音のない時間。
 ……だけど……
「…………」
 さらり、とした感触が手にはある。
 そして、身体全体が温かいような……そんな感じも。
 部屋には、相変わらずゆったりとした時間が流れている。
 ……心地いい場所、やっぱりここ……そうだよね。
 改めてドアから窓までぐるりと見つめると、顔が緩んだ。

『ちょっと……休ませてくれない?』

 しばらく経ってから、彼はぽつりとそう言った。
 休む。
 その理由が最初はぴんと来なかったけれど、でも、私はもちろんふたつ返事で了承した。
 ……した……のはいいんだけど。
 にこにこしたままでいたら、すごく困ったように笑われたんだよね。
 それも、当然。
 だって、そのときの私は『休む』のちゃんとした意味がわかってなかったんだから。
「…………」
 視線をすぐ下へ落とすと、瞳を閉じて安らかな顔をしている彼がいる。
 ……膝枕、なんて久しぶり。
 でも、だからこそちょっとだけおかしかった。
 だって、彼はこれまで一度も断りを入れたことなんてなかったんだもん。
 いつだって、隣に座ってそのまま……横になって。
 だから、改めて言われるとなんだか照れくさい。
 ……でも、それが……ちょっと嬉しい。
 彼の新たな部分、だよね。
 間違いなく。
「…………」
 撫でるように髪へ触れると、何ひとつ変わっていない感触があった。
 柔らかくて、さらさらしてて。
 ……でも、こんなに安らかな顔を見せてくれるなんて。
 それもまた、やっぱり嬉しい。
 …………どうしよう。
 なんだか、嬉しいことが沢山で、顔がついつい笑っちゃう。
 だって、こんなこと今までできなかったんだもん。
 それが、今日になって急に……今までずっと求めていたことが、どれもこれも現実になって。
……叶っちゃった。
 私の、夢。
 ずっとずっと、そうなればいいって抱き続けていた想いが。

 ――……ずっと、あちこち巡ってたんだ。

 彼は静かに横になると、まっすぐ私を見上げた。
「……いろんな場所行ったんだね」
 伸ばした指先で、頬に触れてくれる。
 そのとき、なんだかそこから不思議なものが注ぎ込まれてきたような気がした。
「……あ……」
 さっきの、葉月の言葉。
 アレが頭に蘇る。
「祐恭さん、もしかして……っ……」
「……ん。見てきたよ。……一応、にしかすぎないけど」
 苦笑を浮かべた彼が、瞳を閉じた。
 ……ずっと。
 きっと、ずっと彼は走っていたんだろう。
 だって、あのノートに記されていた場所は、ひとつじゃない。
 それに全部が全部県内であるわけじゃないし、遠い場所も結構あった。
 ……なのに……。
「………………」
 何も言えないまま、そっと頭を撫でるように髪に触れる。
 すると、彼が静かに息を吐いた。
「……また今度、行こうか」
「え……?」
「今度は、ふたりで」
 もう1度瞳を開いた彼が、まっすぐに私を見た。
 その瞳は、眼差しは、やっぱり……彼のもので。
「っ……はい……!」
 泣きそうになるのを悟られないように、目一杯の笑顔でうなずいていた。

「……ん」
 いつの間にか、自分も目を閉じてしまっていたのに気付いた。
 ……というよりは……ちょっと、寝てた。
 短く欠伸が出て、自然と目が時計に向かう。
 『昼休みが終わる10分前まで、こうしててくれる?』
 彼と約束した、その時間。
 ……の、ちょうど1分前。
 ずっともっと長く続くって思ってたのに……気づいたらもう、こんな時間。
 私も彼も、別々の3限に向かわなければいけない。
「あ……」
「…………は……ぁ」
 そんなことを考えていたのが、彼にも伝わってしまったのかもしれない。
 ふと彼を見ると、大きく伸びをしてから――……ゆっくり起き上がってしまったから。
 途端、これまでの温もりがなくなって、風が涼しく感じる。
 ……ちょっと……残念。
 久しぶりだけに、すごく嬉しかったから。
「……ありがと」
「あ、いえ……」
「結構、ラクになったよ」
 テーブルに置いていた眼鏡をかけ直した彼が、私を振り返った。
 その顔は、確かに……先ほどまでよりも、ちょっとだけスッキリしているように思える。
「っ……あ」
「……また、お願いするから」
「…………はい……っ」
 もしかしたら、寂しいなんて思いがそのまま顔に出ちゃっていたのかもしれない。
 身体ごと私に向き直った彼が、優しくまた抱きしめてくれたから。
「……祐恭さん」
「ん……?」
 ごく近くで囁かれる、声。
 それはとても優しくて、これまでとまた違った雰囲気を明らかに出していて。
「……ひとつだけ……私も、お願いがあるんです」
 ぽつりと囁くと、彼が少しだけ離れてから私の顔を見てくれた。
 ……ぅ。
 なんだか……あの、そんなに優しい顔で見つめられちゃうと、ちょっとだけ照れくさいというか、恥ずかしいというか……。
 ううん、でも決めたんだもん。
 ちゃんと言うって。
 私も……彼に、お願いするって。

「私のこと……『羽織』って呼んでもらえませんか?」

 自分からこうお願いすることが、こんなにもどきどきするなんて思わなかった。
 これが私の、願いという形のおねだり。
 最大であり、絶対の。
「………………」
 ――……だけど。
 彼はしばらく私をまっすぐに見つめたままながらも、何か言ってくれることがなかった。
 見つめたまま。
 唇をしっかり閉じて、私の表情を伺うかのように……しているだけ。
 ……もしかしたら、言っちゃいけないことを言ったのかな。
 これだけは、お願いしちゃダメだったのかな……?
 徐々に不安になって、言ったことを後悔する。
 ……でも、どうしてもそう呼んでほしかったの。
 彼だけが、特別だから。
 だから、どうしても……。

「……羽織」

「っ……」
「呼んでいいの? 俺が」
 私の頬へ手を当てた彼が、少しだけ心配そうに私を見た。
 途端、瞳が丸くなる。
「もちろんですっ……! そんな……祐恭さんだから、呼んでほしい……の」
 首を横に振り、精一杯彼に今の気持ちが伝わるようにアピールする。
 そんな顔しないで。
 だって、そう呼んでほしいのは、あなただけだから。
 あなた以外の、誰でもないんだから。
「……そっか」
 どこか、ほっとしたように。
 静かに囁いた彼が、小さくながらもうなずいた。
 ……よかった。
 ぎゅ、とまた抱きしめてもらえて、それがやっぱり嬉しくて。
「……嬉しい……」
 彼に寄り添ったまま瞳を閉じると、笑みが浮かんだ。
 ……これで、何もかもが一緒。
 これまでの私たちと、何も変わらない。
 ――……そう。
 これから、なんだから。
「……いつでも、来ていいから」
「え?」
「いや、その………むしろ、来てほしいっていうか……」
 ぽつりと呟いた彼を見上げると、視線を逸らしながらさらに続けた。
 ……その顔。
 それが、やっぱりあのエレベーターで見た彼と一緒で。
「はい……っ」
 ついつい笑ってしまいそうになるのを堪えながらうなずくと、どうやら気付かれてしまったらしい。
 苦笑を浮かべた彼が、『参ったな』と小さく囁いたのが聞こえた。


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