…………だけど。
それは、私がノートの中身を見るまでのほんの少しの間しか続いてはくれなかった。
「っ……これ……!」
中を見て、瞳が丸くなる。
だって、そこに書かれていた、言葉。そして、文。
それらすべてには、確かに見覚えがあったから。
「これ……え、な……んで? ……どういうこと……?」
書き込まれているページすべてを見てから葉月を見ると、表情を変えないままで、1度視線を落とした。
……でも、待って。
だって、ここに書かれている字って……葉月の、だよね?
なのに……どうして?
なんでそれが、ポストに入ってるの?
……というか、それよりもまず。
葉月は、どうしてこんなことをノートに記したりしたんだろう。
「そのノートはね、昨日瀬尋先生に貸したものなの」
「っ……!」
ごくり、と喉が鳴った。
でも、それだけじゃない。
かすかに鳥肌が立ったから。
「あのままじゃいけないと思ったから」
「……え……?」
「羽織、瀬尋先生から離れようとしてる?」
「っ……」
決して、鋭い瞳じゃない。
鋭い言葉じゃない。
……でも、葉月の表情は、声は、普段よりもずっと強く心に入って来た。
まるで、見透かしているかのような、落ち着いた声。
そんな葉月と同じように、隣にいた絵里も少しだけ心配そうな顔を私に見せた。
「それは、正解じゃないよね?」
「……でも私、自信……なくて……」
ぽつりぽつりと、本音が漏れる。
まるで、叱られてる子みたい。
……でも、本当のこと。
あんなきれいな人へ普通に優しくしている彼を見たら、嫉妬というか妙な独占欲というか……そんな醜いもので、いっぱいになりかけたから。
「いいと思うわ。私、羽織が離れることをダメだって言わない」
「絵里……」
ちゅー、と音を立ててジュースを飲んだ彼女が、葉月とはまた違った鋭さをたたえた瞳で私を見た。
「だってそうでしょ? あの、瀬尋先生よ? 四角四面で、物事を必要か不必要かだけで決めてるような、一切『あそび』を必要としない、そんな人よ?」
「……それは……」
「そんな人と羽織が一緒にいて、羽織が幸せになるはずないもの。絶対よ、絶対。断言できるわ」
「……そんな……」
「だってそうでしょ? もし付き合ったところで、羽織が幸せになるはずない。気苦労ばかり強いられて、羽織が苦しい思いをするだ――」
「っ……そんなことない!!」
がたんっと音を立てて、気付いたら椅子から立ち上がっていた。
……なんで、だろう。
どうして、こんなふうにしたんだろう。
その理由はわからないけれど……だけど……なんでかな。
絵里の、普段とは違う……まるで彼をけなすような口調を聞いていたら、自然と身体に力が入っていた。
「……あ……」
ふたりを見てから慌てて座り、視線をまた手元に落とす。
……だけど。
そんな私を見てから顔を見合わせたふたりは、一緒のタイミングでくすくすとおかしそうに笑い始めた。
「……ったく。答え、出てるじゃない」
「え……?」
「もっと素直になったらいいんじゃないかな?」
先ほどまでと一変した、この場の雰囲気。
少しだけ内心慌てながらふたりの顔を交互に見比べるものの、笑顔でうなずくだけだった。
「「好きなんでしょう?」」
なんだかんだ言っても。
次の瞬間にはそんなことハモって口にされ、何も言えなかった。
ただ軽く唇を噛み、視線をわずかに落とす。
……それは、否定の意味からじゃない。
困った末の行動でもない。
ただ……少し、恥ずかしかっただけ。
結局私は、彼という人から気持ちも何もかも離れることなんてできないんだから。
ただの、我侭を言っているだけ。
彼のことが好きで大切でたまらなくて、だからこそ……振り向いてほしくて。
「……私……」
「行きなさいよ、早く」
「お昼休み、終わっちゃうよ」
ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がったふたりが、それぞれ私の手を取った。
まるで、『早く』と急かさんばかりに。
「でも……っ……でも、私……」
「いいから!」
「そうよ。早く行かなきゃ」
ふたりの表情は、とても穏やかで。
温かい眼差しのまま、うなずいて『ほら早く』と手を振る。
……わかってる。
そのつもり。
でも、やっぱりなんだか……照れくさい、じゃないけれど、ちょっとだけ踏ん切りがつかないだけ。
――……だけ、ど。
「……ん。行ってくる」
「お。やる気になったわね」
「いってらっしゃい」
このままじゃいけない。
そうわかったから、自分から行動を起こした先日。
だから……だめ、だよね。
このまま、ただひとりでうじうじしているだけじゃ。
動かなきゃ。
自分から行動しなきゃ、大切なものなんて絶対に手に入りっこないんだから。
それが……この世の中の、法則なんだから。
「……うんっ」
立ち上がって、ひと息ついてから背を正す。
向かうのは、ただひとつ。
ここからは少し離れている、彼のいるであろうあの場所だけ。
「……じゃ、行ってくるね」
改めてふたりを見てから呟くと、そんな私を見てどこか嬉しそうに微笑んでくれた。
……その顔。
ふたりの笑顔につられるように、自分にも笑みが浮かんでいたのは言うまでもない。
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