『嫁ね、あんた』
「よ……嫁?」
『そーよ。嫁。間違いなく嫁』
 土曜日の12時を少しすぎたとき、絵里からの電話に出てしばらくしたら、そんなことを言われた。
 今いるのは、彼の部屋。
 今日はお昼を一緒に食べる約束をしたので、その支度をしている。
 ……だって、家の中にあるモノなら好きに使っていいよ、って言ってくれたんだもん。
 外でごはん食べるのも嫌いじゃないけれど、どうせだったら一緒にのんびり食べれるほうがいいかな、って思って。
 だから、作ることにした。
 といっても大したものでもなければ手がこんでいるわけでもない、ハヤシライスだけど。
 こっそり、トマトもふたつ分入れておいた。
 湯むきして刻んでしっかり炒めて煮込んで。
 そんな状態を経ているから、見た目もわからないし、匂いもしない。
「……おいしそう」
 電話していることを忘れてぽつりと呟いたら、絵里に反応されて慌てて電話に戻る。
『だいたいね、彼氏ンちで洗濯して掃除してごはん作って……で、今は帰り待ってるんでしょ?』
「うん」
『それを嫁と言わずに、なんて言うのよ』
「……それは……」
 嫁。
 そんな言葉を聞くと、どうしても眉が寄る。
 だけど、そうじゃなくてコレでしょという代替案は浮かばない。
 ……お嫁さん、の嫁。
 うー……。
「……嫁じゃないよ」
『じゃあ、女房?』
「一緒でしょ? それじゃ」
 ぐるぐる、とおたまでお鍋の底を混ぜながら呟いたら、あっさり返ってきた言葉。
 なんだか相変わらずの絵里っぷりに、つい笑ってしまう。
「絵里も食べにくる? 沢山作っちゃった」
『けっこーよ。私、今日のお昼はどーしても、とんこつキムチラーメンが食べたいの』
「そうなの? お家で?」
『まさか! ほら、バイパス沿いに新しくできたじゃない。あのラーメン屋さん』
「……あー、そういえばあったね」
 相変わらずのすごいメニュー名に一瞬苦笑が浮かぶものの、電話ごしじゃ伝わらないかな。
 でも、もしかしたら声の調子でわかっちゃってるかもしれないけれど、絵里はそんなところを気にするような子じゃない。
 この間も、学食で『食べるラー油月見豆乳うどん』なんて、すごい名前のうどん食べてたし。
 当然、私と葉月は一応止めたんだけれどね? 本当に食べるの? って。
 まぁ、新しい物に物怖じせず手を出すところは、お兄ちゃんとそっくりである意味うなずけた。
 ちなみに、家に帰って葉月とその話をしていたら、『ああ、アレな』なんてお兄ちゃんがさらりと入ってきたので、内心ああやっぱり似てるんだなって確信したけれど。
『で?』
「え?」
『そろそろ、ちゅー以外のことした?』
「しっ……!?」
 とぷん、と音を立てて、持ち上げたおたまがまた沈んだ。
 鍋底に当たり、デミグラスソースがホーロー鍋の白い鍋肌に模様を作る。
「もぅ、絵里! そろそろそう言うの、やめてよー」
『あら、どうして? 別に今さら、ちゅーしよーがえっちしよーが驚かないわよ。ていうか、むしろその逆ね。心配してんの、こっちは!』
「……心配? 何の?」
『そりゃ、アレに決まってるでしょ? 祐恭先生に触ってもらえなくて、羽織が欲求不満なんじゃないかってことよ』
「ッ……!!」
 電話越しに聞こえた、くす、というまるで待っていたかのようにすらすら出てきた言葉で、目が丸くなった。
 絵里ってば……!
 私、そんなんじゃないのに!
 ていうか、どうしてそんなに楽しそうなんだろう。
 ちょっとだけ、今の私は絵里にとって格好のおもちゃ状態だと気付き、赤くなった頬に手を当てて小さく咳払いする。
 いったい、いつの間に話の流れがこっちに来てしまったんだろう。
 確か最初は、もうじき始まる初めての試験についてだったはずなのに。
「……もう切るよ?」
『あら、何よ。図星だった?』
「違うってば!」
 電話の向こうの絵里の顔が容易に想像できて、つい大きな声が出た。
 ――……とき。
 遠くで聞こえた、ドアの閉まる音。
「っ……! ごめん、またね!」
『え!? ちょ、羽――』
 ぷつ。
 絵里には申し訳ないけれど、慌ててボタンを押して通話終了。
 おたまを持ったまま向かいそうになり、小皿に置いてから――……うぅ、まどろっこしい。
 だって、鍵を開けて入って来たということは、彼しかありえないのに。
 私とは違って、仕事をして帰ってきた人。
 ごはんを作ったのは、彼のため。
 だから、何よりも先に声をかけたいし、かけなきゃいけない。
「おかえりなさいっ……!」
 ぱたぱたと廊下に響いた足音が、まるで子どもみたいだった。
 廊下を走り、角で急転換。
 危うく転びそうになって壁に手を着くと、靴を脱いで上がった彼と目が合った。
「……っ……その……えへへ」
 少しめくれたスカートを両手で直しながら、ゆっくり玄関へ。
 スーツ姿で鞄を持っている姿は、ずっと前から何も変わっていない。
 ……ついこの間とも、ほぼ同じ。
 やっぱり、長年見ていた姿のせいか、仕事のときの彼はこの服装が1番しっくりする。
「……ただいま」
「っ……おかえりなさい」
 待っていてくれた彼の前に両足を揃えて立ってから、ゆっくり見上げる。
 ふ、と微笑んだ彼が口にした言葉は、なんだか妙に身体の奥まで沁みてくるようで、どきりとする。

 ただいま。

 彼にそう言ってもらえるのが、1番好きなんだと実感した。
 待ち侘びて待ち侘びて、ようやく帰ってきてくれた人。
 大切な人。
 大好きな、人。
「すごいうまそうな匂いがする」
「ホントですか? よかったー!」
 隣に並んで、今来たリビングまで一緒に戻る。
 ……途中で。
「わ、わっ!?」
 遠くのホーロー鍋が、まるで溶岩を煮ているかのようにぐらぐらと泡立っているのが見えて、慌てて駆け出していた。
「……うぅ」
 確か弱火にしたはずなのに、気のせいだったのかな。
 火を止めても未だぐつぐつという音が耳に届いて、なんだか急に切なくなる。
 せっかくのお昼ごはんなのに。
 ……せっかく……食べてもらおうと思って作ったのに。
 私、肝心なところが抜けすぎだと思う。
「着替えてくるよ」
「え、あ。はい」
「……昼メシ、だよね?」
「これですか……?」
「うん。まだ食べてない?」
「です」
「それじゃ、一緒に食べよう」
「あ……っ……はい」
 ネクタイを片手で緩めた彼が、微笑む。
 一緒のごはん。
 彼と食べる、久しぶりの――……そう。
 本当に、久しぶりの食事。
「…………」
 小皿に置いていたおたまでお鍋の底を触ると、少しだけこびりついた感触があった。
 ……焦げちゃった。
 味、変わらないといいけれど。
 これ以上お鍋を弄ると、コゲが回らないとも限らない。
 仕方なく、小皿に少しだけ取って味見をすると……うん。
 ちょっとだけ、風味が違う気がする。
 でも、今から作り直すこともできないし……はぁ。
 なんだか切なくて、やっぱり小さくため息が漏れた。


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