「っ……」
時間なんて、あっけないもの。
時に容赦なく、時に残酷に過ぎてしまう。
3階。
私が押したボタンの階で、なんの間違いも起きずにドアは開いた。
……どうしよう。
やっぱり、降りなきゃ変だよね?
だって彼はここで降りるんだし、私もこのフロアしか押してないんだから。
――……とはいえ。
こんな気まずい状況下で、彼と同じ場所を目指すなんてできない。
だから……せめて。
少しだけ時間を空けて、それからもう1度彼を訪ねよう。
……今度は、ちゃんと心に余裕を持たせて。
詰まってしまわないように、細心の注意を払ってから。
そう思い、彼よりも先にエレベーターを降りる。
1歩。
踏み出してから考えるのは、行き先。
……もし、いるのであれば。
そう。
今だけは田代先生に用があるということにして、ほんの少しだけ手伝ってもらおう。
そうすれば、きっと――……。
ぐいっ
「っ……!」
勢いよく、手が後ろへ引かれた。
強い力。
それもあって、まったく予想してなかったからこそ、身体がそのまま引っ張られる。
「……え……っ」
すぐ、そこ。
ボタンが幾つも並んでいる操作パネルの前に、彼が立っていた。
……でも、それだけじゃない。
その、指先。
それは間違いなく『R』と書かれたボタンを押していて。
次の瞬間、私の目の前でドアがゆっくりとまた閉まった。
「ッ……!」
時が止まるんじゃないか。
そんなことが一瞬頭をよぎったけれど、でも、それは気のせいじゃなかったらしい。
「……せ……んせ……」
自分の声がかすれて、ちゃんと出ない。
目の前にある光景が、よくわからない。
……なんで……?
そんな言葉ばかりが頭を巡って、ぐるぐると今の状況を判断できるだけの意思がちゃんと働いてくれない。
音のない空間。
――……だけど、今は、確かにあって。
目の前に、彼のスーツの色だけがあった。
そして感じる、確かなモノ。
……そう。
いったいどれほどぶりに、感じただろう。
彼の、感触を。
「……っ……」
掻き抱くように抱きしめられ、そのまま身動きが取れなかった。
力強さに驚いて。
だけど……自分は、今すごく喜んでいて。
……うそ、じゃないよね。
ホント、なんだよね?
今は。
そして、これからは。
きっと絶対、夢なんかじゃないんだよね……?
背中に回されている腕の逞しさを感じると、ほんのり涙が滲んだ気がした。
「……もう1度……」
「え……?」
「もう1度、最初からでもいいかな……?」
くぐもったような、少しだけいつもと違う声。
そんな声が耳の近くで聞こえた。
……そして、その表情。
彼の顔がゆっくりと、目の前に現れる。
「何もかも1から、もう1度好きになってもいい?」
「っ……!」
まっすぐに見つめられ、唇が開いた。
真剣そのものの表情。
……だけど、すごく優しい顔。
どうしよう。
私、何も言えない。
「……羽織ちゃん……?」
「わ……たし、……っ……」
肩に置かれている手が、とても温かくて。
強さが、ほんの少しだけ痛くもあって。
……だけど。
だけどそれらすべてが、彼の気持ちそのものを表しているような気がして、いつの間にかぼろぼろと涙をこぼしていたのに気付いた。
いつか、なんて願えなかったこと。
それが今、現実に起きている。
……本当はずっと、ずっとこうなってくれることを願っていた。
でもそれは願うだけが許されることで、実際に求めてはいけなかったんだと思う。
だけど……今。
彼が言ってくれた言葉は、紛れもなく『願い』そのもの。
何も言えずにただ流れてくる涙を拭い、改めて彼を見る。
少しだけ困ったような、心配そうな顔。
……間違いない。
彼、その人。
「……はい……っ」
深く深く何度もうなずきながら、求めるように改めて彼に腕を伸ばす。
ずっと……また、こうして抱きしめてもらえたらいいのにって思っていた。
好きな人。
大切で、たまらない人。
……本当に、私にとって特別な。
「っ……ん!」
表情を緩めて私を見た彼が、強く引き寄せた。
そして――……感じる、唇への温もり。
……久しぶり、なんて思えなかった。
まるで、初めてみたいな。
そんな……彼との、口づけ。
「は……ふ……」
柔らかくて、優しくて。
何度も何度も重ねられる、唇。
……嬉しい。
ううん、それ以上の感情。
「ん……、んっ」
ただ重ねるだけの、口づけ。
でも、なんでだろう。
……すごくすごく、どきどきして堪らなくなるのは。
角度を変えて、何度も。
本当に何度も、求めてくれた。
…………どきどきして、苦しい。
でも、その苦しさが少しだけ心地よく感じる。
だって――……彼は特別な人だから。
私のすべてだと言っても、過言じゃないから。
「っ……は……ぁ」
大きく息を吸い、少しだけ彼にもたれながら……顔を見上げる。
すると、それよりも先に、彼の大きな手が髪を撫でるようにして頬に触れた。
「……今じゃなきゃ、って」
「え……?」
「今、言わなきゃって思ったんだ」
静かな声だった。
でも……でも、ね……?
「……え……?」
「あ……えと……っごめんなさい、その……」
そんな彼を見ていたら、自然と顔が緩んでいた。
優しくて、温かくて。
でも――……。
「……祐恭さん……強引なのに、顔が赤いんですもん……」
「っ……!」
「もぅ……なんだか、…………かわいい……」
「な……っ……」
……そう。
彼の頬が、いつもより少しだけ赤かったのだ。
つい口にしてしまった途端、瞳を丸くして……だけど、少し困ったような顔を見せてくれる。
……こんな顔、見たことない。
それが嬉しくて、なんだか一層特別という言葉が身体に沁みてきた。
「あ。……あの……」
「……ん?」
「『祐恭さん』って呼んでもいいですか……?」
無意識に出た、『先生』じゃない呼び名。
……それで、思った。
ああ、やっぱり私はもう、この人の名前しか言えないんだって。
「……もちろん」
本当に優しい顔だった。
微笑んだ彼が、そのまま……頬から顎に滑らせた手で角度を上げてから、もう1度口づけをくれる。
戻ったワケじゃない。
……だけど、ここから。
もう1度の、始まり。
…………そう。
だって私たちはやっぱり――……運命、なんだと思うから。
私には、彼しかいないって思ったから。
たとえどんな境遇にあっても、諦めずにずっとそばにいたいと願っていたから…………叶ったのが、今。
願いは必ず、叶う。
……その意味が、よくわかった。
夢、じゃない。
現実にちゃんと起きるんだ、って。
だって今日は……奇しくも、私たちが始まった1年の記念日なんだから。
ねぇ、祐恭さん。覚えてますか?
もしも……あの日が来なかったとしたら。
あなたは、この日を覚えてくれていましたか?
1年前の今日。
祐恭さんにとっての特別な場所で、始まった私たち。
初めて抱きしめられて、初めて……キスをして。
大切で、心底好きなあなたに……私はあなたと会えたことで、人生も考え方も何もかもが変わりました。
……だから、今度は私の番。
あなたに教えてもらった沢山のことを、私なりの形であなたに少しでもお返しします。
お役に立てますように。
少しでも、力になれますように。
そんな願いをたっぷり含んだ笑みを浮かべて……あなたのそばに、いさせてください。
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