ゆったりと時間が流れる場所。
 そう思えるのは、どうしてだろう。
「…………」
 リミットまで、あと15分。
 ……だから、もう少しだけ。
 あと少しだけ、このままが続きますように。

「……あまり……キレイな部屋じゃないけど」
 エレベーターが、屋上に着いてしまったあとで。
 彼とくすくす笑いながら戻って来た、3階の研究室。
 鍵を開けてくれながら、彼が少しだけ間を空けてから私を見た。
「そんなこと……」
「いや、本当に。……俺、片付けるの苦手なんだ」
 ガチャリ、と音を立てて鍵が開いたあと、ぽつりと独り言のように彼が囁いた。
 その顔は、まるで弱点がバレてしまったときの男の子のようで。
 ドアを開けてくれた背中を見ながら、つい笑みが浮かんだ。
「……わ」
「…………うん。そういう反応すると思った」
 久しぶりに来た、彼の研究室。
 最初に来たあのときは、彼の部屋の片づけを手伝うという名目で。
 そしてその次は、お茶を飲みに……というよりは、若干のお説教を聞きに。
 だけど。
 あのときもまだ、部屋はきれいに片付いたままだった。
 ……だからこそ、このギャップに一瞬口が開いてしまう。
 ため息混じりにテーブルを片付けようと動いた彼を見て、しばらくするまで動けなかったほど。
「……あっ。私、やります」
「いや、いいよ。……その……あんまりキレイなモノじゃないし」
「でも……」
「それに、ここまでやらなかった俺が悪いんだし」
 テーブルというよりも、その棚。
 ……になるのかな。
 そんな、いろいろな場所に置かれたマグカップを手にすると、見事なまでに底にはコーヒーの染みが付いていた。
 …………うーん……。
 もしかしたら、1度洗っただけじゃ落ちないかもしれない。
 でも、さすがに漂白剤があるとは思えないし……。
 ええと、あの、確かにお仕事柄、それに近いものはあるのかもしれないけれど。
「これはどこに置いたらいいですか?」
「ん? ……あー……それじゃ、こっちにでも」
「あ、はい」
 バラバラとまるで撒いてあるかのように机いっぱいへ広がっていた紙を集め、トントンと揃えてから彼に近づく。
 すると、いろいろな本やデータが走り書きされているようなメモやら書類やらを束で持ち上げながら、空いている場所を探して指示してくれた。
 ……空いている……っていうか、ここに乗せちゃっていいのかな。
 ひょっとしなくても、何かの拍子で雪崩が起きてしまいそうなんだけど。
「……ごめんね」
「え?」
「部屋に呼んでおいて、最初が……こんななんて」
 ようやくテーブルがテーブルらしく機能しそうなほど片付いたところで、彼が困ったように私を見た。
 でも、そんなこと私にはまったく関係なくて。
 ……だって、むしろ本当に嬉しいんだもん。
 また、こうして彼と一緒にいられるようになったということが。
「そんなことないです」
 自然と浮かんだ笑み。
 それをたたえたまま首を横に振ると、わずかに彼の表情も緩んで見えた。
 ……嬉しい。
 こんな彼を見れるようになったことが。
 そして、それを許してもらえるようになったことが。
 両手を合わせてぐるりと部屋を眺めながらソファに腰を下ろすと、懐かしいような……少しだけ照れくさいような。
 そんな感じから、また笑みが浮かんだ。
「……?」
 しばらく座ったままでいたら、彼がこちらに向かって来て――……だけど、なぜか足を止めてしまった。
 ……もしかして私、何かやらかしちゃったのかな……?
 テーブルにあった紙や、いろいろなものの行き先を聞かれるんじゃないか。
 そんなふうに思いながらきょろきょろと彼の視線の先を捉えるべくあたりを見ていたら、少しだけ困ったように彼が声をあげた。
「……その……隣、いいかな」
「え……?」
 こほん、と小さな咳払いが聞こえたような気がした。
 だけど、彼を見るものの……微妙に視線が合っていないような。
「……あっ。もちろん……! ……です」
 ぱっと顔を明るくさせ、慌てて少し隣にずれる。
 すると、少しだけ笑った彼が、ゆっくりと……隣に腰かけてくれた。
 ……こんなふうに断られると、なんだか……すごくどきどきする。
 だって、これまでは当たり前だったから。
 でも……最初は、そういえばこんな感じだったかな。
 沈んだソファと彼の雰囲気をすぐ隣に感じながら懐かしむと、自然にやっぱり顔が緩む。
「…………」
「…………」
 音のない、静かな室内。
 ときおり鳥の鳴き声が聞こえるけれど、それ以外は本当に静かで。
 電化製品特有の音もほとんど聞こえないし、もちろん人の話し声もないし。
 陽がさんさんと窓から降り注いでくるこの部屋は、窓が開いているものの、やっぱり少しだけ暑く感じられた。
「……あ」
「え?」
「いつも、こんなふうに座ってた?」
 もしかして、と付け足した彼が私を振り向いた。
 すぐ近くにある、顔。
 この距離が、なんだかちょっと恥ずかしい。
「こんなふうに、っていうのは……?」
「……いや、その……。実は、家のソファで……気付くとつい右側を空けて座ってたんだ。俺」
「っ……」
 少しだけ視線を宙に逸らした、彼の言葉。
 ……その、事実。
 それが耳に入ってすぐ、自然と瞳が丸くなった。
 思い出す……なんて大げさなものよりも、もっと自然に頭に蘇る光景。
「……それって……」
 そう。
 ……そう、なの。
 だって彼は、いつだって――……私の左側にいたから。
 右側には、私がいた。
 私の場所を、作ってくれていた。
 だから…………そう。
 彼が今でもそうしてくれていたとわかった今、何も言えないようなそんな気分でいっぱいになった。
「……そうです」
 ぽつりと口にすると、彼の目をちゃんとまっすぐ見つめていた。
「いつも、私は……祐恭さんの右に座ってたんですよ」
 笑みが浮かぶ。
 目の前の彼を、きちんと見てうなずいたままで。
 そんな私を見て、彼もまた少し瞳を丸くした。
 だけどそれはすぐに、穏やかな表情へと変わる。
「……よかった」
「あ……」
「ずっと違和感が拭えなくて、だけど理由がわからなくて。……そうか。いつも、俺は……」
 まるで、確かめるかのように。
 髪に、肩に、背中に。
 彼がその大きな手のひらを当てたかと思いきや、ゆっくりと優しく抱きしめてくれた。
 さっきとは、また違う感触。
 それだけに、またどきりとする。
「…………」
 少しだけ軽く唇を噛みながら、そっと……彼の背中に手を回す。
 いったい、いつ以来だろう。
 こうして、彼に……触れたのは。
 目を閉じ、少しだけもたれるようにして身体を任せる。
 音のない、静かな部屋。
 ……だけど……今は違う。
 すぐそこに、彼と私の鼓動が大きく聞こえているから。
「……ひとつ……」
「え?」
「ひとつだけ、お願いがあるんだけど」
 いいかな?
 そっと離れて私を見た彼が、少し困ったような……それでいて、照れたような顔を見せた。
 お願い、を彼に言われるときが来るなんて、正直思わなかった。
 ……だけど、最初から決まってる。
 私の答えは、ひとつだから。
「……はい」
 にっこり微笑み、軽くうなずく。
 すると、やっぱり『どう言うべきか』なんて眉を寄せてから視線を外した彼が、小さく咳払いをした。


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